56
ダガーを置いて一人駆け出したアネーシャは、引き裂かれそうな胸の痛みを感じていた。これが失恋の痛み――こんな惨めな思いをするくらいなら、もう二度と恋などするものかと決意しかけた矢先、
「ぶっ」
人にぶつかってしまった。
その上、勢い余って相手を弾き飛ばしてしまった。
「……ってて、ってアネーシャ?」
「ジェミナっ」
おそらく仕事帰り――ギルドへ戻る途中なのだろう。
全身血まみれで尻餅をついているジェミナに、アネーシャは駆け寄る。
「なんで血まみれ? 怪我したの?」
「うんや、痛いとこないから返り血みたい」
「ってかそれって剣? ジェミナ、剣を買ったの?」
間違いなく中古品で、ところどころ錆びついている。
かなりの年代物だ。
「ああ、この剣? 気づいたら持ってたんだよね。誰かがくれたのかな?」
ツッコミどころ満載の返答だが、今のアネーシャはそれどころではなく、
「うわーん、ジェミナっ、振られちゃったよっ」
「ど、どうしたの、アネーシャ」
慰めを求めて抱きつくと、ジェミナは顔を赤くしておろおろしていた。
「あの男……やっぱり女がいやがった」
「あの男って、シアじゃないよね? だったらウルスさん?」
察しのいい彼女に、こくこくとうなずく。
「それ、僕も初耳なんだけど」
「さっき、綺麗な女の人と仲良く話してた」
「どんな人?」
「栗毛で足の長い女の人。巨乳で色気があって……」
「ああ、アビゲイルさん? あの人、見た目は若いけどウルスさんより年上だよ」
若さでは負けていないと知り、アネーシャは涙を拭う。
「彼女もドラゴンハンターなの?」
「うん、Aランクハンター。強いよ」
「う、ウルスさんとはどういうご関係?」
「ご関係って……昔馴染みの友人だって聞いてるけど」
「恋人ではない?」
「それは僕にもわからないよ。本人に訊いたら?」
それができたら苦労はしない。
二人の親密そうな態度を思い出して、アネーシャは落ち込んでしまう。
「ああ、良かった。やっと追いついた」
聞き慣れた声がして、はっと顔を向ける。
はあはあと息を切らせて追いかけてきたのはダガーだった。しかし彼は一緒にいるジェミナに気づくと、なぜか怯えた顔をして後じさりする。
「ダガー、ジェミナのこと思い出したの?」
かぶりを振る彼に、首を傾げる。
「大丈夫だよ、怖くないから」
「僕が恐ろしいと思っているのはその娘じゃない」
言いながらダガーは震える手であるものを指差す。
「その娘が持っている剣だ」
剣? とアネーシャが視線を向けた時には既にジェミナは立ち上がっていて、、
「まだ時間がかかると思っていたけど、もう定着したのね」
金髪に金の目、ジェミナの身体に憑依したサウラが高々と剣を掲げていた。
そして彼女の視線の先にはダガーがいた。
「器との相性がよほど良いのか。嬉しい誤算だわ」
「……君は何を言っているんだ?」
「記憶のほうは――なるほど、何も覚えていないようね。けれどこの剣を見て怯えているということは……」
「誰だって剣を突きつけられれば怯えるに決まっている」
「そう? こんな古びたボロボロの剣が、そんなに恐ろしい?」
言いながらサウラは、すっと鞘からそれを抜いた。
「見て、ひどい刃こぼれ。これではネズミ一匹殺せやしないわ」
しかしダガーは「ひっ」と息を呑むと、身を守るような仕草をする。
「そうねぇ、この剣で殺せるものと言えば……せいぜい神くらいかしらねぇ」
ニヤたァと女神らしからぬ凶暴な笑みを浮かべると、そのままダガーに斬りかかった。
シアが――ダガーが殺されてしまう。
恐怖のあまり硬直してしまったアネーシャだったが、
「……うそ」
ダガーはサウラと同等か、それ以上の速さで彼女の攻撃を回避していた。
もしやサウラがまた、遊び半分で手を抜いているのかとも思ったが、
「――クソがっ。元は人間の分際でっ」
どうやらそうでもないらしい。
「腸を引き裂いて、ぐちゃぐちゃにしてやる。私の可愛い妹に手を出した報いよ」
目をギラギラさせて、逃げ回るダガーに剣を向ける。
これほど余裕のない彼女を見るのは初めてだ。
「やめてくださいっ、サウラ様っ」
たまりかねてアネーシャが二人の間に割って入ると、露骨に舌打ちされてしまう。
「そこをどきなさい、アネーシャ」
「嫌ですっ。ダガーが……シアがあなたに何をしたというんですかっ」
「私の話を聞いていなかったの? そこにいるのはあなたの仲間などではない」
アネーシャの後ろに隠れて震えているダガーを指差し、サウラは嘲笑する。
「その坊やの中にいるのは化物――邪神ドルクよ」




