Episode 3. ディープフェイク
「では、改めまして。私はこの仮想情報世界でシステム管理業務の一部を代行しておりますフォックス・スミスと申します。以後、お見知り置き下さい」
彼の自己紹介を聞いて、僕は思わず両手で頭を抱えた。ディープフェイクの仕掛け人とは思えないほど、あまりにもあっさりとしたネタ晴らしだった。本当に、狐につままれたような気分だ…。
これほど重要な情報を何故オープンにできるのだろうか…?この世界が仮想情報空間であるという事実はシステム側が最も秘匿したい情報じゃないのか?僕如きに知られたところで大した問題ではないということだろうか…?
「あ…あの、はじめまして。水無月 律と申します」
「よく存じております。コーヒーとお菓子をどうぞ。それらは今のあなたでも飲食することが出来ますのでどうぞご安心を。あと、あなたには不要かとは思いますが、砂糖とミルクもありますのでご自由に」
彼の言うとおり、僕はカップに触れることができた。
生前のように、香りや温もりが感じられる。一杯のコーヒーにこれほどの有難みを感じたことが今までにあっただろうか…?無論、僕が知っている通常のコーヒーとは明らかに異なる代物なのだろうが、このような体験を得る事は二度と叶わないだろうと思っていた僕にとっては感動に値する体験だった。
見知らぬ存在に勧められたものを口にすることは本来抵抗があるものだが、僕は彼の厚意に甘えて勧められるがままコーヒーを一口飲んだ。そもそも、情報空間を意のままに操れる存在が毒を盛るなどというアナログな手段を選ぶはずもなかった。
「…美味い」
思わず呟いた。香り、味、のど越し、温度、全てが生前と同じように感じられた。これが単なる情報の産物だとは信じられなかった。
「気に入っていただけたのなら何よりです」
おそらく彼は、生前に僕がブラックコーヒーを好んで飲んでいたという情報を事前に知っていて、僕の好みに完全に一致したコーヒーをわざわざ提供してくれたのだろうと思われる。彼の発言から察するに、僕には砂糖もミルクも不要だと知りながら敢えて準備してくれたのだろう。
彼は自身がシステム管理者であることを言より証拠で僕に示してくれているように思えた。僕の座標転移に干渉したことといい、事前にコーヒーを準備してくれていたことといい、僕の情報を知っていることといい、僕がこの体でも飲めるコーヒーを提供してくれたことといい。正直、ここまで見せつけられては、彼がシステム管理の代行者であることに疑いの余地はなかった。
「ありがとうございます…。実は、昨日から色々と非日常的な出来事が続いておりまして…。何を隠そう、今この場においても、まさかシステム側の存在が人の姿で、人の社会に溶け込んで活動しているとは思いもよらず、平常心を逸してしまっていました。おかげ様で少しだけ落ち着きました…」
「それはよかった」
対面でコーヒーを口にしながら微笑む彼は、どこからみても三十代くらいの顔立ちの整った男性にしか見えない。もし街中ですれ違っても、彼が人外の存在だとは絶対に気付けないだろう。
とある伝説的なSFラノベ作品の一つに、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースと呼ばれる少女が登場していたのを思い出したが、彼はまさにそれそのものじゃないだろうか。人間の社会には、僕が想像する以上に様々な異物が紛れているのかもしれない。
以前、朝霧も似たようなことを話していた。この世界には、未来人や地底人、宇宙人やタイムトラベラー等、メタバースの情報空間に干渉できると思しき存在が多数報告されているという。無論、大半が詐欺だろうが、一方では超大国の情報中枢から逃げ出した亡命者の内部告発等、信頼できる情報筋からの証言も相次いでいる。彼のような存在が実在するならそのどれもが全く有り得ない話ではない。
「あ…そういえば…僕は家に帰ろうとしていて意図せずここに来てしまったのですが、もしかして、僕はここに意図して招かれたのでしょうか?」
「はい。あなたが本日早朝に行った緊急マスターコールの申請がシステムによって承認されましたので、せっかくなら対面の方が良いかと思い、無礼を承知でこちらに座標転移させていただきました。驚かれたことでしょう。大変失礼いたしました」
やはり、早朝のあれか…。虚空に問いかけても全く応答が無かったので完全に無効だと思っていたが…。伝わっていたなら何かしらのリアクションが欲しかった…暴言を吐き散らしたことはこの際勘弁して欲しい。
「い、いえ…こちらこそ色々と申し訳ございません。事件に突然巻き込まれて訳の分からない事になってしまって。もう、自分一人ではどうしたらいいのかわからなくて…。藁にもすがる思いで闇雲に助けを求めてしまいました。このような機会を作っていただいて感謝します」
「心中お察しします。ご期待に沿えるかどうかは分かりませんが、システムに支障の無い範囲でご要望に沿わせていただきたいと思います。…では、そろそろ本題に入りましょうか。一応、念のためにお伺いしますが、本日はどのようなご相談でしょうか?」
聞きたい事。そういわれると、何から聞いていいのだろう。
全く考えていなかった。
「そうですね…あの…抽象的な質問で大変申し訳ないのですが…。僕は、あの事件を皮切りに一体どうなってしまったのでしょうか?僕は一体何者なのでしょうか?この世界は一体何なのでしょうか?僕はこの世界で一体何をすればよいのでしょうか?」
僕は思わず矢継ぎ早に、彼に対して質問を投げかけた。
疑問と言えばもう何もかも全てが疑問だった。
通常であれば相手を困らせる失礼な行為だが、なにせ相手は僕に関する全ての情報を手中に収める人外の存在だ。10人の相談を同時に聞き分けたという逸話を持つ聖徳太子よりも圧倒的に有能であることは間違いないだろう。
「聖徳太子ですか…。なるほど。あなたは聡い方です」
僕の思考を読んだ彼の返答に思わずギョッとした。
「もし仮に、あなたが知的水準の条件を自力でクリアしていなければ、あなたのマスターコールはシステムに承認されなかったでしょうし、あなたがここに呼ばれることも無かったでしょう。今のあなたは既に真理の輪郭を得ている。あなたの質問に対する答えは、あなたが大方予想している通りの答えになります」
彼の説明曰く、システムのルール上、真理の輪郭に自力で到達したと見なせる者に対してのみ、その努力と功績に見合った支援がシステム側から与えられるらしい。どうやら、システムは僕の考察を評価してくれているみたいだが…。本当に聡いのは僕の空っぽの脳みそに情報を与えてくれた僕の友人や、僕の代わりに世界の真相を日夜追求している全世界の優秀な科学者達の方だろう。
生前、幸運にも彼らの恩恵に被ることができたことが現在の僕のアドバンテージになっている。例え死んでも、知識や経験は失われないということだ。
僕の質問に対する彼の答えを要約すると、この世界は人間とは全く異質な知的生命体によって創造された巨大なシステムに内包されている仮想情報空間の一つであり、物質世界と死後世界の二層構造になっている。僕はその仮想情報空間にインストールされた情報体の一つであり、物質世界での専用アバターを先の事件で失い、現在は死後世界の専用アバターに情報体がリンクされた状態なのだという。
僕は両手で頭を抱えた。大体察してはいたが、実際にシステム側から具体的に明言されると正直キツいものがあった…。あの不条理に満ちた世界がメタバースだというのなら、一体どのような経緯と目的であのような世界が作られたというのか?何故、僕の意識がそこに組み込まれるに至ったのだろうか?そもそも、情報体である僕の由来は一体どこにあるのだろうか。つまり、僕はAI・NPCなのか、それとも知的生命体の意識が情報化されたものなのか。
「現状を理解するためには歴史背景を知る必要があります。少し長い話になりますが、とある知的生命体の昔話をさせてください」
彼はそう前置きすると、壮大な昔話を語り始めた。