2.求婚者は突然に
何もしないことに、決めたのだ。あの日、あの人を殺してから。
フォルモントの王城の、地下。別にそこには罪人が収容されているとか、そういうことではない。どちらかと言うと石造りの冷たいそこは通路であって、非常時に貴い身分の人間を逃がすためのものでしかない。
ぴちゃりぴちゃりと、天井から冷たい水が落ちる。音を立てて流れていく水路の水は、外へ繋がる道順を示すためのもの。もっとも、そんなことを知るのはここが外に続くと知らされている人間のみだけれども。
その地下の、一番奥まったところ。外から最も遠い、上に建つ王城であれば王のいる玉座の間の真下。そこに、一部屋だけ部屋がある。それこそが、マガネの住処だった。
どんがらがっしゃん。
そのたった一つしかない部屋から、何かが崩れるような大きな音がする。
「ああ……」
その部屋の中は、埃っぽくはない。
立ち並ぶのは無数の本棚、奥まったところにはひとりしか座れない小さな椅子と、一人分の食事もまともに乗らなさそうな小さな机、ひとり寝転がれば窮屈な簡素な寝台。
その寝台のすぐ近く、ぎゅうぎゅうどころかぱんぱんに詰め込まれた本棚から本が雪崩れて、落ちた。ぎゅっと詰め込んだらぱーんと弾ける、そういうことである。
その本の山に埋もれた中、わずかに銀色がかって見える白い髪がはみ出していた。
この部屋の主であるマガネは、『蟲』と呼ばれた。
その呼び名は何のことはない、この部屋から出てくることがないからである。王が代替わりして以降彼女は人前に姿を見せず、ただ「そこに蟲が住んでいる」という噂話にだけなっている。ひとり歩きする噂話には尾びれ背びれどころか胸びれまでついているかもしれないが、彼女はそんなものはどうでも良かった。
何もせず、ここに引きこもっている。それが一番、フォルモントのためになるから。
と、そんなお綺麗なことを言いはしているが、本音などものすごく単純である。「何もしないで良いなんて最高」と、そしてそれを本に埋もれて満喫しているところだった。
が、そんな彼女の満更でもない生活は、突然終わりを告げた。
本に埋もれて、うとうととしてきて、ああこのまま眠るのも幸せだな、物理的に本に埋もれるのも最高じゃないか、そんなことを考えた。けれど突如として、ばぁんとけたたましい音がする。
それでも、埋もれた本の中から出るつもりはなかった。つまり、迎え入れるつもりなどなかったということである。
だが。
「おいこら、クソ虫! いるんだろうが、出てきやがれ!」
荒い足音に、誰が来たのかはすぐに分かった。フォルモント解放の英雄様が、こんなじめじめした城の地下に何の用事か。
居留守を決め込もうと、ゆるりと目を閉じる。本のにおいって最高だ、そんなことを思いながら。
「ここか!」
だというのに、引きずり出された。しかも、猫の子よろしく首根っこを掴まれて、ぶらんとぶら下げられる。
いくら体格差があるとは言え、一応は人間だ。さすがに猫の子のようにぶら下げられる趣味はない。
「何をするのですか、コーウェル・シュエット!」
「お前に用があるとかいう物好きがいるから、呼びに来てやったんだろうが。この俺が、わざわざ!」
「はあ?」
じたばたと手足を動かして、何とか首を動かして、不届き者のコーウェルの顔を見ようとする。けれどしっかりと首根っこを掴まれてしまって、彼の顔は見えなかった。
別に腹立たしいだけのコーウェルの顔など見たいわけではないが、唾でもかけてやろうと思っただけだ。いつも彼に纏わりついている女性たちがしないようなことを――といってもどれだけ綺麗な女性に囲まれようが、コーウェルはいつも眉間に皺を寄せて迷惑そうな顔をしているだけなのだけれども。まったく、何という贅沢者か。
先日の式典の時に取り澄ましていた顔は、大いに笑えたが。
「おい、リスイ。本当にコレなんだな?」
「コレとは何です、コレとは! 私にはマガネという立派な名前がですね!」
「こ、れ、な、ん、だ、な?」
「ぐっ……ぐぇっ……! コーウェル、出るのです! さっき食べたばかりのおやつが出る!」
何かを確認しているらしいコーウェルが、マガネの声を無視するようにして、一文字ずつことばを発しながら、ご丁寧にマガネを上下に揺らす。
出る。もう机の上からは綺麗に片付けられてしまっているが、昼のおやつが胃の中から出てきてしまう。
「コウ」
その声には、聞き覚えがあるような、ないような。少し考えてはみたものの、やっぱりない。それでようやく、マガネは目の前にいる誰かを見た。
「ひっ」
熊だ。
いや別にずんぐりむっくりとかそういうわけではないが、一瞬そんなことを考えた。何せその人は、ぶら下げられているマガネよりも頭の位置が上にある。
「熊!」
うっかり、口から出てしまった。
だというのに、目が合っただけでその人は嬉しそうに笑う。その顔立ちがあまりにも自分の好みすぎて、心臓が一度大きく跳ねた。
いや待て、落ち着け。顔が好みだからなんだというのだ。
と、そこまで考えてから、それがどこかで見た顔であることを思い出す。
「ああ……マガネ様が俺と視線を合わせてくださるなんて」
「は?」
「これが望外の歓びというものですか、コウ」
「知るかよ。リスイお前……心底気持ち悪いな」
確か彼は、イフェイオンの護衛だ。そのリスイが、嬉しそうにしている理由が分からない。
そして彼は、何を思ったからマガネの手を取った。まだぶらんと、コーウェルにぶら下げられたままでいる、マガネの手を。
「な、なんです」
「俺は今日、貴女に求婚に参りまして。ああ、王からは許可をいただきました」
「はい?」
意味の分からないことを言う前に、下ろしては貰えないか。
そう思いながら目の前のリスイを見れば、彼はやけに真剣な顔をしている。そういう顔をされると心臓に悪いので、心の底からご遠慮願いたい。
コーウェルの腕はびくともしない。マガネは一応小柄とはいえ、成人している。だというのに腕一本でぶら下げられるとはどうなっているのか。貴方は腕力お化けですかと、そう言ってやろうか。
「どうか俺と結婚してくださいませんか、マガネ様」
そんなことをつらつらと考えていたところで、耳に届いたそのことば。
けっこん。けっこん。まさか血痕ではあるまいし、血痕してくださいとか意味が分からない。つまり何かが間違っている。
ああそうか、この人は私と結婚したいのか――って、はい?
リスイを見た。身を捻ってもコーウェルは見えないまま。そして結局、マガネは叫ぶしかなかった。
「私、貴方のこと、一切存じ上げませんが!」