18.触らないでいただけますか
イベリス・アグリフォリオという男に、マガネもコーウェルも良い印象があるはずもない。見た目は貴公子のようで、しかもあのアグリフォリオ家の嫡男で、婚約者は王族であるネリネ・エグランディエである。もうこれだけ並べても、ろくでもない男だというのがよく分かる。
コーウェルはマガネのことを憎んで恨んでいるが、イベリスについても蛇蝎の如く嫌っていると言っても過言ではない。マガネに対してのとはまた別の方向性の悪感情だ。
「良いな、その目は。あのとき手土産にお前を連れ帰って、囲っておけば良かったか」
嬉しそうな顔をして、言っていることはとんでもない。
イベリスが裏切ったとき、マガネは彼を追った。そのときに彼は言い放ったのだ、「お前も僕と一緒に来たら面白くなる」と。
「相変わらず、気色の悪い男ですね」
「ああまったく。相変わらず趣味の悪い男だ」
普段は絶対にマガネに同意などしないコーウェルも、イベリスに対してだけは考えが同じになる。あの裏切りを経験しているのだから、当然だ。
解放軍にいた人間で、イベリスに好印象を持っている人間などいない。彼のせいで友を、親兄弟を、失ったものもいる。それでもイベリスが生きながらえているのは、そんなことをしておいて、解放軍が城を奪ったときに真っ先に恭順の意を示したからだ。
従うと、そう頭を下げたものを斬ることはできない。なぜならイフェイオンは『慈悲深い春風王』だから。その名声を高めたもののひとつが、イベリス・アグリフォリオの恭順を受け容れたことでもある。
「俺はもう行く。じゃあな」
「あっ、ちょっと、コーウェル・シュエット! 貴方、私に押し付けていなくなるつもりですか!」
「そうだが何か? まあせいぜい頑張れよ、クソ虫」
もう付き合いきれないとばかりに、コーウェルはマガネを置いてさっさとどこかに行ってしまった。とはいえリスイの動向も見ておかなければならない以上、マガネはここから動くわけにもいかない。
「おや、邪魔者が自らいなくなってくれるとは」
「貴方もいなくなってくださったら、私は喜ぶのですよ」
「そうつれないことを言うものではないよ。僕とお前の仲だろうに」
「どんな仲にもなったつもりはないのです」
柔らかく笑んだイベリスが、するりとマガネの頬を撫でる。何度となく上下に行き来するイベリスの人差し指の感触が、どうしようもなく気持ち悪かった。
「触らないでいただけますか」
だから、その指を掴む。反対向きにへし折ってやろうかとは思ったが、残念ながらマガネの腕力というのは、イベリスの指を折れるほどのものでもない。
こういうときばかりは、ひ弱な部類に入る自分の腕力にため息が出る。もっと、それこそリスイのような体格であったのならば、簡単にイベリスの指どころか、腕だって折れるだろうに。
「ああ、良いなあ、本当に。この退屈な国で、お前は僕を楽しませてくれる」
「恵まれた者特有の傲慢なのですよ」
「だから周囲に気を遣ってやれと? お断りだよそんなのは」
イベリス・アグリフォリオはアグリフォリオに生まれ、そして何もかもを与えられてきた。何もなければ彼は王配となっていただろうが、この男が王配になっていたらと思うとぞっとする。
この男は、その恵まれた環境が「つまらない」のだ。何もかもがつまらないから、自分が面白いと思えることをしようとする。しかもその面白いが人を傷付けるのだから、どこまでも質が悪い。
「我が愚妹は護衛殿を欲しがっているが、どうだ。離婚が成立したら、僕がお前を貰ってやろうか?」
「反吐が出るのです」
もう一度、イベリスの手がマガネに伸びてきた。何が楽しいのかマガネの頬をまた指で擦り、笑みを浮かべる。はたから見れば愛おしいものを見ているような顔に見えるのかもしれないが――マガネにとってはそれが、心の底から気持ち悪い。
この男は前からそうだ。裏切った後からその本性を見せて、何かとマガネに接触しようとしてくる。外に出るということはこの男とも接触する可能性があったということを、忘れていたわけではない。
「だから、触らないでいただけますか!」
「お前の頬は相変わらず赤子のようだなあ」
「貴方はいちいち言い回しが気色悪いのですよ!」
今度は手でイベリスの手を払い除けた。結構な力で払い除けたというのに、彼は痛がるような様子もない。
「また僕と遊んでくれるんだろう?」
「お断りなのです。この、裏切者」
「あの瞬間は最高だったよ。それまで笑いをこらえてお前達に賛同している振りをしたかいがあったというものだ。あれは僕の今までで最高の暇つぶしだったね」
賊に追われて怪我をした彼を、コーウェルは見捨てなかった。マガネは捨て置いても良いと思っていたが、旗印であった彼がそうすると言ったのだから、それに従った。コーウェル曰く「俺の一番の間違いはイベリスを助けたことだ」と言っていたが、助けなければ助けないで、おそらくイベリスは次の手に出ただろう。
あれすらも自作自演であったということは、後で明かされたことである。まったく恐ろしい演技力ではあるが、それに騙されたというのは不快でしかない。
「イフェイオンが即位して、またつまらなくなった。ネリネが女王になるのなら面白そうだから婚約者の立場でいたが、その可能性も低くなってきた今、こだわる必要もない」
「どうぞ勝手に家の中で暇つぶしでも探していてください。こっちは貴方と関わるのなんて御免なのです」
家の中から出てくるなと言外に言えば、イベリスはまた笑う。それからぐいっとマガネの手を引っ張って、自分の方へと引き寄せた。
これは他から見たらどう見えているのだろうか。マガネがイベリスに抱きしめられているように見えるのだろうか。事実、イベリスの手がマガネの背中へと回っている。
「離すのです!」
「ああほら、護衛殿がこちらを見ているな? お前が我儘を言って手に入れた、結婚相手が。お前も僕と通じているとなったら、困ったことになるかもしれないな?」
ぐいぐいと押してもびくともしない。ひょろりとしているように見えるのに、リスイに比べたら細くて厚みもないのに、それでもイベリスを動かせない。
とにかく、気持ちが悪かった。リスイに「抱きしめてください」と言われたときには、そんなことは思わなかったのに。あのときリスイは本当に自分からは何もせず、ただマガネに抱きしめられるがままになっていた。
「私が貴方と通じているなんてもの、誰も信じたりしないのです。蟲がアグリフォリオを嫌っているのは、有名な話ですからね!」
「ああ、だからわざわざ愉快な噂話にしておいたのか。ミゼリィが結婚を望んでいたリスイ・ナハトヤール・ホロロギオルム、と」
「さあ、説明する義理はないですから!」
ようやくイベリスが押しのけられそうだとなったところで、イベリスの腕がぱっと離れた。勢いあまってふらついたマガネの腰を取り、そして顎に手をかけて上を向かせる。
そしてイベリスの顔が近付いてきて――何をされているのか分かった瞬間に、マガネは彼の顔を思い切りひっぱたいていた。
ぱんっという乾いた音が響く。そうして離れたイベリスは、気にした様子もなく笑っていた。
「おっと」
「な、な、何をするのですか! 気持ち悪い!」
唇に残ったような感触が気持ち悪い。イベリスが満足げに舌なめずりなんてしているから、尚更に。
ここは暗がりで、それほど目立つ場所ではないとはいえ、こんなところで何をしてくれるのか。嫌がらせをするにしても、程がある。
「護衛殿から見えたかな、どうだろうな。せいぜい楽しませてくれよ、蟲。ついでに不用品の処分も手伝ってくれるのなら、それ以上のことはない」
笑っているイベリスの肩の向こう、イベリスから距離を取ったマガネからは中庭の様子が見えた。
リスイは立ち上がっていて、今にも殺さんばかりの目を、こちらへ向けているような気がした。ああ、最悪だ。本当に最悪だ。
イベリスは「まさか初めてだったか?」などとマガネの耳元で告げて、そして去っていく。「ねえ、リスイ? どうなさったの?」というミゼリィの能天気な声が、今だけは羨ましかった。