Episode 2. 現実逃避
家から飛び出していった朝霧を見送った後、僕はしばらく彼の部屋に居座り自分の置かれている状況の深刻さに頭を悩ませていた。何より、位置情報が不明な相手のもとに適当な方法で瞬間移動できたという衝撃的な現象は、この世界がメタバースであるという蓋然性を強烈に示唆していた。
仮に、この世界がメタバースであるならば、朝霧の位置情報を含め、この世界に存在するありとあらゆる情報は外部世界に存在する記録媒体に集積されて保管管理されている可能性が高いんじゃないか…。言い換えるなら、アカシックレコードのようなオカルト的概念の代物が実際に存在しているということになる。
僕は、当該情報記録媒体に無意識にアクセスし、彼の正確な位置座標と座標転移の方法を無意識に取得し、その方法を無意識に実行したということだろうか?いや…。もしくは、僕とシステムの間を取り持つ守護霊的・仲介者的な存在がいて、僕の意向を間接的にシステムに反映させているという可能性もあるが…。
何より、アカシックレコードなる代物が実在する場合、裏を返せば、このシステム内に全知全能の何かが存在しているという事実に等しいのではないだろうか。それを神や仏と呼ぶのかどうかは別にして、僕は今まさに、全知全能のシステム管理者の支配下に置かれている可能性があるわけだ。だとしたらやばいな…。相当やばい…。自分の全ての情報を掌握し得る相手など、どう転んだって勝てる訳がない…。
そういえば、現状と似たようなシチュエーションのSF映画を昔見たことがある。その作品の中では、自我を持ったAIが仮想情報空間システムを用いて人類をディープフェイクにかけて支配しいたが…。仮に、管理者側がAIではなく、人間やその他の知的生命体であったとしても、確実に悪魔的な欲望を持ってシステムを用いるだろう…。嫌な予感しかしない。
だが…。単純に支配と搾取を目的としたシステムだとするなら、わざわざ死後世界の設定まで用意する必要があるのだろうか?訳が分からない…。物質的で動物的な欲望をもとにシステムが運用されていると考えると辻褄が合わない。それこそ、精神進化や経験値取得を目的とするような、人間とは全く異質な知的生命体の存在を背景に感じる。
危険な賭けだが、もし仮に管理者が存在するならGMコールの要領で応答してくれるかもしれない。僕はダメ元で虚空に向かって語りかけた。
「もしもし~すみません~システムの管理者さ~ん、聞こえているなら応答してください~」我ながら不審者を極めている。返事は無い。
「管理者様~神様、仏様、天使様、ご先祖様、守護霊様~もう誰でもいいので応答してください~」誰からも返事はない。まさに神も仏も無い辛辣な対応だ。
「神は死んだか。くそボケが…」
僕は色々な意味で頭を抱えた。瞬間移動すら可能な情報空間で音声メッセージが届かないことなんてあるだろうか?そもそもシステム管理者なんて存在しないのか?メッセージの送り方が間違っている?それとも単純に無視されている?何故?この世界のリアリティを追求するため?いや、そんな情熱いらないんだが…。
音声が伝わらないなら、こちらから直接出向くしかないか…。
それは流石に危険すぎるだろうか?だが…仮にシステム管理者が実在していて彼らが僕に敵意を持っているなら既に消されているだろうし、嫌なら相手にしなければいいだけの話だ。試す価値はあるだろう。
懸念があるとすれば、一度、管理者のもとに赴いたら簡単にはここに戻ってこれない可能性があるということだろうか。勝手な宗教的イメージだが、あの世に渡ってしまったらこの世に帰って来れる保証はないように感じる。僕はまだ自分の死を完全に受け入れることができていない。家族にもまだ別れを告げていない。くそったれなこの世界に何故か未練タラタラだ。
気になってはいたが、家族は今どうしているだろう…。
朝霧と会う前までは精神的に全く余裕がなかったが、不思議と今は少しだけ落ち着いて冷静になれている。今なら、何とか頑張れば現実と向き合いに行けそうだ。
先ほどと同じ要領で、僕は母と弟のいる場所に難なく瞬間移動した。
二人は地方から首都に向かう始発の飛行機に乗っていた。
弟は社会人だし、わざわざ平日に二人で旅行に行くことは考え難い。確実に僕の事件を受けて現地へと向かっている。
二人は事件の事をどこまで知っているのだろうか…。僕の遺体の損傷具合を見る限り、おそらく僕が死んだことはまだ確定されてはいないだろう。昨日のニュースを見る限り、実名報道はされていなかったが、安否不明扱いとなっている可能性が高い。
二人は、万に一つの可能性を信じて現地に向かっているのだろう。僕は状況の深刻さに、幽体の身でありながら思わず吐きそうになった。
遠方から僕の身を案じて来てくれた家族を出迎えることは、今の僕にはもう無理だ。僕の代わりに家族を迎えるのは、あの無惨に変わり果てた僕の遺体だ。もはや、僕本人かどうかも判別できない。見ない方がいい。見て欲しくない。通常の精神で受け止めきれる現実じゃない…。
迷惑ばかりかけてごめん…
悲しませてばかりでごめん…
こんなことになってただひたすら申し訳なかった。
仮に、この世界がメタバース的な性質を備えた世界だったとしても、僕達が命懸けでこの世界を現実として生きている以上、この世界がゲームになることは絶対に有り得ない。現実に対する視点が多少変わった程度で、現実に対する恐怖や悲しみが消えて無くなる訳ではない。
我ながら現実逃避が過ぎたな…。
僕は長男だが、長男としての家督を継ぐような古風な義務感や責任感は持っていなかった。自分のやりたいことを貫いて生きるという信念で、母の心配を振り切り自分の夢だった動画制作会社に入社した。低賃金・低待遇な会社だったが、自分の技術力や表現力、影響力を培うには最適の場所だったと思う。
頑張って金を貯めて旅行をしたり、趣味を充実させたいと思っていた。家族とも色々な思い出を作って、自分なりの形で少しずつでも恩返ししていくつもりだった。
何もできず、何者にもなれず、家族や友人とこのまま強制的に引き離されるなんて到底受け入れられない…。受け入れられる訳がない…。
…だめだ。これ以上、現実をまともに受け止めると精神が壊れてしまう。
一端、家に帰って気持ちを整理しよう…。
僕は目を閉じて、自分の部屋に瞬間移動を試みた。
畿内に響いていた音が消えたことを察知し、僕はゆっくり目を開けた。
そして愕然とした。
僕の眼前には、僕の予想に反した光景が広がっていた。そこは、僕の家とは明らかに異なる場所だった。どこかのオフィスの一室…応接室だろうか?広い間取りの部屋にテーブルとソファーが置かれている。
カーテンが開かれた窓の外を見ると大都会の景色が一望できた。どうやら、高層マンションの一室らしい。平常心を逸し過ぎて間違った場所を指定してしまったのだろうか?
僕は自分の単純ミスだと思い、再度、自分の部屋への瞬間移動を試みようとした。
その時だった。
突然、ガチャリと部屋のドアが開き、一人の男性が二人分のコーヒーカップとお菓子を乗せたトレーを持って部屋に入ってきた。
「水無月律さん、初めまして。どうぞ、そちらにおかけください」
見知らぬ男性から唐突に呼ばれた自分の名前に一瞬理解が追いつかなかった。
この部屋には彼と僕しかいない。
つまり、彼は明らかに僕に対して語りかけている。
「僕の姿が見えるのですか…?!」
彼は無言の笑顔で頷いた。
どういうことだろう?彼には僕が見えている。僕の名前を知っている。そればかりか、彼は僕がここに来ることを予め知っていたかのような応対を見せている。そのようなことが可能な存在はこの世界で余りにも限られている。
間違いない。彼は人間じゃない。僕はそう確信した。
いや。確信させられた、と表現した方が正しいかもしれない。
早朝、僕が朝霧の家で架空のシステム管理者に対して語りかけた内容が伝わっていたということだろうか?僕は管理者サイドに招かれたのか?詳細はわからないが、少なくとも目の前の彼は僕の疑問に答えられるだけの情報を持っているはずだ。
僕は畏怖と緊張を必死で抑えながら、彼に促されるままソファーに腰を下ろした。