39
『ちっ、やっぱりこうなったか』
預言書の内容を意識するあまり、ウルスから離れて歩くアネーシャを見、コヤは舌打ちする。どうやら事を急ぎすぎたようだ。この調子では、二人を結びつけるまで時間がかかるだろうと。
一方アネーシャはアネーシャで、「コヤ様が私とウルスさんを無理矢理くっつけようとしている。最愛の男に会うために」と警戒心を強くしていた。「処女を失ったらコヤ様に会えなくなるのに……」と涙ぐみ、あらためて、固く貞操を守ろうと誓う。
アネーシャにとっては国を救うことよりも、コヤと一緒にいられる時間のほうが大切だったからだ。
「それでこれからどこへ向かうんだ?」
地上に出た後、ウルスに訊かれて、ちらりとコヤを見るアネーシャ。
「コヤ様、次はどこへ行くの?」
『そんなに慌てることないじゃない。しばらくここでゆっくりしていきなさいな』
「……でもここ、何もないよ?」
このやりとり、またもやデジャビュだ。
『歴史的価値のある遺跡があちこちにあるでしょうが』
絶対にここで何かさせる気だと、アネーシャは顔をしかめる。
「もういい、コヤ様なんか無視して、近くの町へ行くから」
「……女神はここに留まれと言っているんだろう?」
怪訝そうに眉をひそめるウルスに、アネーシャは喧嘩腰で答える。
「ウルスさんは好きにしてください。でも、私はもう、ここにいたくない」
「……アネーシャ」
シアが咎めるように自分を呼ぶ。わかっていると、アネーシャは唇を噛んだ。ウルスには散々助けられておいて、申し訳ないと思ったし、自分でも身勝手だと思ったが、今はそっとしておいて欲しかった。
「誰も付いてこなくていい。一人にして」
その場から逃げるようにアネーシャは駆け出した。
***
「……本当に誰もついてこないし」
とぼとぼと歩きながら、アネーシャはぽつりとこぼした。
「ウルスさんがいるからシアはわかるけど……コヤ様まで……」
けれどそれは自業自得だった。
一人にしてと、心から願ってしまった自分が悪いのだ。
女神は聖女の願いを叶えるもの――それがたとえどんな願いでも。
「これからどうしよう」
やっぱり皆のところへ戻るべきだろうか。
悩んでいると、突風が吹いてアネーシャの髪が宙に舞った。
砂埃を吸い込まないよう、慌てて息を止めて目を閉じる。
……ずっとこの時を待っていた。
ふと、誰かの声が聞こえた気がして――コヤに呼ばれたような気がして、アネーシャの足は自然とそちらへ向かった。しばらく歩くと、小さな神殿の跡地が見えてくる。祭壇がぽつりと置かれているだけで、他には何もない。
けれど祭壇に横たわる人影を見つけて、アネーシャははっと息を飲んだ。
最初は石像か何かだろうと思っていたのに。
近づくにつれて、生きている人間だと気づいた。
「そこで何をしているの? どうやってここへ来たの?」
人影がむくっと起き上がって、こっちを見た。
歳はアネーシャより少し下くらいか。
艶かしい褐色の肌に、鮮やかな緑色の瞳、愛らしい顔立ちをしているものの、眼光は鋭い。
「それ、僕のこと言ってる?」
「あなた以外、誰がいるのよ」
呆れたように言い返しながら、アネーシャは警戒を解いた。
自分たちが宝探しに夢中になっているあいだに、ここへ迷い込んだのか。
それにしてもと、アネーシャは彼女の姿を見、胸を痛めた。
目の前の少女はひどく痩せていて、頬もこけていた。それなのに着ている服は貴族が着るような上等なもので、ひどくアンバランスに思える。
その理由を彼女が教えてくれた。
「僕は奴隷だったけど、神に捧げられる生贄に選ばれた。だからお粧ししてる」
「……もしかして逃げてきたの?」
神に生贄を捧げる儀式はどこの国にも存在する。
しかし人間の命を供物として捧げる国は、一つしかない。
「あなたはラビアの国の人?」
隣国ラビアは太陽の女神ソル・サウラを唯一神とする、戦士の国だ。
進歩的な時代になった今でも、奴隷制度が残っていると聞く。
「わざわざそんなこと訊くっていうことは……ここラビアじゃないの?」
「そう。ここはゲ・ヴェルよ」
訳がわからないと彼女は頭を抱えていた。
「確かに僕はラビア人だけど、逃げてきたわけじゃない。少し前まで山奥の神殿にいたんだ。痛みを感じないようにって、薬で眠らされて……目覚めたらここにいた。信じて、もらえないかもしれないけど」
信じるとアネーシャは言った。
隣国といっても、ここからラビアまで、一日で行き来できる距離ではないからだ。
「神があなたをお救いになったのかもしれないわ」
だから彼女がここにいるのだと思いたかったが、「まさか」と少女は笑う。
「ソル・サウラは血と争いを好む女神だ。だからたくさんの罪人や奴隷たちが生贄として彼女に捧げられた。僕だけ、お救いになるはずがない」
「でもあなたは現に生きている」
アネーシャは熱っぽく言い返す。
コヤは優しい、慈悲深い女神だ。
だから双子の姉であるソルもそうだと信じたかった。
「そうだね、神様は気まぐれだから……そういえば君、名前は?」
「アネーシャ。アネーシャ・サノス」
「いい名前だね。僕はジェミナ・トナ。これでも、奴隷堕ちする前は戦士見習いだったんだよ」
「ラビアって、女でも戦士になれるの?」
「もちろん、たくさんいるよ。ラビアじゃ、強くて逞しくい女ほどモテるんだ」
内心、ラビアで生まれなくて良かったとほっとしつつ、
「奴隷堕ちって……どうして?」
「窃盗罪で捕まった。恋人だと思ってた奴に罪を擦り付けられて」
ひどいっとアネーシャは顔をしかめる。
「でも安心して、神様は全てお見通しだから」
「だといいね。さっきから気になってたけど、その口ぶりからして、アネーシャって聖職者?」
指摘されてぎくりとする。
正直に聖女であることを打ち明けるべきか、しかしコヤがそばにいないので、
「今は違う。ただのアネーシャ。旅をしているの」
「旅か……いいなぁ」
そろそろ日が暮れて暗くなってきたので、ひとまず野営の準備をする。
ジェミナも慣れた手つきで、火を起こすのを手伝ってくれた。
「これ、良かったら食べて。携帯食ならたくさん持ってるから」
「ありがたくいただくよ。実はお腹ぺこぺこだったんだ」
それから夜通しかけて、ジェミナと話をした。
同じ年くらいの女の子とお喋りをするのは初めての経験で、アネーシャは緊張し、それでいてかなり浮かれていた。ボーイッシュなジェミナは聞き上手な上に親しみやすく、孤児院育ちという共通点もあったせいか、二人はすぐに打ち解けた。
「仲間たちのいるところへ戻りなよ、アネーシャ。今ごろ心配してるよ」
「……わかってる。けど、ジェミナはどうするの?」
「どうしようかな。国に帰っても殺されるだけだし」
「だったら私たちと一緒に来ない?」
さりげなく誘いをかけると、ジェミナの顔がぱっと輝いた。
「いいの?」
「危険な旅になるかもだけど……ジェミナは私が守るから」
「それは逆でしょ? 僕がアネーシャを守ってあげる」
こう見えて強いんだから、と力こぶを作ってみせるジェミナに、とある決意をするアネーシャだった。




