Episode 17. ホログラフィー
早朝、フォックスの事務所を訪れると、既にリサがコーヒーと茶菓子を飲食しながらソファーでまったりくつろいでいた。
「おはよう、りっ君。元気そうだね。また会えて嬉しいよ」
僕を笑顔で迎えてくれたリサに応えるように、僕もまた打ち解けた口調で語りかけた。
「リサさん、おはようございます。こちらこそ。お時間を作っていただけて光栄です。今日はフォックスさんはご不在ですか?」
「そうだね。別用に当たっているよ。必要であれば後で分身体をよこしてもらおうか?」
「僕は大丈夫ですが、お任せします」
僕はリサに促されるままソファーへと座り、先日リサと別れた後の顛末をなるべく詳細に情報共有した。例の如く、彼女は既に僕の詳細を把握しているのだろうが、リアルタイムで変化し続ける僕の心境や頭の中まで詳細に把握しているかどうかについては不明な部分がある。よって念のため、この世界に対する僕の考察や今後の作品作りに際してのコンセプト案等々、彼女が知らない可能性のある情報は全てこの場で共有できるよう言葉を尽くした。
フォックスが不在だからだろうか?リサは前回よりも前のめりで、リアクションを交えながら僕の話を興味深そうに聞いてくれた。彼女のような存在に興味を持ってもらえるというのは本当にありがたいことだ。話の最後に、過去の経緯と将来の展望を踏まえ、僕自身の課題をいくつか挙げさせてもらい、情報取得と学習のためにリサを訪ねたことを付け加えた。
「なるほど…。りっ君は本当に面白い情報体を持ってるね。いいよ。協力してあげる。ただし、システムのルール上、アカシックレコードからの物質世界に関する情報の取得に際しては、必要なエネルギーを自分で等価交換する必要があるけれど。情報量を絞れば消費コストはそれほど高くならないから大丈夫。初回は100P分くらい情報ファイルをダウンロードすれば十分じゃないかな。で、私は取得する情報の取捨選択と中身の解説をサポートする。そんな形式でいいかな?」
「はい、お願いします」
「了解♪ それじゃあ、早速始めようか」
リサはそう言うと、眼鏡を外してソファーからおもむろに立ち上がった。全く予想していなかった彼女の動き。一体何をするのかと思いきや、彼女は僕の傍まで歩み寄り、僕の頭を両手で固定して自分の額を僕の額に接触させた。その一連の所作に、僕があせり散らしたことは言うまでもない。
リサ曰く情報処理に必要な所作らしいのだが、絶対に嘘だろ…。そんな奇抜な仕様がわざわざ設定されているなんて普通に考えておかしい…。
と。思っていた矢先だった。突然、僕の中に膨大な量の情報が津波のように流れ込んできた。言葉では表現し難いその圧力、その負荷に思わず意識が飛びそうになる。
「情報を単純にダウンロードさせるだけなら私も簡単なんだけどね…。情報量が多いと疑似情報体に相当な負荷がかかって命の危険を伴うこともあるから、りっ君の負荷が限界値を超えないように情報流量をコントロールしてあげる必要があるんだよ」
いや、そういう大事なことは先に言って欲しかった…。
情報流量を調節しているとはいえ、眩暈と頭痛と吐き気のようなものが同時に襲い掛かってくる。リサはギリギリを攻めているのだろうか…?多少時間がかかってもいいから、もう少し優しくして欲しい…。
それにしても、今までほとんど意識していなかったが、疑似情報体には肉体と似たような眩暈や痛覚等を体験できる機能が備わっているようだ。吐くものが無いのに吐き気を感じるなんて不思議な感覚だ…。
地獄の十数分間が終わり、僕の中に必要な情報ファイルがダウンロードされた。これらを今から時系列に従って展開していくわけだが、僕はこの時点で既に瀕死の状態だった。
後学のためを思えば耐える価値は十分にあるだろうが、おそらく誰もが安易に情報を大量に取得できないような仕様に意図的に設定されているんじゃないかとも思った。リサ曰く、そのメタ的見立ては実際に正しいらしい。加えて言えば、特定の個人情報を取得する場合においてはシステム仲介者の承認やセキュリティの解除が別途必要になるらしく、リサがサポートしない場合においては、今以上に膨大な情報負荷が掛かるのだという。
実際、彼女は僕の個人情報を難なく簡単に取得できているわけで…リサと僕とでは使用しているアバターの性能格差がどれほど違うものなのか身に染みてよく分かった。そもそも、僕が疑似情報体アバターを使用している限りにおいては、このシステム内で彼らに敵うわけがないのだが…。
「じゃあ、とりあえず物質世界の誕生から現状に至る流れをメタ的視点を踏まえながら簡単に見ていこうか」
「お…お願いします……」
リサがそう言うと、室内が突如暗転し、室内空間にOPの映像が投影されはじめた。まるで、自分がその空間に降り立ったかのような臨場感。どのような仕組みになっているかは不明だが、例えるならプラネタリウムや結婚式場等でよく用いられるプロジェクションマッピング技術の三次元バージョンといったところだろうか。壁や天井ではなく、空間そのものに映像が鮮明に投影されている。
そういえば、過去に朝霧がこれと似たような現象を宇宙論に当てはめた「ホログラフィック宇宙論」について詳しく語ってくれたことがあったな…。
確か、重力問題を解決する理論の一つで、ブラックホールの事象の地平面のような二次元平面に固定化された量子情報が三次元に投影された独特な世界観を提起していた記憶がある。宇宙物理学の天才達が支持する当該理論を初めて聞いた当時は、余りにもぶっ飛び過ぎた洞察で有り得ないだろうと思ったりもしたが、今思い返すと、他のどの宇宙論よりも正確に的を射ているんじゃないかとも思える。
二次元平面ではなく情報基盤、ソリッドステートから量子もつれ的情報伝達機構を介して送られてくる情報が三次元空間に投影された世界。それが当該メタバースの正体だ。ホログラフィック宇宙論は物理学の範疇で理論を展開しているため、流石にメタバースまでは想定してはいないものの、概念的には大体一致している。だが、おそらく、当該理論を支持する物理学者達は、論文にしないだけで、実際には世界の正体に気付いているんじゃないかとも思う。無知のままに天才達が示唆する可能性を否定することは愚かだったと今まさに反省している。
OP映像が終わり、本編の開始をしばらく待っていると、暗転した空間に突如として宇宙と地球が現れた。
「…ん?あれ…?リサさん、すみません…あの…僕、できればビッグバンのところからじっくり視聴したかったんですけど…」
「え?ビッグバン?今一瞬出てたけど、見えなかった?」
「え…?!いや…もう全然。なんも見えないっすね…」
どうやら、宇宙開闢から生命誕生までの百数十億年という期間における世界創造は、システムの創始者であるXと当該システム自体の驚異的な情報処理能力によって早送りや飛び飛びで進められたらしい。
予想はしていたが、嫌な予感が初っ端から的中したな…。これだと「世界五分前仮説」が提起する現象と似たような現象がこの世界でも実際に起こったことにならないだろうか。まぁ、最終的に物理的な辻褄が合うなら問題はないのかもしれないが…。
実際、素粒子の挙動の不確定性と同じ理屈で、知的生命体に直接確認される畏れがないと判断されたものであれば、多少の矛盾や手抜きを孕んでいても許容されるのがこのシステムの実態だ。この際、もはや何も驚くことはないだろう。
早速出鼻を挫かれた僕は、改めて覚悟を決め、動画を超低速再生で回し始めた。