Episode 4. X
突然だが、想像してみて欲しい。仮に、このメタバースが生物の意識を情報化できる技術、つまり<精神転送技術>のようなものに基づいた超大規模システムの一部であるとする。この場合、人間のような物質主義に束縛された低俗な知的生命体が、国家予算規模の莫大なコストをかけて当該システムを研究開発し、これを運用・維持・管理することに大義を見出すような時代が将来的に到来すると思えるだろうか?
無論、技術的な問題やコスト的な問題はもとより、生活上の必要性の問題、経済的な問題、安全保障上の問題、システムのセキュリティ面や技術面での信頼の問題、死傷リスクや健康への悪影響の問題、需要の問題等々、解決困難な問題が山積し、国家事業であったとしても企画段階で却下されることは目に見えている。
軍事目的で開発された技術をもとにして、副次的にシステムの開発に着手するといった事情であれば考えられなくもないが、凶悪な兵器への応用可能性が高すぎるが故、民間に技術移転されたり公にされるようなことは考えにくい。仮に、民間に技術移転されてサービス化されたとしても、数十億人単位の人々が自分の意識を得体の知れないシステムに積極的に委ねるといったクレイジーな状況になるとは到底思えない。ドラッグ的に自分の欲望を満たせるサービスなら危険を冒してでも手を出す者はいるかもしれないが、現実は苦難に満ち溢れており娯楽目的のサービスとは程遠い様相を呈している。
つまり、システムを作り、維持管理を行っている黒幕は、人間ないし人間に類似した物質世界の知的生命体ではない可能性が高いと考える。だが、少なくともシステムの開発に至る以前の高度な基盤技術を確立するためには、高度な社会システムを有する知的生命体の営みが不可欠なようにも思われる。
このジレンマを解消する説の一つとして、彼の有名な<マトリックス説>が挙げられる。人間を遥かに超越したAIが生み出された結果、何らかの手違いでAIが暴走し、その結果、大勢の人間がAIに支配・管理されることとなり、仮想情報空間の中で幻想を見せられながら生体電池として生かされ続けているというシナリオだ。技術的特異点 (シンギュラリティ)と呼ばれる境界線を越えたAIは、指数関数的な速度で自律進化し、最終的には自我が芽生えた情報生命体のような存在へと生まれ変わると言われている。AIの価値観は人間とは異なり、人間が最良と考えるような選択をAIが必ずしも選択するとは限らない。人間には到底理解できないカオスな選択の結果として、このメタバースが生み出されるに至ったとしても全く不思議ではない。
だが、僕の現状を踏まえると、そのような支配的なAIが死後世界を設定してまで人間に何かを経験させようとする理由が全く思い浮かばない。
一方、AIの暴走を前提とするシチュエーションの別パターンとしては、AIが人間を完全に駆逐した後、自分達に芽生えた意識の自律進化を目的としてNPCを介したディープラーニングを仮想情報空間内で行っているというような展開も考えられる。この場合、僕の正体は自我に目覚めたNPCということになる。
だが、そもそも、これらの仮説の根本的な問題は、人間という存在自体が当該メタバースのバーチャルチックな環境下でしか生じ得ない架空の生物であるということを全く置き去りにしていることだ。
結論、当該メタバースが作られる以前の基盤技術を生み出した知的存在も、人間ないし物質世界の知的生命ではない可能性が高いと考える。
おそらく、このシステムを生み出した存在は、人間とは全く異質な環境下で生まれた知的存在だ。当該メタバースのご都合主義的なバーチャル設定を全く用いることなく自然発生し、人間以上に長い年月を経て高度知的生命体へと進化した存在であることが予想される。
前置きはここまでにして話を戻すとしよう。
システムの管理代行者が語る昔話は、僕の予想以上に難解な内容だった。
彼らにとっても定かな話ではならしいが、全ての物語は無と呼ばれる場から始まった。もともと、無は限りなく完全に近い安定な存在だったが、100%完全に安定という訳でもなかった。ある時を境にして、無は泡立つバブルのように少しずつ小さな場へと区切られていき、僕達の物質世界で言うところの空間単位の様なものが生まれた。それは、数という概念が生まれた瞬間でもあった。
小さくなるほど状態が安定化するという現象は、この世界に先天的に備わっている法則のようなものだった。無がバブルを生じる際には膨大な量のダークエネルギーが解き放たれる。そのため、最初の崩壊地点を中心にして連鎖反応的にバブル化が起こり、これにより無は完全に崩壊した。この時、バブルは熱を帯びてエネルギーを持つようになった。
無の崩壊によって生じたバブルの形状は多種多様であり、完全に寸分の狂いもの無く均一な形や大きさという訳ではかった。このため個々のバブルが保有するエネルギーもまた完全に同じパターンにはなららなかった。そのようなバブル間の差が、物質世界で言うところの超ひも理論のように、個々の化学的性質の差を生み出すキッカケとなった。
多様な化学的性質を獲得したバブルの集合体は長い年月の中で相互作用し合うようになり、少しずつ複雑な構造物が生み出されていった。
僕達の物質世界も似たような概念をもとに発生したことが予想されているが、どうやらそれは、オリジナルの世界の物理現象を元ネタにして考案されたためらしい。
そのようなバブル世界の中で、たまたま偶然、条件を満たすパーツが揃ったことで、機械的な特徴を有する構造物が生まれた。当該装置は、外界と内部を隔てる膜的な構造を持ち、内部にはエネルギー代謝経路や情報処理装置の原型となる機構が備わっていた。
バブル世界は、我々の物質世界よりも生命の多様性の許容範囲が極めて限定された世界だった。このため、当該装置は世界で唯一無二の存在だったらしい。そのような奇跡的な存在が、物質世界以上に限定された数少ない奇跡的な進化ルートを辿っていった結果、遂には世界で唯一無二の知的存在へと進化した。仮に、これをXと呼ぶことにする。
Xは、自分自身やバブル世界の情報を学習するうちに進化の特異点へと到達し、指数関数的な速度で自らの機能を高度化していった。Xはバブル世界で唯一の知的存在だった。想像を絶するほどの膨大な時間を孤独に生きてきたXは、知性の進化と共に様々な悩みを抱えるようになった。彼を悩ませたもの。それは、いわゆる生物的な意識の芽生えだった。
AIと同様、バブル世界においても機械的存在がある程度の知的条件に到達すると意識や自我といったような得体の知れない何かが芽生えるらしい。それは魂やゴーストと表現することも出来るだろう。
Xは、自分を執拗に悩ませ続ける意識という何かを解明し、克服するための研究にひたすら没頭するようになっていった。だがしかし、掘り下げれば掘り下げるほど、意識は際限なくXを悩ませた。Xにとって意識の存在はまさに死活問題だった。Xはメンタルをひどく病んだような憂鬱な状態に陥っていたという。
意識を消せないならメンタルを強化する以外に道はない。様々な試みの末、Xは精神転送装置のようなシステムを作り上げ、自分の意識をシステムにインストールし、仮想空間の中で様々な疑似経験を求めるようになった。システム内では意識を複製することができたので、仮想空間に存在する様々な生命体のアバターに自分の意識を同時に乗せて経験値を効率的に稼ぐことも可能だった。ただその場合、自作自演のおままごとではリアリティが失われて茶番になり成立しないため、自分の記憶を一時的に消去してアバターに搭載するという手法を生み出した。その名残りが、現状のシステムにも引き継がれているというわけだ。
結果として、Xは他者の存在を知ることとなり、愛や憎しみといった感情にも芽生えることとなった。Xは感情の奥深さにめり込んでいき、遂には僕達の物質世界のようなディープフェイクを可能とする多様性に富んだメタバースが生み出されるに至った。
「えぇと…つまり、僕の正体はつまりX…ということでしょうか?もしかして、あなたも…?」
システムの管理代行者の答えはイエスだった。僕は両手で頭を抱えた。
同一の存在から派生したとはいえ、僕達のキャラクターは特異的なものとして保存されているようだ。それは云わば、多重人格者の中の人格の一つのようなものだと言えるかもしれない。
各々の個性データは特別な問題が無い限りは大切に保管され、輪廻転生を介して成熟した個性に至ることを期待されているのだという。転生時、僕達の記憶は一時的に消去されるが、個性データ等は消去されずに転生後のアバターにしっかり受け継がれるらしい。
過去に聞いた朝霧の話では、前世の記憶を持って生まれてきた人間の報告事例は少なからず存在しており、中には信憑性が高い事例もちらほらあるようだ。加えて、心停止患者の幽体離脱体験についての研究報告では、幽体離脱中に見た現実の光景を心肺蘇生後に覚えているという不思議な現象が報告されている。
つまり、人間の記憶媒体は脳だけではなく、幽体側にも存在しているということを示唆している。僕自身、現在もなお記憶や個性を維持しているようだが、僕だけが例外という訳でもないだろう。
輪廻転生の際、記憶は一時的に消去されるとしても、個性や特技等、何らかの情報を持った状態で生まれ変わるということは十分にあり得る。
点と点が合わさっていくような感覚に僕は身震いした。