Episode 8. 家族
朝霧の言葉に励まされたのはこれで何度目だろう。僕の性格を深く洞察した彼の言葉は、僕にとっていつも現実的な光を見せてくれいたように思う。
他の人間が彼の存在や彼の言葉をどう感じるかは分からない。僕が知る範囲でも、彼の特殊さを不快に思う者や拒絶する者は彼の周りに少なくなかったように思う。だが、少なくともこの関係性は僕と彼だけの特別なものだ。彼が僕を理解し、僕が彼を理解していれば全く何の問題もない話だ。
僕が家庭問題で病んでいた時も、進路の選択に悩んでいた時も、自分という存在をこの世から消してしまいたいと思っていた時も、彼はいつも、彼自身の実体験に基づく現実的な助言や具体的な戦略を僕に与えてくれた。
無論、仲違いすることもよくあったし、意見を戦わせることも多かったが。今、彼との関係を俯瞰すれば、彼が僕の人生を救ってくれた重要な登場人物の一人であったことは明確だし、どのような形で最期を迎えたとしても彼が僕の事実上の親友であることに疑いの余地はなかった。
僕は彼のホテルを後にし、意を決して家族の元へと瞬間移動した。
母と弟は朝霧とは別の現地のホテルに宿泊していた。飛行機に乗った時間的に、二人は朝霧よりも早くに現地入りしたはずだ。事件関係者として、警察や職場から詳しい情報を聞いていることだろう。二人は別々の部屋で、事件に関する報道やネットニュースを調べながら、状況把握にただひたすら努めていた。
事件から既に24時間以上が経過している。この時点で、今なお僕の所在や安否が不明であるという事実は、僕が事件に巻き込まれて既に死亡しているという事実とほぼ同義だった。
おそらく、二人とも僕の死を心のどこかで察しているはずだ。
一方が取り乱せば双方の精神が総崩れしかねない危機的状況。自分がしっかりしなければというお互いの強靭な意志が、結果としてお互いを支え合っているように思えた。
その夜から僕は二人に寄り添い、事の顛末を静かに見守ることにした。
翌日、朝霧の残した連絡先に家族が連絡を入れ、家族と朝霧が合流して一緒に現地行動することになった。まさか、このような展開になるとは僕も予想していなかった。彼らは、共に事件現場を視察し、非情な現実を目の当たりにして深い悲しみに暮れた。
帰り道、朝霧は唐突に、律に怒られるかもしれないが、と前置きし、事件現場からそう遠くない距離に僕が学生時代からずっと思いを寄せていた女性・玉置美沙が住んでいることを家族に伝えた。
僕も全く知らなかった情報だった。
彼女は僕の大学時代の同級生で、知り合った当時、朝霧や他の仲間を交えてよく一緒に遊びに出かけたものだった。彼女は地元で最も偏差値の高い高校を出ている秀才だったが、それを全く鼻に掛けない個性豊かなドジっ子キャラだった。独特な愛嬌があり…あまり認めたくはないが目鼻立ちが整った美人だった。
そんな彼女のギャップに、僕は不覚にも惹きつけられていった。当時は、彼女に告白しようか相当悩んだものだが、彼女の僕に対する接し方を分析する限り勝算があるとは全く思えず、逆に友達関係が壊れて接点が失われることを恐れて自粛し続けていた。
だが後々、彼女にはそもそも当時付き合っている男性が既にいたという衝撃の事実を知らされることになった。その男性は僕達の遊び仲間の一人で、二人は恋愛関係を僕達に公言していなかった。その事実を朝霧の家で知らされたときは、あまりのショックにヤケ酒し、朝霧の家のトイレをゲロまみれにしたことを覚えている。
僕は彼女への思いをどうしても捨てきれず、結局、意を決して彼女に自分の思いを伝えるに至った。今思えば、それは僕の人生で物心ついて初めての本気の恋愛であり、異性に対する本気の告白だった。案の定、それっきり僕と彼女の関係は疎遠になってしまった。彼女には悪い事をしたが、今となっては後悔はない。
朝霧によると、彼女もずっと僕の事を心配してくれていたらしい。正直、嬉しかった。
自覚はなかったが、おそらく、心のどこかで今も彼女の事が心底大好きなのだろうと思う。
そんなこんなあって、途中から彼女も合流することとなった。こんな展開になるとは思いもよらなかった。現場視察で被った精神の激痛を緩和するための朝霧なりの機転だったのかもしれないが…偶然にしては出来過ぎている。
朝霧と玉置は、僕の家族からすればブラックボックスになっていた僕の大学時代の思い出を家族に語り伝えてくれた。朝霧に至っては、単位を落としまくる無気力な僕の勉強の面倒を夜通しで見ていたことや、単位取得のための複雑な授業計画の作成まで代行していたという事実まで赤裸々に暴露しやがった。無論、ゲロ事件の詳細も、僕に何一つ忖度することなく無事に暴露された。死人に口なしとは正にこのことだろう。
唯一有難いと思えたのは、過保護で責任感の強い母が、自分の判断ミスで僕を死なせてしまったという強い罪悪感を人知れず抱いていたことを二人に打ち明けた際、それは違うと二人が僕の気持ちを見事に代弁してくれたことくらいだった。
友人とは本当に有り難いものだ。
夕方、家族と朝霧は飛行機で地元へと帰り、次の日の朝、僕の遺体のDNA鑑定の結果が警察から家族へと伝達された。それはつまり、安否不明だった僕の死亡が正式に確定された瞬間だった。
その後は怒涛の忙しさだった。家族は再び現地へと赴き、僕の遺体と対面し、葬儀を行い、遺体を火葬し、僕が借りていた部屋を引き払い、役所や銀行等で諸々の手続きを済ませ、職場の説明会に参加し、関係者に訃報を通知し、弔問客の対応をし、法事を主催し…。
息つく暇もないというのは正にこのことだった。僕のために何の文句も言わずここまでしてくれる存在がこんなにも身近にいたことに僕はあまりにも無自覚だった。
僕は昔から親に対して強い不満を抱いていた部分があった。母は苦労人だったこともあり、過保護な頑固者だった。親離れしたい子供の気持ちを汲み取るのが誰よりも下手な人だったが、今思えばそれが母の愛のカタチだった。夢見がちで現実を全く知らない箱入り息子のことが心配でたまらなかったのだろう。そんな感情を僕に対して抱けるのは母しかいない。
一方、弟は朝霧以上の変わり者で、繊細さと豪胆さを兼ね備えたようなつかみどころのない人間だった。社会に上手く馴染めるか不安なところが多々あったが、実際に社会に出て働く弟を見ていると、意外と僕よりしっかりしているのかもしれないと思えるようになった。今思うと、弟は僕の内面を世界で一番理解している片割れのような存在だった。こんな自分を兄として慕ってくれたことに感謝しかない。
今後、母にも弟にも、せめて少しでも痛みの少ない人生を送って欲しいが、現実には、僕が死んだ影響を今後の人生のあらゆる局面で被ることになるだろう。彼らがいつか死んでこちら側に来た時、恩を返す機会があればいいのだが…。
そういえば、疑似情報体アバターで物質世界に滞在できる期間というのは、一体どれくらいのものなのだろうか。気になることが色々あるな…。
少なくとも、もう一度くらいは例のシステムの管理代行者・フォックスと直接会って色々と確認しておきたい。僕は事後処理がひと段落した段階で、彼のもとにもう一度瞬間移動を試みることにした。
実家の自分の部屋で、例に習って目を閉じ、瞼の裏に目的地を強くイメージした。数秒待ってゆっくり目を開くと、先程までの光景が、どこか見覚えのある応接室へと見事に移り変わっていた。
どうやら成功したみたいだ。ここに瞬間移動できたということは、僕の事前申請がシステムにアクセプトされたことと同義と思っていいだろう。
誰部屋の中を見回すと、窓際に一人の人間が佇んでいることに気が付いた。
後ろ姿からしてフォックスではなさそうだ。
服装と長い後ろ髪を見る限り女性だろうか…?街中では見かけないような、一風変わった和風の創作衣装のようなものを身にまとっている。こちらに気付いていないはずは無いと思うが…彼女は窓の外をずっと眺め続けている。
「あ、あの、すみません」
予期せぬ先客に戸惑いながら声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
逆光のせいか顔がよく見えない。
目をよくよく凝らしても…やはり何も見えない。
いや、違う。
そもそも顔が無い。目も鼻も口も。そもそもそこに何もない。
その事実に時間差で気付いた僕は、思わず無言で仰け反った。
「こら。初対面の人を驚かせるのはやめなさいといつも言っているでしょう?」
声の主は、三人分のコーヒーと茶菓子を準備して部屋に入ってきたフォックスだった。
彼が注意すると、彼女の何もない顔にパーツと眼鏡が徐々に浮き上がった。
人間の皮を被っているが、彼女もまた人間ではないらしい。
「彼の嗜好に合った外見がなかなか見つからなくて迷ってただけだよ。第一印象は大事でしょ?」
どうやら、彼女は僕の好みに合わせた姿を再現してくれたみたいだ。親切心は有難いのだが…僕は眼鏡フェチでも和服フェチでもでもない…。一体何を参考にしたらこの個性豊かな解答が導かれるのだろう?僕の好みというより自分の好みで選んだんじゃないだろうか?純粋に気になるのだが…。ついでに言えば、彼女の第一印象は顔無しの妖怪として僕のメモリーに深く刷り込まれてしまった。本当に残念だ…。
もしかすると、彼女は自分がシステム側の存在であることを視覚的に分かりやすく証明して見せてくれたのかもしれない。そう思うことにしよう。
「どうか不快にならないでやってください。彼女は私と同様にシステムを代行管理する存在の一人で、リサ・スミスといいます。突然で申し訳ないのですが、本日は急遽、彼女も交えて貴方のお話をお伺いしたいと思っております。問題ないでしょうか?」
フォックスがそう言うなら、僕にとっても意味があっての事だろう。相手は僕の全ての事情を事前に知り尽し、僕の次の出方を予測して先手をとって動いている。断る理由がない。僕は彼女の同伴を許容した。
もしかしたら、前回よりも多様な意見を聞き出せるかもしれない。
僕達は応接室のソファーに腰を掛け、前回よりもかなり砕けた雰囲気の中で今後についての話し合いを始めた。