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翌朝、心配になってシアの様子を見に行くと、
「……君は誰だい?」
まるで別人のような表情を浮かべて、ベッドに腰掛けている彼がいた。
「そして僕は誰なんだろう」
不思議そうな顔で辺りを見回したかと思えば、「僕の手はこんなにも小さかったか?」と呆然とした様子で自分の両手を見下ろしている。
それを見たアネーシャは「どうしよう。辛いもの食べ過ぎたせいでシアがおかしくなっちゃった」と自分を責めた。夕飯のチョイスを責めた。
罪滅しとしてシアに近づき、頭部辺りで両手をかざす。
コヤからもらった神力で彼の記憶喪失を治療したつもりが、
「さっきから君は何をしているんだい?」
怪訝そうな視線を向けられて、慌てて両手を下ろした。
――癒しの力が効かない?
それともいつの間にか神力を使い果たしてしまったのか。
コヤがそばにいないので、まるで原因が分からない。
「シア、本当に私のこと覚えてないの?」
「……シア、それが僕の名前かい?」
そうだとうなずくと、「なんだかしっくりこないな」と変な顔をしている。
「ところで君の名前は?」
「やっぱり覚えてないんだ。アネーシャよ」
「アネーシャ……素敵な名だね。<祈り>を意味する古い言葉だ」
ただでさえシアは、コヤ並みの美貌の持ち主だ。いつもはふくれっ面をしている彼に、優しく微笑みかけられて、アネーシャは不覚にもどきどきしてしまった。
――シアじゃない、これは絶対にシアじゃない。
そう自分に言い聞かせて、火照った頬を両手で冷やす。
「だったら、あなたのことは何て呼べばいい?」
「そうだな……」
彼は困ったように辺りを見回すと、テーブルの上に置かれた短剣を指差して言った。
「ダガーで」
「いいの? すごく適当につけた感じがするけど」
いいんだと彼は――ダガーは笑って目を細める。
「こっちのほうがしっくりくる。本当の名前もこれに近いのかもしれない」
試しに「ダガー」と口に出して呼んでみる。「何だい?」と柔らかな笑みを向けられて、アネーシャは戸惑ってしまった。目の前の少年は間違いなく「シア」なのに、呼び名を変えただけ別人と接しているような錯覚を感じた。
――シアがシアじゃないみたい。
多少の不安はあったものの、どうせコヤが戻ってきたら全て解決するのだから、心配するだけ無駄だとアネーシャは結論づけた。それに昨日から色々あったせいで急激にお腹がすいてきた。
「よしっ、話も終わったことだし、朝ご飯食べに行こう」
「何も終わっていないよ、アネーシャ。僕が記憶喪失だってこと忘れてないかい?」
「何を知りたいの?」
「今の状況とか、この身体のこととか……」
「食べながら説明するから、さあ、早く支度して」
***
「毒人間? 僕は毒人間なのかい?」
「そう。だから悪いけど、これからはソーシャルディスタンスを心がけてね」
「……そーしゃるでぃすたんす?」
「美人を見かけてもナンパしちゃダメってこと。触れただけで死んじゃうから」
「ナンパなんかしないよ。そもそも美人は苦手なんだ」
「ならブス専?」
「極端な言い方はやめてくれないかな」
食堂でお茶をすすりながら、彼は物憂げな様子で言った。
近くにいる女性客がちらちらとダガーを盗み見ている。普段のシアはどこか近寄りがたい雰囲気だが――ぶっきらぼうでいつも冷めた目をしているが――ダガーの表情は柔らかく、どこか男の色気があって、アネーシャも内心ではドギマギしていた。
――なんていうか、ちょっとだけウルスさんっぽい?
でもそれだとまるで……。
「だったらアネーシャ、僕と一緒にいると、君も危険じゃないのかい」
「平気だよ。私はコヤ様に守られているから」
腹が膨れてご機嫌なアネーシャがにこやかに答えると、ダガーの顔がにわかに凍りついた。
「……こや?」
「月の女神コヤ・トリカ様のこと。私が説明すると胡散臭く聞こえるからあんまり言いたくないんだけど、特別な力で守られているから大丈夫ってことで」
聖女(処女)であるということは伏せた。
アネーシャとて恥じらいはあるのだ。
「こや……こや・とりか」
なぜか不穏なオーラを漂わせてつぶやく彼に、「どうしたの?」と首を傾げる。
「何か思い出した?」
「いや、ただちょっと嫌な感じがして……」
「コヤ様は絶世の美女なのに?」
「言ったろ、僕は美人が苦手だって」
「美人が相手だとプレッシャーを感じるってやつ?」
「……アネーシャ、君ねぇ……」
ダガーは気の抜けたような声を出すと、あらためてアネーシャを見た。
長い間まじまじと見つめられて、アネーシャはさっと口元を隠す。
「何? 口に食べカス付いてる?」
「君は面白い子だね、アネーシャ」
「それって褒めてるの? 貶してるの?」
「僕は好きだな、君みたいな子」
キラキラした目――楽しい遊びを見つけた子どものような視線を向けられて、騙されるものかとアネーシャは目尻を吊り上げる。
「私がブスって言いたいわけ?」
「とんでもない。すごく可愛いなと思って」
美人嫌いに「可愛い」と言われて、素直に喜べるはずもなく、
「私はブスじゃない。地味なだけ」
断固として言い張るアネーシャだった。




