7
「あんたら、本気でここに降りる気かい?」
怪訝そうな顔で船長に訊かれ、アネーシャは「たぶん」と自信なさげにコヤを見た。
『大丈夫、ここで間違いないから』
「ここで間違いないみたいです」
「でもここ、無人島だよ」
『人はいないけど自然は豊かよ。果物やナッツ類も自生しているし、食べ物には困らないわ』
「それにドラゴンの巣があるかもしれない」
『単なる噂。実際はないから』
アネーシャは観念してふうと息を吐いた。
「構いません。ここで降ります」
結局この島で下船したのは、乗客のうち二人だけだった。
目的地が無人島だと分かってもシアは反対することなく、黙って付いてきた。元々無口な性格なのか、それとも仕事に集中しているせいか、彼はあれから、ほとんど口を利かない。下船してからも周囲の警戒を怠らず、注意深くコヤと会話するアネーシャの言葉に耳を傾けている。
『村があったのはこの辺りよ』
桟橋をあとにしてしばらく歩くと、コヤが唐突に足を止めた。
『今じゃ何にもないけど』
確かに雑草が生い茂っていて何もない。
それどころか森と化している。
「それっていつの話?」
『五、六百年前くらい?』
考えるだけで気が遠くなってきた。
「大雑把すぎない?」
『彼に会ったのはそれからさらに百年前くらいかな』
「彼って……前に話してくれた、邪神ドルクのことだよね?」
その言葉にシアが反応したようにこちらを向く。
「あとでまとめて説明するから」
彼は頷くと、周辺を散策し始めた。
初めての土地で、落ち着かないのだろう。
『そうよ。元は人間だった。羊飼いで、よく丘の上で昼寝をしていたわ』
「で?」
『ある時、あたしはこの島の上空を通りかかったの。そしたらものすごいイビキが聞こえてきて……あとは分かるでしょ?』
全く分からないとアネーシャは首を振る。
『若いんだから察しなさいよ。気持ちよさそうに眠っている彼を見つけて、恋に落ちたの』
「……そんなにカッコ良かった?」
『アネーシャ、男は顔じゃないのよ』
したり顔で言う。
『まあ確かに美形ではなかったわね。体型も大柄でがっしりしてて、腕の筋肉がまたすごいの。それにあの体臭――獣臭くて、何日も身体を洗っていない感じがもうたまらなくてね……』
へぇ、と相槌を打ちながら、アネーシャは視線を遠くに向ける。月の女神のルーツを辿るというより、母親の恋バナに付き合わされている気分だった。
『どんなに遠くにいても、匂いだけで彼がどこにいるのか分かったわ』
「そうなんだ」
完全にその男に心を奪われてしまったコヤは、何度も彼のそばに行き、長時間、彼の寝顔を見て過ごしたという。けれどある時、それだけでは物足りなくなってしまい、思い切って彼の前に姿を現したらしい。本来、普通の人間に神であるコヤの姿は見えないのだが、
『なんと、彼にはあたしの姿が見えていたの』
「普通の人間じゃなかったってこと?」
『彼には少しだけ、古き神の血が流れてみたい。大昔にいたのよ。神同士の争いに破れて、地上に追放された古の神が』
これって運命よねと、ノロケながら彼女は続ける。
『もっとも彼は、自分は夢の世界にいるんだって思い込んでたけど。それもそうよね。目の前に、こんな美女が現れたら現実とは思えないでしょ? その上、裸だったし』
なぜ裸だったのかは訊かないことにした。
知りたくもない。
「彼の反応は?」
『そりゃあもう興奮して、獣のように……分かった、詳しくは言わないから。そんな顔しないで』
「少しは恥じらいを持ってよ」
『人間の分際で、神に説教する気?』
「それで二人は結ばれたのね」
面倒なので強引に話を進める。
『そうよ。激しい時なんて、三日三晩愛し合ったわ。身体の相性もばっちり』
「そういうの、いらないから」
『心から彼を愛して、彼もまた、あたしを愛してくれた。でもある時、気づいちゃったの』
「何に?」
『彼の目尻や口元の皺に……髪の毛にも白髪が混じってたわ……』
恐ろしげにつぶやく女神に、アネーシャは冷たく言った。
「コヤ様が精気を吸い取ったからじゃないの? 淫魔みたいに」
『ちょっと、月の女神に向かってなんてこと言うのよ』
「それか若白髪とか?」
『まあその可能性も無きにしも非ず――って、言いたいのはそういうことじゃなくて』
分かってると、アネーシャは苦笑した。
「人間はいずれ老いて死んでいく。不老不死のコヤ様と違って」
『だから彼に選んでもらった。あたしと共に永遠の時を生きるか、人として生涯を終えるか』
「そして彼はコヤ様と生きることを選んだ」
そう続けると、コヤは人の姿に戻り、今にも泣き出しそうな顔をした。
『ええ、そう。あなたの言う通りよ、アネーシャ』
「だったらどうして邪神なんかに」
『あたしが父を――全知全能の神を怒らせてしまったの。無断で彼に永遠の命を与えてしまったから』
全知全能の神は罰として、ドルクを怪物の姿に変えてしまった。
醜い姿に変えられたドルクは絶望し、大きな洞窟の奥に身を隠してしまう。女神は許しを請うためにドルクに会いに行き、拒まれても拒まれても、彼の元へ通い続けたという。
ある時、ドルクの中で眠っていた古の神の力が目覚め、凶暴なドラゴンたちを大量に発生させる。やがて理性を失い、人間を襲い始めたドルクは、全知全能の神に倒され、封印されてしまう。しかし、彼の分身であるドラゴンは尚も生き続け、繁殖し、人間を襲う害獣となった。
そこで女神は、一人の無垢な人間の少女に、ドラゴンから身を守るための神力を与えた。
それが聖女の始まりである。
聖女は様々な土地で神力を使い、ドラゴンの襲撃から人々を守った。やがてその役目がドラゴンハンターに取って代わられると、聖女は月の女神を信仰する宗教団体に保護され、神の代行者として人々を救った。
『あたしがこうして、地上に留まり続けているのはそのせい』
「罪悪感から?」
『それもあるけど、単純に彼のそばにいたいから』
コヤは笑って言うと、再び猫の姿に戻ってしまった。
「ドルクの封印場所を知ってるの?」
『ええ。もちろん、けど、目覚めさせる気はないわ』
「でもいずれ、そこにも行くんでしょ?」
『どうしようかしら』
もったいぶったように言い、コヤはうーんと背筋を伸ばす。
『長話しすぎちゃったわね』
「お腹もすいたし喉も乾いた。シアは?」
「シアヒレンの根なら持ってる」
「それは食べられないかな」
注意を引くようにコヤが「にゃー」と鳴く。
『来て、果物がなってるところへ連れて行ってあげる』