15.俺に怯えますか
夕食はいつも通りにリスイが作り、ふたりでそれを食べて、マガネ様は先に部屋に行っていてくださいというリスイに言われるまま、マガネは自室へと戻っていた。
結婚をしたと言っても、まだ形ばかりのものだ。夜は別々の部屋で眠って、日中も別のところにいて、これならば気楽なものだとかそんなことをマガネは思っていたくらいである。
ただ確かに、会話は足りていなかった。朝と夕に食事は共にしていても、マガネはさして会話をするわけでもない。リスイもそんなマガネに今日あったことを話しはするものの、それ以上でもそれ以下でもなかった。
寝台の柔らかな布団の上に腰かけて、ぼんやりと考える。地下室にあったよりも大きな寝台は、マガネがひとりで寝転がっても、狭いと感じることはない。
こつこつと扉を叩く音に、扉を見る。「どうぞ」と声をかければ、リスイが中に入ってきた。
「お待たせしました」
入ってきたリスイが視線をさ迷わせている。座る場所を探しているのだろうと察して、マガネは「どうぞ」と寝台の空いているところを指し示した。
しばし、リスイが考え込むような顔になった。けれど彼も否はなかったのか、マガネに促されるままにマガネの隣に腰を下ろした。普段はマガネの体重しか支えていない寝台に、もうひとりの体重がかかる。けれど寝台は、ぎしりという音を立てて軋むようなことはなかった。
向き合うことはなく、肩が触れ合うようなこともなく、並んで座る。「何から説明しましょうか」とリスイが独り言のようにつぶやいた。
「俺はそもそも、解放戦争が終わって陛下が即位した直後から、貴女との結婚を陛下や宰相閣下に打診しています。その度に握り潰されて三年が過ぎたわけですが」
「そんな話、私は聞いたこともなかったのです」
「それはそうでしょう。陛下も宰相閣下も、しばらくは国の安定のために貴女を手元に置いておきたかったでしょうし」
実際はどうあれ、確かにマガネは城の地下にいる必要があった。もちろん必要があればイフェイオンにもニネミアにも手を貸していたし、噂を流したりもした――主に、自分の悪い噂を。そうして悪意を集めておけば、多少イフェイオンが何かを失敗したとしても、マガネのせいにして切り抜けられる。
この三年の間、マガネはリスイを認識してはいても知らなかった。あの日、コーウェルが彼を伴って地下室に現れるまでは。
「ですので、他から働きかけることにしました」
「それが、リンザール・クロッツだと?」
「正しくは、ネリネ様です。陛下と宰相閣下に俺から働きかけて不足ならば、後はもう王族を使うしかないではありませんか」
「それは、そうかもしれないですが」
「俺に思い付くのはそれくらいだったので。ただネリネ様に直接会うのは難しいので、コウを経由して先に将軍に接触しました」
確かにそれは一理ある。イフェイオンとニネミアに何かを言える立場となれば、将軍でも少し不足だ。リンザールは確かに将軍という立場ではあるものの、貴族ではあるものの、クロッツ家の権力は強くない。むしろ、弱小と言っても良いだろう。つまり、リンザールではイフェイオンとニネミアに直接意見は難しい。
もちろんこれは、彼らの独裁という意味ではないのだ。政治的なことであれば、彼らに意見はできる。けれどリスイとマガネのことなど、政治的には何ら関わりがない。つまり、誰も口が出せない部分だ。
「まあ、将軍の前で貴女の名前を出すのは憚られましたが。あの人は貴女の名前を出すだけで、こちらを射殺すような目で睨んでくる」
「……リンザール・クロッツを見出したのはファード様ですから。仕方がないのです」
「どうですかね。別に俺はそういうことを否定するつもりはありませんが」
コーウェルが一番マガネを憎んで恨んでいるとして、二番目は間違いなくリンザールだろう。元々マガネは彼との関係性は悪くはなかったが、ファードを殺したことで亀裂が入った。それこそ、二度と修復できないほどに。
弱小貴族であったリンザールの資質を見出したのは、ファードだった。ファードのいた王家直轄領とクロッツ家の領地が隣であったこともあるが、ファードがリンザールを手元に置いたのは彼の資質あってのことだ。だからこそリンザールはファードを敬愛していて、そしてファードを殺したマガネを赦したりはしない。
「でも、どうしてネリネ様に会うのに、将軍に接触するのです?」
「それは物凄く単純な話でして。将軍がネリネ様を好きだからです」
「な、なるほど……?」
「ネリネ様も将軍のことを想っておられるので、将軍の片想いというわけでもないですし」
リスイの言っていることは、真実なのか。
確かに年齢的には大きく離れているというわけではない。けれど、一体いつそんな機会があったのか。マガネの知る限り、リンザールとネリネが親しくしていたということはない。
「いつそんなことに……」
「解放戦争で、ネリネ様を保護されたでしょう。最後の激突の前に」
「確かに、そんなこともあったのです」
「その時にだそうですが、詳しいことは興味がないので」
確かに、ネリネの保護はした。そうしなければ、アルドルト諸共にネリネを殺さなければならなかったからだ。それではあまりにも不憫だと、ファードが言った。そもそもネリネは女王になりたかったわけではなく、母親に利用されただけだ。だから、先んじて彼女の保護に動いたのだ。
あの時であれば、リンザールとネリネが接触していてもおかしくはない。ただマガネは保護した後にネリネがどうしていたかは知らず、リンザールもいつも通りだったように思う。
とはいえそんなところを勘繰ったところで、意味はない。
「将軍が直接ネリネ様に会いに行くと弊害がありますが、間に俺が入れば陛下の用事と思わせられますからね。そういうわけで、俺はこっそりあの二人が手紙を遣り取りしたり、会ったりするのに手を貸していたわけです」
リスイはイフェイオンの護衛であり、イフェイオンが私的に遣いに出していてもおかしくはない。リスイは護衛ではあるが侍従にも近く、そもそも城内ならば警備もいるのだから、リスイがずっとつきっきりで護衛をしているというわけでもないのだ。
確かにリスイならば、ネリネとリンザールの間を行き来したとて疑われはしない。それぞれにイフェイオンから用事があったのだろう、そう思われるだけだ。
「ですので、貴女が聞いた俺とシュアル・アルナムルの会話というのは、将軍とネリネ様のことですよ」
つまり、ネリネが添い遂げたいのはリンザールで、リンザールが目に入らないのはネリネ以外の人間で。
そう言われれば辻褄はあう。そもそもあの会話は誰がというところはぼかされていて、受け取ったマガネがネリネとリスイのことであると思っただけか。
「さて、まだ何かありますか?」
「よくそんなことが分かりましたね」
それでも、疑いはある。
これがまったく嘘ではないという証明は、誰にもできない。それこそマガネが直接リンザールなりネリネなりに確認をすれば話は別だが、そんなことは今はできない。
「ああ、それは」
リスイが黒い手袋に包まれた両手を前に出す。そして、リスイはその手袋を床に落とした。
「俺がリスイ・ナハトヤール・ホロロギオルムという名前なのは、ご存知でしょう」
「コーウェル・シュエットと、テオから聞きました」
「そういえば名乗っていませんでしたね。いつも面倒なので、家名までは名乗りませんし」
横を向いて、その顔を見る。
リスイの顔はマガネの好みである、それは確かだ。少し冷たいような、美しい顔立ち。けれど決して女性的なものではなく、男性であるということは分かる美しさだ。
マガネの視線に気づいたのか、リスイがマガネの方を見た。
「貴方は、竜鱗族なのですか」
「ええ、そうです。帰ってきたとき机の上に竜の本があったので、それを調べておられたと思いましたが」
リスイに「違いましたか」と問われ、マガネは首を横に振る。
「その通りなのですよ」
コーウェルとテオの言葉があったから、マガネは調べた。そして、リスイが竜鱗族だろうという予測を立てた。
「俺は冥夜竜ナハトヤールと、死毒竜ホロロギオルムの混血です。といってもホロロギオルムの方はあまり強く出ておりませんので、せいぜい毒が効かない体質というくらいなのですが」
体内で毒は生成できない。けれど、毒は効かない。
そもそも死毒竜は、毒が効かないのが当然なのだろう。自分が体内で毒を生成しているというのに、毒が効くのであればおかしな話だ。
けれどホロロギオルムが強く出ていないということは、つまり。
「俺に強く出ている特性は、冥夜竜ナハトヤール。ナハトヤールは、人の内側の声を聞く」
冥夜竜は、心の声を聞く。
「つまり俺は、人の心の声が聞こえる。もっとも、いつでも聞こえるわけではないのですが」
リスイの手がマガネの頬に伸びてきた。一瞬身を引きそうになって、けれどマガネはその手を受け容れる。
歩み寄ろうと、そう思ったのだ。リスイが何も隠すことなく、自分が竜鱗族であることを明かしているのだから。
「こうして、素手で触れると聞こえます。ですから、手袋をしているのですが」
「それで将軍とネリネ様と双方を確認したと?」
「そういうことです。落とし物を拾ったふりをして、確かめました」
するりとリスイの指先がマガネの頬を撫でる。今こうして触れているということは、彼にはマガネが考えていることが聞こえているということだろう。
それは一体、どこまでなのか。心の奥底で思っていることまで聞こえるのか、あるいは表層で思っていることだけが聞こえるのか。リンザールとネリネのことを考えれば、前者のようには思う。
「俺に怯えますか、マガネ様」
リスイの手が頬から離れて、マガネの目の前に手が差し出される。見上げたリスイの顔には笑みが浮かんでいて、それはどこかマガネを試しているようでもあった。
心の声が聞こえる。それはどういうものなのか。決して良いことばかりではないだろう。
「……いいえ」
どうせ今更、という思いはある。けれどそれ以上に、別に何も隠しておくこともないのだと思い直した。彼を利用することについても、知られているのならばそれでも良い。
「別に読まれて困るようなことは、何もないのです。それをどう受け取るかは、貴方次第ですから」
マガネの考えを読むのならば、好きにすれば良いのだ。どうせそんな程度のことで、マガネは狼狽えたりはしない。そんな程度で、マガネの策は破れない。
だから自ら、目の前に差し出された手を取った。