Episode 1. 憂鬱
結局、昨夜は一睡もできなかった。瑠璃色に染まった夜明け前の空をぼんやりと眺めながら、僕は自分の身に起こった受け入れ難い現実に押しつぶされそうになっていた。自分の身に一体何が起こったというのだろうか。
昨日のことはよく覚えていない。朝起きて、普段と変わらず出勤し、会社に着いて仕事をしていた記憶まではハッキリしている。その後、記憶が定かではないが、突然、社内から誰かの叫び声と爆発音が聞こえたような気がして、気付いたらこの有様だった。
状況から察するに、僕はどうやら爆破テロに巻き込まれたらしい。昨夜、帰宅途中に街中で事件のニュースがあちこちで流れていた。僕以外にも、大勢の死傷者が出ているようだ。
今の僕と同じような状況に陥っている人が他にもいるのだろうか?可能であれば、他の被害者達と合流して状況を一緒に打開できないだろうか…。いや…。僕は頭を抱えて項垂れた。
正直、自分の現実すら全く受け止められていない状況で、他人に縋りついても迷惑になるだけだろうか…。実際、他人の現実を受け止められる余裕は今の僕には無い…。というか、単に、自分の身に起こった現実を知ることが恐ろしくてたまらないというだけかもしれない…。
爆発で大破し、劫火で焼き尽くされた建造物。身元の区別がつかない程破損した遺体の数々。精神の限界を超えた悲しみと絶望に耐える人々。それを食い物にするマスゴミ。被害者の個人情報を不正に取引し悪用する新聞記者や警察関係者。犯行の正当性を主張する犯人グループ。犯人グループを擁護する周辺諸国の破壊工作員達。まさにこの世の地獄だ。
事件に関連するものに触れることが恐ろしくてたまらない。事件の全てを真面に受け止められるほど僕の精神は頑強ではなかった。無論、そんなヘタレな事は言ってられない状況だというのは百も承知なのだが。当時の僕は、同じ状況を実際に体験した者でなければ理解し得ないような確たる予感を感じていた。理性が崩壊する半歩手前。これ以上進めば僕は確実に僕でなくなる。僕の本能がそう警告を発していた。
誰かに助けて欲しい。そう思った時、何故か家族よりも先に頭の片隅に浮かんだのは朝霧の存在だった。あいつは今頃どうしていんだろう。
僕は、大学卒業後に地元を離れたため、彼とはたまに連絡を取り合う程度の疎遠な関係になっていた。加えて言えば、昨年、メールのやり取り中に相手に距離を置かれてそのままの状態になっていた。彼は、距離感に無理が生じたと判断した人間関係については、一気に距離を取ろうとするような不器用な一面を持っていた。
連絡を取らなくなってからもう半年以上経つが…。あいつ、元気にしてるだろうか?僕が巻き込まれた事件にはもう気付いているのだろうか?簡単に距離を置けるような人間の事なんて、彼は全く心配していないとは思うが。今、彼が僕の現状を知ったら一体何を思うだろう?ワンチャン後悔の念を抱くようなこともあるだろうか?距離を置かれた側の身としては、それはそれで痛快かもしれないな…。
だがもし、僕と同じ状況に彼が立たされたのなら、彼はこの状況をどのように分析し、どのようなアクションを起こすだろうか?彼の事を深々と考えていると、数年前、彼がメタバース宇宙論における霊魂の位置付けについて熱心に語っていた記憶をふと思い出した。
宇宙開闢、つまり物質世界誕生のメカニズムについての学会の諸説を、当時の彼は僕に詳しく語って聞かせてくれた。近年の学説では、物質世界はもともと空間単位が重力的特異点に相当する無限大の密度で凝集した小さな種 (インフラトン)から光速を超える爆発的膨張によって発生したというビッグバン理論が有名だ。この場合、宇宙の種はどこからともなく謎の外力 (ダークエネルギー)を得て、光速を超える速度で爆発的に加速膨張し続けているということになるのだが、宇宙の種がダークエネルギーを獲得した経緯については様々な議論がなされている。
例えば、宇宙の種は一つではなく無数に存在しており、それらが互いに衝突し合うことでダークエネルギーを獲得したという説。この場合、宇宙は一つではなく複数存在している可能性を示唆しており<多元宇宙論>の派生的な考え方と言える。多種多様な非通常物質が世界にありふれているとするならば、世界に存在する宇宙が我々の属する宇宙一つだけとは考え難いし、宇宙の種のみならず様々な非通常物質的な構造物が存在している可能性も高いだろう。
一方、宇宙は真空からトンネル効果によって自発的に誕生したという説もある。この場合、完全なる無と呼ばれる場はそもそもこの世界に存在せず、全ての始まりには真空のみが存在していたと仮説される。真空は完全にエネルギーがゼロの静止した空間ではなく、真空エネルギーと呼ばれるダークエネルギーを先天的に有しており、恒常的に揺らいでいる状態であることが知られている。この現象を<量子ゆらぎ>という。真空の揺らぎはまるで海の波のように、局所的に強まったり弱まったりを繰り返しており、その様相は<ディラックの海>とも表現される。波の干渉によって局所的に大きなダークエネルギーが発生した場所では、スピン角運動量保存則に従い、二対の相反する磁気モーメントをもった素粒子が対生成し、すぐさま互いに結びついて対消滅するという現象が起こる。つまり、素粒子レベルのミクロな世界は、マクロな世界の物理法則とは異なり、瞬間的にエネルギー保存則を無視して無の状態から素粒子が生じることも可能であるということだ。そのような対生成と対消滅を繰り返す中で、奇跡的に対消滅を免れて安定に存在する素粒子が生み出される場合がある。このように、素粒子がたまたま偶然にエネルギー障壁を無視したバグ的な挙動を示す現象を<トンネル効果>と呼ぶ。トンネル効果の応用事例としては、ジョセフソン素子が有名だ。超伝導体に絶縁体を挟むと、電圧0Vの状態でも電子が絶縁体をわずかに通過する現象が起こる。同様の理屈で、宇宙の種は必要なエネルギー障壁を無視してたまたま偶然ビッグバンに至ったのだという。
どちらもあり得る話だが、いずれにせよ宇宙の誕生と膨張には通常の物理学的なエネルギーの概念を超えた巨大なダークエネルギーの存在が不可欠であるという点は共通している。有名な話では、宇宙誕生から現在の宇宙に至るまでのプロセスをスーパーコンピュータを用いてシミュレーションした場合、必要な構成要素としてダークエネルギーが68%、ダークマターが27%、通常物質 (バリオン)が5%必要になるという。ダークマターとは、広義では直接的に観測不可能な正体不明の物質の総称だ。巨大な質量を有しているダークマターであれば、重力レンズ効果を応用して間接的に宇宙空間における分布位置を推定することができる。ダークマターの正体は定かではなく、現在も様々な研究がなされている。
結局、朝霧の言いたいことは、人間の霊魂は宇宙に存在する未知の非通常物質から構成された知的生命体の一種である可能性があるということだ。この場合、霊魂と肉体は片利共生ないし相利共生の関係にあるということになるのだろうか。
だが、実際、そんなことが有り得るだろうか?非通常物質と通常物質の物理法則は完全に一致していない。お互いに相互作用することすら難しい関係同士が自然選択の中で密接な関係を作り上げるような進化に行き着くことは考えにくい。加えて、現在、僕は床と相互作用している訳でもないのに部屋の中で普通に立ち上がり、生まれたての小鹿のようにバランスを崩すことも無く動けている。物理法則がめちゃくちゃだ。一体どういう仕組みなのだろう?
一方、全てがメタバースの設定に過ぎないのだとするなら、例に習ってある程度の細かい矛盾は許容され得る。朝霧の説明によると、この場合、霊魂はシステム内にインストールされた情報体として存在しており、本体はシステム外部の世界に存在しているか、既に失われているか、そもそも存在しないという。そもそも存在しないというのは、僕がNPCである可能性を排除できないということだ。
仮に、この世界がメタバースであるなら、物質世界で観測される物理法則を無視した心霊現象や怪奇現象を説明することも容易い。
解りやすい例だと、霊魂の特徴の一つとして考えられている瞬間移動が挙げられる。幽体離脱を経験した心停止患者の体験談の中には、遠隔地に一瞬でテレポートが可能になるという不思議な経験をしたという報告が多数存在する。もし仮に、霊魂が情報体であるなら、システム内に存在する量子もつれ的な情報伝達機構を介してゲーム世界のように一瞬で遠く離れた位置座標に移動することも可能だろう。
また、心霊現象の例を挙げると、遠方にいる幽霊を目撃した瞬間、自分の背後に幽霊が瞬間移動してきたという類いの現象は典型例として知られている。PCで心霊動画を見ている時や、怪談話をしている時にも同様の現象が起こったという報告もある。ただし、心霊現象に関しては定かでない部分が多分に含まれており、自分自身や身近な人間が二人以上の複数人で同時に体験したものでない限り信憑性に乏しい。まぁ、朝霧自身が実際に似たような体験をしているらしいので、ここでは敢えて問題視しないが…。
…ちょっと待て。もしかして、今の僕でも瞬間移動できるのだろうか?
慣れない体で具体的にどうすればいいのか全く分からないが…。とりあえず、彼の伝説的な格闘漫画の主人公に習い、右手の人差し指と中指を額に当てがってみた。目を閉じて何故か朝霧のもとへ行くイメージを適当に思い浮かべる。我ながらすげぇ適当だ…。
というか、こんなことで瞬間移動できたら逆に全く洒落にならないのだが…。そう思いながらゆっくり目を開けると、驚くべきことに僕の眼前には先程とは明らかに異なる見知らぬ部屋の光景が広がっていた。
愕然とした。理解が全く追いつかない宇宙猫の心境だった。
恐る恐る周囲を見回すと、その部屋にはベッドがあり、誰かが布団に包まって眠っている。この布団の色と柄は見覚えがあるが…。いや、まさか…。そう思いながら布団で寝ている主の顔をそっと覗き込むと、案の定、そこで寝ていたのは朝霧本人だった。
僕は思わず後ずさり、その場に蹲って頭を抱えた。
ありえない…。もう、めちゃくちゃだ…。
あんな適当な方法で容易に瞬間移動ができたこと自体異常過ぎるのだが…。そもそも、僕は朝霧の位置座標を全く知らなかったのだ。無論、この時間帯であれば彼の家に瞬間移動すれば寝ている彼と遭遇できる可能性はかなり高いだろう。だが、彼は僕の知らないマンションに引越ししていた。僕の持っている情報だけでは、彼の位置座標を予測することができない状況だった。
一体、どのような仕組みでこんな馬鹿げたことが可能になるというのだろうか?
ここで寝ている彼なら、僕が置かれている状況に手を貸してくれるかもしれない。僕はダメ元で彼を起こそうと試みた。彼に直接触れられないのなら、せめてラップ音的な音を出せないものだろうか?
試行錯誤している最中、彼の顔の前で思いっきり両手をパンッと叩いた際に彼が突然驚いた様子でベッドから飛び起きた。よくわからないが、どうやら奇跡的に相手に聞こえる音が出せたらしい。これがラップ現象・虫の知らせ現象というやつなのだろう。
飛び起きた彼は、暫く茫然とし、ふと何かを察した様子で、急いで身支度を始めて外に飛び出していった。彼が何処に向かったのかは分からない。それでも、何故だろう。不思議と彼には僕の最低限の意図が伝わったように思えた。