17.あの方は、口はお上手なのですよ
ネリネと会う日も、リンザールと会う日も、都合がついた。ネリネはともかくあのリンザールがよくもマガネと会うことを了承したとは思うが、三年が過ぎて少しは落ち着いたとか、そういうことなのだろうか。あまり彼の性格からして、そういうことはなさそうだけれども。
出がけにリスイは「本当に一人で大丈夫ですか」と言っていたが、別にマガネは幼い子どもではない。一人で城に行って帰るくらいのことは、前にもやっている。
そもそも、あまりリスイといるところを見られても困るのだ。「一緒にいるのなら邪険にする演技をして欲しいのです」と言っただけでリスイは今にも死にそうな顔をしていて、「やれと言われればやりますが」と小さくぼそぼそと言っていた。
できなくはないが、やりたくはない。多分、そういうことだろう。
「おい、あれ……」
「蟲だろう。何で外にいるんだ」
地下通路とは違って、城の地上部分には人がいる。詰めている文官や武官、それに行儀見習いとして上がっている貴族の令嬢、使用人。そういう人々の目に、マガネは晒される。
それだけで、人々はさざめくのだ。「どうしてここに蟲がいるのだ」と。
「嫌だわ、どうして……」
あからさまに顔を顰めるようなことはないが、貴族の令嬢は手にしていた扇子で顔を隠す。お前の顔など見たくもないと、そういう意思表示をするように。
こういう扱いは、慣れている。今更何を思うでもない。
こうなるようにマガネが噂をばら撒いたのだ。あの解放戦争の先王殺しは、先々王殺しは、マガネの主導であるのだと。醜い蟲がファードを唆し、最後にはファードも殺したのだと。そんな蟲からフォルモントを守るべく、イフェイオンは蟲を地下に幽閉した。
そういうことに、なっている。
「無理を言って結婚したとか、護衛殿も災難だな。護衛殿なら、貴族のご令嬢とも結婚できただろうに」
「陛下もどうして蟲に許可なんて出したんだか」
「蟲が陛下を脅したらしいぞ。ほら、先王陛下と先々王陛下のこともあるだろ」
ばら撒いた噂は、きちんと広がっているらしい。調べたところで噂の出所など分からない、人々は分かりやすい噂に飛びつくのだから、何も難しいことはない。
「いたっ」
何かがマガネの頭にぶつかった。血は出なかったが、恐らくは石か何かを投げられたのだろう。どこからかくすくすという笑い声が聞こえてきて、おそらくはその集団がマガネに投げたのだろうことはすぐ分かる。
狙って頭にぶつけられたのならば、なかなかのコントロールだ。もっとも、偶然という可能性の方が高いけれども。
「……これだから、嫌になるのです。ああ、帰りたい」
それでも今日は城に来なければならなかったから、城に来た。リスイがミゼリィに会うとも言っていたし、その状況を確認したいというのもある。それからニネミアのところに行って、ネリネと会う日について算段を立てなければならない。
だというのに、これだ。城に入ってそれほど時間は経っていないというのに、あっという間に悪意に覆われる。
「何をしけた面してやがる、クソ虫」
「コーウェル・シュエット」
背中を丸めて歩いていたところで、ふっと影が差した。マガネの前に好んで立つ人間など、それほどいない。人はどちらかといえば、マガネが歩いていれば嫌そうに道を開ける。
「何故、ここに?」
「お前が言ったんだろうが、リスイとミゼリィ・アグリフォリオが通じている報告をテオにしろって」
つまりコーウェルも、考えていることはマガネと同じということだろう。おそらく、目的地も同じ。リスイが職務中に呼び出される形でミゼリィに会うはずの、開放されている城の中庭――ニネミアが管理している薔薇の庭とは違う、城の中央に位置する薔薇のない庭の方だ。
職務中に呼び出されて、わざわざイフェイオンの許可を得て、ミゼリィに会いに行く。それを見て、人は何を思うのだろうか。
「今なら、面白いもんが見れるぜ」
どうせ元々、コーウェルの言う《《面白いもん》》を見にいく予定ではあったのだ。
ただ、どうしてか気が重い。どうしてだか、心の中でもやもやとしたものが立ち昇っている。むしろそうしてくれなければ困るのに、それを見たくないとも思ってしまった。
「はは、良い面。お前が傷付いた顔してんのは、溜飲が下がるってもんだ」
「貴方はそうでしょうね」
「俺の父を俺に殺させたんだ、この程度で済ませてやってるだけありがたく思えよ」
果たして、傷付いた顔などしていただろうか。元々これは、マガネが言い出したことなのに。自分で言っておいて自分で傷付くとは、まったく、どうかしている。
殺してやりたいと口にしながらも、コーウェルはマガネを殺さない。「殺せない」という言い訳をして、マガネが生きていることを認めている。
「貴方が冷静で、理性的で、助かるのですよ」
「そうだろうな」
そうでなければならないから、生きていても赦してやる。
コーウェルには、そういう冷静さと理性があるのだ。マガネを殺してしまえば困るということを、彼はよく分かっている。自分の感情とかそういうものよりも、優先すべきものがあると分かっている。
これは彼を厳しく育てた、先代の将軍のおかげとも言えるだろう。先代の将軍も、人間としてできた人物であった。けれどその評価と、戦争で殺すか殺さないかは、また別の話なのだ。あの解放戦争ではどうしてもコーウェルに彼の父親を殺させなければならなかった、それだけだ。
「そうじゃなきゃ、とっくにお前なんざ殺してる」
コーウェルはマガネと並んで歩くつもりなどないのだろう。さっさと前へと進んでいく。その背中を追いかけるために、マガネは少し走るようにしなければならなかった。
こういうときに、リスイは気を遣っていたのだということを知る。彼と歩く時は、マガネは小走りになるようなことはなかった。
相変わらずのひそひそ声を聞き流して、目的地である中庭へと出る。噴水を中心にして、動物の形に剪定された木々が並んでいる。ちょうど花の時期であるので、小さな白い花が動物をぽつぽつと彩っていた。
そこに、ふわふわとした金色の髪を靡かせる女性がいる。噴水から少し奥まったところ、影になっていて誰もからは見えない、けれど少し覗き込めば見える場所にあるベンチに、女性とリスイが腰かけていた。
彼女の着ているドレスは精緻な刺繍が施されていて、金の糸でされた刺繍が陽の光に当たってきらきらと輝いていた。おそらくあれは、東の朱華帝国から運ばれてきた織物だろう。その値段は、あまり考えたくはない。
「ねえ、リスイ? 手を取ってはくださらないの? 私の手を取れるなんて、男性にとっては栄誉なことでしょう?」
「そうですね。ですが私は、結婚している身ですので」
恋人たちの秘密の逢瀬、というものに見えなくもないだろうか。
蟲の我儘で結婚させられてしまった憐れな青年と、それを救おうとしている善良なお嬢様。頬を紅潮させてリスイにしなだれかかり、やんわりと制止されている。久しぶりに姿を見たが、彼女は相変わらずらしい。
「あの蟲に無理矢理結婚させられたんでしょう? お可哀想なリスイ様。そうだわ、私がお兄様にかけあって、教団にお話をして差し上げるのはどうかしら。意に沿わない結婚は申告をすれば、教団が離婚許可を出してくれますもの」
確かに無理矢理の結婚は、聖フリュイテの教義に反している。けれど散々政略で王族に絡みついてきたアグリフォリオ家の令嬢が言っても、そんなものに説得力はない。
ならば、自分たちはどうなのだ。もちろんアルドルトのように、一途な愛であるとした場合もあるだろうけれど。それでも、アグリフォリオにとっては正妃だろうが側妃だろうが、自分たちの権力のための駒でしかない。
「聖フリュイテ様は一途で真実の愛を得なさいと仰るもの。私と貴方こそ、一途で真実の愛でしょう?」
「俺はそれを口にはできませんから、ご容赦を」
リスイは決定的なことは口にしない。うまいことやっているものだとマガネが感心している横で、コーウェルが笑う声がした。
「はは、面白いことになってるな。あいつに女たらしの才能があるとは思わなかった」
「あの方は、口はお上手なのですよ」
「どうだか」
散々マガネに色々と言っているのだ、口が上手い以外の何物でもない。
ミゼリィがリスイの手を取ろうとして、リスイはそれをするりと避ける。「貴女の立場が悪くなってしまう」とか、そんなことを言いながら。
「おや、英雄様と蟲がお揃いとは。それほど親しかったとは知らなかったな」
背後から、足音がした。それから、聞きたくない声も。
「我が愚昧のことが気になるのかな? 我が妹の一途な愛を横から奪った、醜い蟲は?」
そこにあるのは、ミゼリィと同じ金の髪。色彩が同じなのは、彼らが同腹の兄妹だからに他ならない。そもそも貴族は一夫一妻――だから、異母兄弟にはなりようがない。
裏切者。マリアンデール平原が地獄になった、すべての原因。
「……イベリス・アグリフォリオ」
貴公子然とした男の名を呼べば、彼はその顔に甘い笑みを浮かべた。そして、マガネの隣ではコーウェルが盛大な舌打ちをしていた。