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子どもの頃、喉から手が出るほど欲しかったものがある。
笑いが絶えない温かな家、優しい両親、出来立てホカホカの手料理、遊び相手になってくれる姉妹、自分だけの静かな部屋、可愛いペットの栗鼠、そして大きな大きなクマのぬいぐるみ。
「そんなにじろじろわたしを見ないで」
6歳になったばかりのアネーシャはもじもじしながら訴えた。
なぜなら突然目の前に現れた女性が、夢みたいに綺麗な人だったから。
醜い自分がより際立って、泣きたくなる。
「わたしを見ちゃダメなの」
『どうして?』
「わたしの顔を見ると、みんな吐いちゃうから。おえって」
カイロスは別だけど、と小声で付け加える。
『あたしも平気よ』
嘘だと思い、アネーシャはうつむく。
「かあさんは、わたしがあんまりひどい顔してるんで、見るのが辛くて捨てちゃったんだって」
『あなたが悪いんじゃないわ。病気のせいよ。あなたは深刻な皮膚病を患っているの』
「……病気のせい? でもマザーは、わたしに悪魔が取り付いてるせいだって」
『珍しい病気だから、病気だってわからないのよ』
「ならどうしてあなたにはわかるの?」
『神様だもん』
そうか、神様だったのか。
それなら大丈夫そうだと、おずおずと目線を合わせる。
『何ならあたしが、あなたのかあさんになってあげましょうか?』
「……かあさんはいらない」
『どうしてよ』
「いらないったらいらないのっ」
『ああそう。捨てられる前に捨ててやろうってわけ』
「そう」
『なら、これならどう?』
目の前が光で包まれたかと思うと、女性の姿は消えていた。
代わりにそこにいたのは、
「くまさんっ」
『そうよ、可愛い可愛いくまさんよ』
「くまさんくまさんっ」
『ただのくまさんじゃないわっ。ビッグなくまさんよっ』
「アネーシャのくまさんっアネーシャのくまさんっ」
目の前のクマに抱きついて、ふわふわの毛並みを堪能する。
とても幸せで、心地よい。
『聖女になれば、欲しいものが何でも手に入るわよ。お金で買えないものも全部』
「ほんとう? だったらわたし、聖女になるっ」
『いい子にして、あたしの言うことをちゃんと聞くのよ』
こくこくとうなずきながら、アネーシャは訴えた。
「いい子にするよ。だから早く、ここから連れ出して」
…………
…………
ぱっと目を覚ますと、宿屋の天井が視界に飛び込んできた。
アネーシャはむくりと起き上がると、隣ですやすやと眠っているコヤの頭をパシッと叩く。
『あいたっ、何すんのよっ』
「いたいけな子どもをモノで釣ろうとするなんて」
『一体何の話? 全く記憶にございません』
「嘘ばっか」
***
失われた都市メガイラ。
または神に見放された土地とも呼ばれている。
大昔は王国の主要都市だったが、他国による侵攻の際、若い女性や子どもは奴隷に、他の住人は虐殺され、建物のほとんどが破壊されてしまったという。その後、急激な気温の変化と日照りによって、わずかに生き残っていた住民たちも息絶え、廃墟と化してしまったらしい。
メテオロスを出発し、一度フェザーへ戻って大量の食料を買い込むと、後はひたすら徒歩での移動となった。整備されていない道が続くため、馬車での移動は不可能らしい。魔石の力で何とか持ちこたえているものの、早々に足が疲れてきた。しかしこれも、神が与えし試練だと思い――カイロスなら絶対にそう言うだろう――携帯食片手にアネーシャは歩き続けた。
試練を乗り越えた先に幸福が待っていると信じて。
けれど砂漠地帯に入った途端、一行の歩くペースがどんと落ちた。
主にアネーシャの。
「もっと速く歩けないのか?」
「速く歩いてるでしょ」
もどかしそうに言うシアに、即座に言い返す。
風が吹くたびに砂が目や口に入って地味につらい。
その上歩きにくいし、暑くて肌がひりひりする。
「いや、ぜんぜん遅い。見ろよ、もうすぐウルスさんの背中が見えなくなるぞ」
「そんなにウルスさんの背中を見ていたいのなら、私を置いて行けばいい」
「……やめろよ、そんな言い方」
「シアは私より、ウルスさんのことが大事なんでしょ」
「馬鹿、そんなわけないだろ」
言いつつも、後ろめたそうに顔を背けられて、やっぱりと唇を噛む。
「あなたとはこれきりね、別れましょ」
「……アネーシャ、お前はいつも変だけど、今日は特におかしいぞ」
『そっとしておいてあげて。この子今、大人の階段を登ってるとこだから』
そんなこんなでようやく目的地に辿り着いたのだが、
「コヤ様、何にもないよ」
「……だな、一面砂地になってる」
「おそらく都市ごと、砂の下に埋まってるんだろう」
『砂なんて、風で一気に吹き飛ばしちゃえばいいのよ』
そのことを二人に伝えつつ、アネーシャは腕組する。コヤは簡単に言うが、何やらおおごとになりそうなので、じっくり話し合ったほうがよさそうだ。でないと命にかかわる。
「私たちも一緒に吹き飛ばされる可能性は?」
「大いにありうる」
「俺が二人を押さえていれば済む話だろう」
結局、女神とドラゴンスレイヤーのゴリ押しで話はまとまり、まもなく嵐のような強風が吹き荒れた。風は大量の砂を巻き上げて、どこかへ飛ばしていく。やがて風がおさまると、砂で覆われていた都市が姿を現した。
建物はほとんど破壊されていたり、風化してもろく崩れ落ちていたりと、見る影もなかったが、それでも都市として機能していた痕跡はあった。石畳の整備された道路、煉瓦で出来た建物の残骸、円形広場などなど。
嵐の中、まるで微動だにしないウルスのおかげで、吹き飛ばされずに済んだ二人だったが、「全身砂まみれ」と今にも泣きそうなアネーシャ。一方のシアは、「息ができなくて死ぬかと思った」と顔を真っ赤にしている。
『たくっ二人とも。だらしないんだからっ』
「もっと身体を鍛えるべきだ」
お小言を食らってげんなりしつつ、とぼとぼと歩き出す二人だった。




