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『長谷寺参籠の男、速記に預かること』

作者: 成城速記部

 昔、身寄りのない若侍がいた。長谷寺の観音に詣でて、運が開けるように、運が開けないならばこのままここで飢え死にする、などと願をかけて、御本尊の前で突っ伏していた。

 僧たちは、この様子を見て、大層迷惑がり、食べ物を与えて養ってやったところ、二十一日目となった。その夜が明けるとき、若侍の夢枕に観音様とおぼしきありがたい方があらわれて、早くこの寺を出るがよい。寺を出るときに手に触れたものを持って出よ、とおおせられたので、男は、目が覚めるとすぐに寺を出た。いや、正しくは、出ようとして大いに転んだ。

 若侍が起き上がったとき、どういうわけか、手にはプレスマンを握っていた。何やら運が向いてきそうです。若侍は、プレスマンをくるくる回しながら、ずんずんと歩いて行きました。すると、一匹のアブが、顔の前をぶんぶんと飛び回ります。木の枝で追い払ったのですが、ずっとまとわりついてきます。余りにうっとうしいので、プレスマンの、ポケットに入れたときにポケットに固定させるための金属のところにアブを挟んで、手で持って歩いておりますと、長谷寺へお参りに来た女車のすだれから顔を出していた大層かわいらしい男の子が、あの男が持っているものを、もらってきて、僕にちょうだい、と、馬に乗って供をしている侍に言うと、その侍は、若君が欲しがっているので譲ってもらいたい、と頼むので、若侍は、仏様からいただいたものではありますが差し上げましょう、といって渡すと、子供の母親とおぼしき女が、この男は何と感心なことだ。若君の願いをすぐにかなえてくれた、といって、大きなミカン三つ、陸奥紙という高級な紙に包んで、のどが渇いたら食べるといい、といって、供の侍を通じて若侍に下された。

 プレスマン一本がミカン三個になったなあと思って、木の枝にくくりつけて、肩にかけて歩いているうちに、身分の高い方がお忍びで参詣に来られたと見えて、大勢の侍を供に連れている女が、のどが渇いたので水を飲ませておくれ、と言ったきり、ぐったりしてしまったので、供のものたちは、手分けをして、近くに水はないかと尋ね回ったが、近くにはないようだった。どうしたものか、馬に背負わせた荷物に水があったはずだ、などという者もいたが、馬はおくれているようで、姿も見えない。本当に困った様子で、右往左往しているので、若侍は、水をくみに行くにも大変でしょう、これを差し上げてはいかがですか、といって、ミカンを差し出したところ、供の者たちは、喜び騒いで、主人の女に食べさせた。女は目を覚まして、何があったのか、と、お尋ねになるので、のどが渇いた水が飲みたいと仰せになったまま気を失われたので、水を探したのですが、どうにも手に入らずに困っていたところ、若侍が、我らの様子をごらんになって気をきかせてくださり、ミカンをくださったので、差し上げたところ、目を覚まされたということでございます、と申し上げると、女は、水が飲みたいと言ったところまでは覚えているけれど、気を失ったしまったのね、ミカンをくださったという方がいらっしゃらなければ、ここで死んでしまったかもしれない。まだその方はいらっしゃるの、とおっしゃるので、あちらに、と申し上げますと、女は、しばらく待っていてもらうように言いなさい。私たちは参詣旅の途中だから、十分なお礼もできないけれど、馬が到着すれば、食べ物でも差し上げられるでしょう。何か食べてもらいなさい、と供に命じ、供の侍が、若侍にそのように伝えた。

 しばらくすると、馬が到着した。どうしてこんなにおくれたのか。馬は先頭を行くくらいでないといけない。急ぎのこともあるのに、あのようにおくれてどうするのか、などと言いつつ、幕を張り、敷物を敷いて、水場は遠いけれど、お疲れなのだから、ここで食べてしまおう、といって、水をくみに行かせ、食べ物が用意されたので、若侍もごちそうになった。

 若侍は、仏様からいただいたミカンのお礼が、これで終わりということはないだろう、などと考えていると、女が、半紙を三箱、荷物の中から取り出して、これをあの者にやりなさい。ミカンの礼は、こんなもので済まされるものではない、これは礼のほんの初めじゃ。京にまいったときは、かならず訪ねてまいれ、十分な礼をするぞ、とおっしゃったので、半紙三箱をもらって、押し頂いて下がった。玉の川のあたりで日が暮れた。

 若侍は、道沿いの家に泊めてもらって、夜明けとともに起きて出立した。永田という町にさしかかったところで少し日も高くなり、何とも言えぬ名馬に乗る人がいた。馬を大切にしていることが端から見てもわかる乗り方で、やたらに速く長く走らせることはしない。銭千貫の名馬とは、こういう馬なのだろうと見ていたところ、この馬が急に倒れて、死んでしまった。馬の持ち主は、真っ青な顔で、馬のそばに立ち尽くしている。従者たちも、なすすべなく、馬から鞍を外すことくらいしかできず、どうしよう、と、言葉を交わす者、悔しがる者、泣きそうな者がいたが、何ともしようがなく、馬の持ち主は、駄馬に乗りかえ、いつまでもここにいても、何もできない。帰ることにしよう。死骸は隠しておけ、と言って、下男を一人残して去っていった。若侍は、この様子を見て、あの馬は、我が馬になるためにここで死んだのではないかと思った。プレスマン一本がミカン三個になり、ミカン三個が半紙三箱になった。この半紙が馬になるのだろうと思って、一人残った下男に近づいて、この馬はどういう馬なのですか、と尋ねると、陸奥の盛岡というところからお取り寄せになった馬なので、周り中の人が欲しがって、幾ら出してもいいから譲ってくれと言われていたのに、決して手放そうとなさらず、きょう死んでしまったので、丸損になってしまいました。せめて皮でも剥いで、少しでも取り返したいところですが、出先でそんなこともできず、とりあえず、見張り役を果たしているところです、というので、若侍は、そのことです。この上なくいい馬だと思って見ていたのですが、このようにはかなく死んでしまうこと、命あるものの定めははかないものです。本当に、出先では、皮を剥いで干したいと思っても、ままなりません。私はこのあたりの者ですから、皮を剥いで何かに使うこともできます。この馬を私に譲ってください。といって、半紙一箱を渡すと、下男は、思いがけずもうかったと思って、若侍が心変わりをしないうちにと思ったのだろうか、後ろを振り返ることもなく走って去っていった。

 若侍は、下男の姿が完全に見えなくなるのを待ってから、よく手を洗って、長谷寺のほうに向かって、この馬を生かしてやってください、と祈ると、この馬が目を開け、頭をもたげて起きようとするので、手をかけて起こしてやった。この上なくうれしいことであるが、さっきの下男が戻ってきて、生き返った馬を見られてはいけないので、馬を物陰に隠して、馬を休ませたところ、元気になったので、日が暮れるまで待ってから、引いていって、半紙一箱をくつわや鞍と交換してもらって、馬に乗って先へ進んだ。

 牛込のあたりで、もう一箱の半紙を、馬の草、自分の食べ物と交換して、泊めてもらった。翌朝、馬に乗って進むと、早稲の穂がたなびく田が広がるあたりで、どこかへ出かけようとして慌て騒いでいる家があった。若侍は、この馬を長い間連れていると、この馬を見知った者がいて、盗んだのかと疑われてもいけないので、この馬を売ってしまおうかと思いついて、どこかへ出かけようとしている屋敷の主を見かけたので、こういう人は馬を必要としているかもしれないと思って、馬から下りて、もしや馬が御入り用ではありませんか、と尋ねると、ちょうど馬が欲しいと思っていたところらしく、どうしよう、と、慌て始めた。たった今、馬のかわりに差し上げるものがない。このあたりの田や米とかえてはくれまいか、と言うので、若侍は、物をもらうよりも、土地をもらったほうがいいと思ったが、それを隠して、絹や銭をいただけるのがいいのです。私は旅の途中なので、田をいただいてもどうしようもありません。しかし、馬が御入り用ならば、ここではそんな話は抜きにして、馬をお使いください、と答えると、屋敷の主は、馬に乗り、少し走らせてみて、いい馬だ、と言って、このあたりの田を三町歩ばかり、田植えのための稲、米などを若侍に渡す約束をし、屋敷を若侍に託して、私が帰ってくるまでこの屋敷を自由に使ってください。もし、私が帰らなかったら、そのままお使いください。私には子もいないので、文句を言う者もいないでしょう、と言って、都を離れていったので、若侍は、その屋敷に住むことにし、もらった米はとっておいて、食べ物には困らなかったので、下男が勝手にやってきて、住み着いてしまった。

 田は、下のほうの半分を人に使わせ、高いほうの半分は自分で使った。人に使わせたほうの実りもよかったが、自分で使ったほうは、ことのほか豊作で、それをきっかけとして、どんどん豊かになっていき、屋敷のもとの主も戻ってこなかったので、結局、屋敷は若侍のものになり、子孫もふえ、中には速記者も出て、大層栄えたということだ。長谷の観音様の御利益であろう。



教訓:若侍が自分で使った、高いほうの田は、屋敷のもとの主が試しに馬を走らせたあたりであったため、いつしか誰となく、高田馬場と呼ぶようになった。若侍が手に入れた屋敷のあたりには、今では日本速記協会があるのだという。

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