16.地獄の底で、貴女に出会った
「ああ、良いですね。そういう貴女だから俺は貴女が好きで、どうしても欲しかった」
「リスイ」
ぎゅうと彼が手を握る。痛くはない、強くもない。マガネでも振り解けるほどのものではあったが、振り解こうとは思わなかった。
「敬語、要らないのです。様も要りません」
「駄目です、これは俺が踏み止まるための枷ですから」
リスイはいつだってマガネに遜る。それは今までずっとどうかと思っていたことで、正直なところをマガネが述べれば、リスイは困ったように笑っていた。
握った手は、離れない。
「枷?」
「ええ。こうしないと、俺は貴女にひどいことをしそうですから」
ひどいこと。
リスイは何を指して、ひどいことと言うのだろう。以前も言っていたが、彼の言うそのひどいことの内容が、マガネにはさっぱり思い浮かばない。
「マガネ様も、敬語でなくて構いませんが」
「私のこれは、もう癖のようなものなのですよ。三年も馬鹿のふりをしていたら、染み付いてしまったのです」
「そうですか。そういう喋り方の貴女も可愛らしいので、俺は構いませんが」
「顔が! 近いです!」
ずいっとリスイに顔を近付けられて、マガネはあわてて顔を背けた。毎日同じ屋敷にいればその顔に慣れるかといえば、そういうわけでもない。好みの顔なのだ、やはり心臓は跳ねる。
それでも、繋いだ手は離れない。そのまま手を繋いだまま黙り込むというのも奇妙な状況で、けれど自分から繋いだ手前、それを離して良いものかも分からない。そうしてぐるぐると考え込んでいると、リスイが「はは」と声を上げて笑った。
その笑い声に彼の顔を見れば、八重歯を見せてリスイが笑っていた。そうして笑うといつもより子供っぽいのだなと、自分の口調のことなど棚に上げて思ってしまう。
思えばリスイがこんな風に笑うところを見たのは初めてかもしれない。いつもの彼の笑いは、もっと怖いと感じるものか、あるいは瞳が笑っていないかだ。
「少しは知っていただけましたか、俺のこと」
「そう、ですね」
「俺だけ一方的に知っているのも、寂しいものなので。ですから、俺は嬉しいです」
寂しいだなどと、思っていたのだろうか。背中を向けて、目を背けて、マガネは彼について何も知ろうとしなかった。
寝台の上で隣同士、その距離はひどく近い。それでも逃げようとは思えず、ただじっと彼の顔を見ていた。相変わらず眼福ではあるが、今は少し落ち着いている。
「マガネ様、俺は何をすれば良いですか。ミゼリィ・アグリフォリオについては、お望みの通りに。でも俺は貴女を裏切ったり捨てたりしません」
そう告げて、リスイはほんの少しだけ眉を下げる。
「俺のことも捨てないでいただけると、俺は嬉しいですが」
「……諸共に落とすと、分かっていたので?」
「いいえ? これです。手を繋いでいたら伝わってきますよ、俺には」
マガネの考えていることは、リスイにすべて聞かれている。うるさくはないのだろうかと考えていれば、またリスイが苦笑した。
「貴女以外は心底うるさいですし、嘘も多いので、触りたいとも思わないのですが。貴女の心の声は心地が良いので」
それは、どういう理屈なのだろうか。マガネは人の心の声など聞こえたことはないし、リスイの思考はまったく分からない。
「ああ、そうだ。将軍にも協力を要請しましょうか」
「あの人に私絡みのことで何かを頼むのは、コーウェル以上に難しいのですよ。本気ですか?」
「俺は本気です。確かにコウの方が恨みが深くとも、彼は基本的に判断するときは冷静で理性的ですからね。だからこそ貴女も、将軍ではなくコウを英雄に選んだのでしょう?」
コーウェルはマガネを殺さない。それは、殺してはならないことが分かっているからだ。今マガネを殺してしまえば、イフェイオンの治世に弊害があると分かっているからだ。そこがコーウェルの理性的なところであり、そして冷静なところでもある。
けれど、リンザールはそうではないのだ。リンザールの方が直情的なところはあり、ともすれば彼はマガネに刃を向けるだろう。
「ですが今回のことは、将軍にも利があります。何せ将軍は、ネリネ様の婚約を解消なり破棄なりさせたいわけですから」
いずれアグリフォリオ家は潰さねばならない。それがマガネの、やり残していることなのだから。
いつまでも絡みつくなと、ファードは忌々し気に言っていたものだ。けれどその蔦は戦争の時に切り落としてしまうことができず、そのまま残ってしまった。
これは、マガネに残されたやるべきことか。ファードを殺して、静かにしていようと思っていたけれど。
「あの、リスイ」
「何でしょう」
「貴方、私とどこで会ったのです?」
リスイはマガネのことを知っていた。けれど、マガネは彼とどこで会ったのかを覚えていない。
「……マリアンデール平原の戦い。覚えておいででしょう」
その言葉に、苦々しいものが込み上げてきた。
忘れるはずがない。忘れられるはずがない。解放戦争において、最悪の犠牲者を出した戦いだ。そもそも事の発端は、情報がすべて先王側に流れたことにある。
「イベリス・アグリフォリオが裏切った、あの戦いですか」
「そうです。イベリスの裏切りにより、情報が先王側に流れた。結果として部隊は分断され、孤立。それぞれが蹂躙されて壊滅の憂き目にあいました」
イベリスはそこまで、解放軍の側にいた。アグリフォリオの人間ということで警戒をされていたが、彼はそこに至るまではファードのために尽力し、そして誰もが警戒を解いていった。けれどその警戒が解けた瞬間に、彼はそれを狙っていたかのように解放軍を裏切った。
その結果が、マリアンデール平原の戦いの、解放軍の大敗だった。あれがなければ犠牲者はもっと少なかっただろうし、解放戦争も長引きはしなかっただろう。
「そもそも傭兵も多かったですから、イベリスに買収された者も多い。そう――皆、死んでいった」
地獄の底。
そう言われてマガネが思い浮かべるのは、蹂躙された後のマリアンデール平原だ。分断されて孤立している彼らを、マガネはその時に救うことはできなかった。お前が飛び込んだところで意味はない、それより終わった後のことを考えろ。ファードに命じられたのはそれだった。
コーウェルはその時、イベリスを追跡していた。リンザールはファードとイフェイオンを守るために後方にいて、テオはそもそも戦いには参加していない。だから彼らは、生き残っている。もしも彼らのうち誰かが前線にいたのならば、解放軍は反乱軍のまま終わったかもしれない。それだけは、不幸中の幸いだったのか。
「ですが貴女は、そんな地獄と化したマリアンデール平原で、たった一人駆け回ったでしょう。遺品を集めて、生存者を探して、血塗れになりながら」
誰か生きていないかと、マガネは屍の積み上がるマリアンデール平原を駆け回った。「生きているものはいないか」と、そう叫びながら。
「俺はそこで、貴女と会いました。地獄の底で、貴女に出会った」
「まさか」
「たった一人、生存者がいたのは覚えておいでですか」
救えたのは一人だけだった。それ以外はすべて、失われた。
「忘れるはずが、ないのです」
その一人はどうなったのだろうと、考えなかったわけではない。その後の戦いで命を落としていたのなら、マガネのしたことは無駄だったのだと、そんなことを思いながら。
「俺は、貴女が救った、そのたった一人ですよ」
無駄ではなかった。生きていた。
たった一人しか救えなかった罪悪感はある。けれどその救ったたった一人が、今はマガネの目の前にいる。
「俺はどちらかというと裏工作なんかは苦手です。でも、貴女を手に入れるためには色々とやりました。貴女ためなら、何だってします。あの時俺は貴女に救われて、何としても貴女が欲しくなったので。俺は、そういう男です」
何か特別なことをしたわけではない。ただ、生きている人を探したかった。誰か生きていてくれないかと、そんな祈りにも似たものを抱えて駆け回った。遺品だけが増えていく中で、ようやく屍の山の中から返答があったのだ。
彼は、岩に凭れかかるようにしてそこにいた。傷だらけで、血に塗れて、べったりと張り付いた髪で顔は見えなかったし、そもそもそんなものを確認する余裕はなかった。生きていた、生きていてくれた、そう思いながら肩を貸して、死なないでくれと願って、連れて戻ったのだ。そして彼は命を繋いだと、それだけは聞いた。
あの時、何を考えていただろうか。あの時、リスイはマガネの心の声を聞いたのだろうか。
「貴女から歩み寄ってくださったのなら、遠慮は要らないですよね」
これまでも遠慮をしていたようには見えない、というのは、思ったら伝わるものだろうか。マガネの考えを聞いたのかどうなのか、ぱっとリスイが手を離す。
断じてそれが名残惜しいなどとは、思わない。
「将軍に話をつける前に、ご褒美をください。そうでないと、やる気が出ません」
「なにをすれば、良いのですか」
マガネが問えば、リスイが僅かに目を見開く。
「どうしてそこで驚くのです」
「いえ、何も。そうですね……では、はい」
「はい?」
お願いします、などと言って、リスイが両手を広げる。一体何を求められているのかと、マガネは「はて」と首を傾げた。その様子を見たリスイが、また笑う。
「抱きしめてください。今はそれで我慢しておきます。俺からは何もしませんから」
しばし迷い、けれど意を決してその広げた両手の間に飛び込んだ。抱きしめろというならばとその背に手を回して、けれどリスイの手が動くことはない。
力強い心臓の音は、確かにマガネが救ったものなのだろう。リスイの心臓は、どくどくと少しばかり早く動いているような気がした。