Episode 7. 友
家に帰って茫然自失の状態に陥ってからどれくらいの時間が経っただろう。突然、暗闇の部屋の中にインターホンの音が鳴り響いた。時刻は夜の二十二時過ぎだった。
宅配便ではなさそうだ。こんな時間に訪ねてくるなんて一体誰だろうか?再び鳴らされるインターホンにせかされるように、僕は玄関の扉をすり抜けて訪問者を確認した。
訪問者の正体は朝霧だった。
やはり、彼は僕が巻き込まれた事件の事を知っていたらしい。彼は、今朝早くに家を飛び出してから、当日券の飛行機でわざわざ現地まで駆けつけてくれたのだった。
朝霧は、返答の無い扉の前で足元から崩れ落ちるようにその場に蹲った。心配になって顔を覗き込むと、彼は涙を流していた。それは、僕が初めて見る彼の涙だった。
おそらく彼は、僕の死を既に察しているのだろう。事件現場から回収された僕の遺体は、外見的な特徴のみで本人を特定することが極めて困難なレベルの損傷を受けていた。この場合、DNA鑑定の結果が出るまで僕の死亡は確定することができず、社会的に安否不明・行方不明の扱いとなる。限りなく死亡確定に近い絶望的な状況の中で、彼は僕が無事であるという万に一つの可能性を信じ、昼間から関係各所を巡り巡って安否情報を集めてくれていたらしい。
そういえば、彼はこの家に一度だけ遊びに来たことがあった。一年前の夏だったか。似たような建物が立ち並んで迷いやすい住宅街だというのに、よくここの場所を覚えていたものだ。
僕の代わりに涙を流す彼に、僕はしばらく寄り添った。
三十分ほど経ち、彼は重い腰を上げて、扉の郵便受けに自分の連絡先を記したメモを挟み、静かにその場を後にした。後々、僕の家族がこの部屋の整理に訪れることを見越してのことだろう。僕の家族は彼の連絡先を知らないし、僕の交友関係も把握していない。彼が事後処理に協力してくれるなら有難い話だ。
僕は彼との別れを惜しんで、立ち去る彼の後に続いた。
街灯に照らされた夜の住宅地を二人で歩きながら最寄り駅へと向かう。懐かしい感覚だった。彼とは学生時代から何度もこうして夜道を共に歩いたものだった。一年前、彼が家に遊びに来た時も、この夜道を散歩がてら二人で歩いた。仕事の話や夢の話、趣味の話や女の話、色々な話をしたことを今でも鮮明に覚えている。
僕達は互いに陰キャ気質が強いもの同士だったが、二人で語り合えばどんなに重苦しい話題も不思議と可能性に満ちたものに感じられた。傍から見れば特殊な会話だが、そのような会話を共に楽しめるのはこの世界で彼一人だけだった。彼がどう思っていたのかは分からないが、僕にとって彼は親友と呼べるほどの存在だったのかもしれない。
生前の僕は、<死にたい>という言葉を口癖のように用いていた。無論、実際に心の底から死を望んでいたという訳ではなく、自分が生き生きと生きていける自己実現の場が欲しいという思いの裏返しだった。当時も、僕は仕事で思うようにいかない事や失敗が多々あり、死にたいというヘビーワードを何の抵抗も無く彼に漏らした。それを聞いた彼は、僕に同調して『自分も仕事が辛すぎて死にたい』と本音を漏らした。続けて『実際に死を間近にしたら全力で死に抗うんだろうけどな』とも付け加えた。僕も、彼の言葉に同調を示した。
今思い返すと、洒落にならない死亡フラグを盛大に立ててしまっていたことになる。つくづく僕の人生は漫画のような星回りに憑りつかれているように思えてならない。メタバースのキャラ設定の影響だろうか?
最寄り駅に到着し、彼は二駅先の切符を現金で購入した。どうやら近場に宿をとっているらしい。そういえば、一年前も二人で電車に乗って観光地を巡り巡った思い出がある。電車を待つ時間。電車に揺られる時間。楽しかった思い出の数々が現状の光景とオーバーラップし、次から次へと思い起こされていく。何でもなかった日常が今となっては愛しくてたまらない。
電車を降りた後、彼は駅近のホテルにチェックインし、部屋に入るなりおもむろにベッドに倒れ込んだ。無理もない。彼にとって今日という日は相当なハードワークだっただろう。僕が生きていれば、ここから二人で酒でも飲み交わしながら朝まで語り合えるのだが、この体ではもうどうしようもない。
正直、辛すぎるな…。
そう思っていた時だった。ベッドに倒れていた友人が唐突に独り言を呟きはじめた。
「律。聞こえているのか」
僕は耳を疑った。それは、明らかに僕に対する問いかけだった。
「俺はお前が死んだなんて全く信じたくないが、俺が知り得る現状の全てがお前の死を暗示してしまっている状態だ。もし、お前が霊体として今この場にいるなら俺の話を聞いて欲しい。お前は、この世でしかできないことを沢山やり残したまま理不尽に命を奪われた。もう少しで手が届きそうだった幼い頃からの夢を叶えられないまま無差別に殺された。お前は今、悲しみと絶望のどん底にいるはずだ。悔しいだろう。無念だろう。お前が殺人鬼によって背負わされた苦痛と被害の甚大さは、俺の想像を絶している。本来なら、俺はお前に何かを言える立場じゃない。だが、敢えて言葉にさせて欲しい。俺もお前も、ただ延々と不幸を嘆き続けたところで、このくそったれな状況は何も変わらない。仮に、死後世界が存在しているのであれば、そちら側でしかできない事も沢山あるだろう。お前は天性のクリエイターだ。それは、お前が死んでも変わらない。いつ何時であっても、お前は貴重な創造の機会を無駄にするべきではない。そちらの世界で表現を磨き続けろ。そしていつか、俺が死んでそっちに行った時、お前の創作物を見せて欲しい。あまり趣味じゃないが、俺もこの世界で自分を表現できる何かを見出して、お前にインスピレーションを与えられるように頑張るから」
僕は不覚にも一瞬泣きそうになった。言葉にできないとはまさにこのことだった。
こいつ、本当は僕の事が見えているんじゃないだろうか?そう思えるほど、彼の洞察は僕の現状を正確に捕らえていた。
それだけじゃない。僕は、彼の言葉で自分が何者なのかを思い出した。僕は創作活動を生き甲斐とする根っからのクリエイターだ。その個性は死んだ今も確かに失われていない。
彼の言うとおり、死後世界はネタの宝庫だろうし、物質世界には存在しない様々な表現技法が存在していても不思議じゃない。システム側が許せば、自己表現の機会を与えてもらえるかもしれない。
「もし可能なら、死んだお前と生きている俺で何かを一緒に作ってみたいが、実際どうなんだろうな。お前が何らかの手段で俺の思考に干渉できるなら、お前の意見やアイデアを試しに俺の中に送って欲しい。お前がこっちの世界で表現できなかった分、俺に可能な範囲でなんとか形にしてやるから。まぁ、ともかく。地獄の中でも自分らしく生きていける手段を一緒に見つけよう。この世界の可能性を一緒に模索しよう。さよならは無しだ」
どうやら彼は、僕を本気で泣かせにかかっているみたいだ。
そもそも、こんなエモいシチュエーションが現実にあるものだろうか?
本当になんなんだよこれ…。
実際、彼の言うように、疑似情報体であれば生きている人間の思考に干渉することも可能だろう。実際、心霊現象の中には疑似情報体による思考干渉と思われるような現象が多数報告されているという。
こんな形になっても、作品を共同で製作することも可能かもしれない。寧ろ問題といえば、僕と彼の趣味嗜好があまり一致していない事だろうか。それを思うと、少しだけ笑えた。
こんな地獄の中でさえ、彼が僕に未来を感じさせてくれるとは思わなかった。
僕は物質的な財産を全て失ったが、僕の全てが失われた訳ではない。理想からは遥かに程遠い状況だが、手元にある配牌を拒絶するのではなく柔軟に受け入れて、可能な限り理想に近い手役を作れるように、可能な限り被害を減らせるように、可能な限り自分を表現できるように、もう少しだけ頑張ってみようと思えた。
僕の物語はまだ終わらない。
そう決心した。