19.鉄薔薇宰相と教団長と
最悪の気分を引きずったまま、ニネミアのいる彼女の執務室へと向かう。何度となく袖口でごしごしと唇を拭ってみても、イベリスの唇の感触が消えていかなくて気持ちが悪い。
あの男が耳元で言った通り、確かに初めてのことではあった。そもそもリスイとは夫婦といっても、寝室とて別だ。リスイとマガネの間に何があるわけでもなく、夫婦らしいことなど何もしていない。イベリスはそれを知っていたのかどうなのか――噂を信じているのならば、リスイから拒絶されていると思っているのか。
宰相であるニネミアの執務室に近付くにつれ、文官の数が増えていく。とはいえ文官もアルドルトが王であった時期よりも数は減っていた。それでも何ら滞ることがないのは、文官として残っているのは有能なものばかりだからだろう。
その辺りの人事については、マガネは関与していない。
閉ざされた扉の前に立ち、深呼吸を一回。そして意を決して、扉を叩いた。
「ニネミア様、マガネです。入ってもよろしいですか」
「あら、遅かったわね。入ってちょうだい」
開いた扉の向こう、どうやらニネミアは顔を上げることもなく返答をしていたらしい。真正面に見える扉と同じ色をした大きな机のところで、彼女は羽ペンを手に書類と向き合っていた。
「テオ?」
「や、先日ぶり。宰相閣下に呼ばれてね、ついでだから手伝ってたとこだよ。閣下ってば僕が来たら人払いしちゃうんだもの」
執務室の中には、ニネミアとテオしかいなかった。常ならばこの執務室には宰相補佐官と補佐官見習いがいるはずだが、そんな彼らの机のところには誰もいない。
テオはいつもの教団服のまま、来客用のソファに座っている。ごろりとソファに横になっているだらしない姿だが、ニネミアはこれに許可を出したのだろうか。テオのことだから、気付けばこうなっていたということも有り得る。
「暇なら手伝いなさいって、人遣いが荒いんだから。これ、僕が見ても良い書類なのかな」
「見られて困るものは渡さないわよ」
ニネミアが顔を上げて、羽ペンを置いた。彼女は椅子から立ち上がり、足音を立てて来客用のソファへと近付いていく。そしてだらりと寝転がって書類を見ていたテオの手から、書類を取り上げた。それから、ソファの前にあるテーブルに置かれて何枚かの書類も。
それを自身の机の上に戻し、ぱんぱんとニネミアは手を叩く。
「少し休憩にするわ。テオ、助かりました」
「お構いなく。麗しのニネミア様のためでしたら喜んで」
「あら、人遣いが荒いと言った口でそんなことを言うのね?」
「それはそれ、これはこれ。僕が面倒くさいのと、貴女が麗しいのとは、また別の話ですから」
むくりとソファから起き上がり、テオが座り直す。彼にぽんぽんと隣を叩かれて、マガネは促されるままにそこに座った。ニネミアもまた向かいのソファに座り、彼女はゆったりと足を組む。
ニネミアは今日も、変わらず男性の服装だった。
「うまくやれているようね?」
「それは主にどこら辺に関してなのです」
「貴女の結婚に関してと、ミゼリィに関してかしら?」
確かに計画は上々と言えば上々だろう。あの様子からして、ミゼリィはマガネの流した噂を何ら疑っていない。もっとも彼女の場合は、噂が真逆であったとしても同じように振る舞いそうなものだが。
「ああ、教団にも意見書が届いてましたよ。可哀想なリスイの真実の愛のために、蟲との離婚を認めて欲しいって。ひとりになったときに、げらげら笑っちゃった」
その光景がありありと思い浮かべられて、マガネはついため息をついてしまう。フリュイテ教団本部の教団長室のソファか、あるいは教団長の自室で、寝っ転がって腹を抱え、足をばたばたさせて笑うテオ――絶対に、こうだ。
「ミゼリィ・アグリフォリオは、すっかり悪女の手から愛する人を救う自分に酔っているようね」
「そのようです。扱いやすくて助かります」
まるで、物語だ。自分がそういう風に操られているとも思わないで、ある種の悲劇めいた自分に酔っている。リスイのあの殺しそうな視線も、彼女の中ではマガネに対する憎悪として処理されているだろう。
それならばそれで、新たな噂の火種になる。せいぜい大掛かりに燃やしてもらえばいい、ミゼリィは自分のドレスの裾がすでに燃えていることにも気付かないだろうから。
そしてその火はそのまま、蔦に燃え移るのだ。計画が第二段階に移行すれば、ミゼリィの父親、つまり現在のアグリフォリオ家当主の首にも手がかけられる。
「そうやって言う割に、浮かない顔ね?」
「……イベリスの方と色々とあったのです」
目下の問題は、こちらなのかもしれない。
ミゼリィと現当主は排除できたとて、イベリスはどうだろうか。あの男はうまいこと立ち回って、自分にだけは火の粉がかからないようにするだろう。それこそ、真っ先に恭順の意を示したあのときのように。
「ああ、あの裏切者。君、大丈夫だったの?」
「何がなのです」
「あの男にしたら、君は暇つぶしのための玩具だろうから」
テオの言うことは、反論はできない。唇に感触が蘇りそうで、無意識のうちに袖口でマガネは自分の唇を拭っていた。
「最高に腹立たしくて気持ち悪いのです」
「君がどう思っていようと、あの男には関係ないだろうからね」
イベリスはどこまでも、自分が中心なのだ。結局、自分が面白いのかどうか。自分の退屈を紛らわせられるかどうか。判断基準はそれしかない。
あの裏切りも、その方が面白いと思ったのだろう。だから、本人には裏切ったようなつもりはない。より面白くなりそうな行動を取ったら結果としてそうなったとか、そういうことになるのか。その思考回路はマガネにはさっぱり理解できないし、一生理解するつもりもないけれど。
「ただ、今回はどうも邪魔をするつもりはなさそうなのですよ」
イベリスの言った不用品が誰のことを指しているのか、分からないわけではない。ある意味で自分の立場を脅かし、何をするか分からないものは彼にとっては邪魔なのだろう。もちろんその「何をするか分からない」が彼にとっての楽しみであれば話は別だろうが、自分の邪魔をするものはイベリスにとって不要だろう。
「あら、そうなの? 自分の妹のことなのに」
「あの男が妹だなんだに拘るわけがないですからね。自分の近しい位置にいる動かしやすい駒、その程度のことしか思ってませんよ」
それはつまり、駒として使い道がないのならそれまでということ。家族だからとか、妹だからとか、そんなものは彼にとって踏み止まる理由にはならない。
「それで? 何で邪魔するつもりがなさそうだって?」
「ネリネ様の婚約者でいることに、それほど必要性を感じていなさそうなのです」
イフェイオンが即位した今、ネリネが女王になる可能性は低い。何かしらイフェイオンにあったとて、その次に即位するのは既に宰相としての実績があるニネミアになる。イフェイオンもニネミアも、そのつもりでいるのは確かだ。
「ただ……」
貰ってやろうかと、イベリスはそんなことを言った。他と婚約をしている身でそんなことはできないのだから、彼がマガネと結婚するためにはネリネとの婚約解消あるいは破棄は必須である。
あの貰ってやろうかという言葉を結婚と取るならば、ではあるが。彼の用意した虫籠に入ってやるつもりなどマガネにはないのだが、実力行使に出られると少々厳しい。
「少々、風向きと言うか……リスイと離婚するわけにはいかなくなってきたのです」
そう考えると、身を守るためにもリスイと結婚をしていて、リスイの傍にいるというのは、理にかなっているのだ。イフェイオンの護衛という立場を考えても、マガネを保護するのならばリスイが最適ではある。
「それは別に構わないと思うわよ。というより、私やお兄様にしてみれば、マガネとリスイが結婚していてくれる方が都合は良いのだもの」
「それは、私が誰かに利用されないと言う意味ですよね」
「ええそうよ。もっとも、貴女はイベリス・アグリフォリオと結婚したところで、そう簡単には使われてやらないでしょうけれど」
「それはそれでイベリス・アグリフォリオを悦ばせるだけの気がするのです……」
囲われたり結婚したりしたところで、マガネはそう簡単に使われてやるつもりはない。ただ、イベリスは何をするのか分からない部分はある。
テオはつまらなくなってきたのか、欠伸を噛み殺していた。
「ところで、朗報をひとつ。ネリネはイベリスとの婚約解消に前向きよ。ただし、条件があるそうだけれど」
「条件?」
「貴女に直接話すと言っていたわ。というわけで、テオ」
そんなテオにニネミアが水を向ければ、テオはぴしりと居住まいを正す。正したところで、今の今までしていただらしない姿勢がなかったことになるわけではないのだが。
「はい、何でしょう?」
「ネリネが婚約解消となったら、滞りなく話を進めてちょうだい。教団の中にはアグリフォリオの息がかかっている者はいるけれど――貴方なら、黙らせられるわね?」
アグリフォリオの当主は、イベリスとネリネの婚約は継続させておきたいところだろう。ミゼリィがリスイにこれだけ熱を上げていて噂になっている以上、ミゼリィをイフェイオンの正妃にする望みは薄い。
未だ、蔦の権力は強いのだ。とはいえ、かつてほどの勢いはない。
「お任せを。僕はそのために教団長なんて立場に置かれているわけですから」
頼もしいわとニネミアが笑う。テオはそれに、少し照れたような顔をしていた。そんな彼の顔を横目で見ながら、珍しいものを見たなと、そんなことをマガネは思ったのだった。