30
翌朝、空っぽになった保存食の袋を恨めしげに眺めつつ、アネーシャは訊いた。
「コヤ様、次の目的地は?」
コヤの返答はそっけないものだった。
『まだここでの用事が済んでません』
「どうせ邪神ドルクを目覚めさせるつもりなんでしょ? ならさっさとやれば?」
『誰がそんなこと言った?』
ため息をついて、アネーシャは窓を開ける。
朝の冷たい空気が肌に突き刺さり、ぶるっと震えた。
「そういえば、この村って何人くらいの人が住んでるの?」
『全体で五十人ってところね』
それを早く言ってよと頬を膨らませる。
「全員と会うだけでも時間がかかりそう」
『そこは誰かに協力してもらいなさいな。あの言いだしっぺの色男とか』
それもそうだ。
善は急げとばかり、朝食だけ食べて早速ウルスに会いに行った。
朝食はジャガイモをすり潰したサラダとパンと水だけだったが――薄味だが塩気が効いてとてもおいしい。パンの間にサラダを挟んで食べるのがアネーシャの好み――空腹のあまりふらふらすると訴えたら、量を山盛りにしてもらえたので、ぎりぎり夕食まではもつだろう
瞑想室にいたウルスに声をかけ、相談したいことがあると言って中庭へ誘う。さっさと保守派の信者たちに祝福を与えてこの苦行から逃れたい、などとは口が裂けても言えず、「聖女としての勤めを果たすために、協力していただきたいことがある」と真面目な顔で切り出した。
内容を聞いて、ウルスは快く承諾してくれた。
「近々この修道院で会合がある。俺が皆に君を会わせよう」
「正体を隠したままでも大丈夫ですか?」
「わざわざ女神の言葉だと教える必要はない。大事なのは、受け側が君の言葉をどう捉えるかだ」
よく意味は分からなかったが、何とかなりそうだとほっとした。
「だったら先にこの修道院にいる方々を祝福したいのですが」
「その件なら既にウルスラに話を通している。好きな時に始めてくれ」
用意周到なウルスの手腕に、アネーシャは再び「はあ」と感心した声を漏らしてしまう。それにしても、彼がウルスラに一体どんな説明をしたのか、気になるところだ。
『知らないほうが身のためよ』
笑いを含んだコヤの言葉に「ん?」と引っかかるものを感じたが、深くは考えなかった。
今はともかく、一刻も早くここを出て、一日三食の生活に戻りたかった。
…………
……
一方その頃、院内のあちこちでひそひそと言葉が交わされていた。
――おい、聞いたか?
――ああ、聞いた。
――もちろん、聞いたわ。
――聖女様がこのメテオロスに来てるらしいぞ。
――しかもこの修道院に滞在されてるって。
――これから私たちに、女神様の御言葉を授けてくださるそうよ。
――なんと光栄な……。
――ああ、一生に一度、あるかないかの幸運だ。
――苦労してこの村に来た甲斐があったわね。
――壁登るの大変だったもんな。
――何度も死にかけたしな。
――けど注意しないと。
――そうだな、院長も厳しい口調でおっしゃっていたし。
――聖女様は正体を隠しておられるから、突っ込んじゃダメなのよね?
――間違ってもご本人に「あなた、聖女様ですよね?」と言うのは禁句だ。
――お忍びでいらしているからな。
――少しでも長く留まって欲しいなら知らぬ存ぜぬを貫け。
――ええ、わかってるわ。
――……気づかないふり。
――そう、気づかないふり。
…………
……
ウルスと別れ、早速聖女としての勤めを果たそうと張り切っていたアネーシャだったが、
「いきなり話しかけてコヤ様の言葉を伝えたら、絶対にやばい奴だと思われるよね?」
『試しにやってみれば?』
それもそうだと思い、手頃な獲物を探す。
中庭にある鶏小屋の前で力なく座り込む修道女の姿を見つけた。
何やら物思いにふけっている様子で、鶏たちを凝視している。
「あのー」
試しに声をかけると、怯えたようにビクッとされた。
けれど彼女はアネーシャの顔を見、はっと息を呑む。
「ちょっと一言よろしいでしょうか」
『ぶっ、アネーシャのその言い方……』
けらけら笑うコヤを睨みつけて、「彼女に何て言えばいい?」と訊ねる。
途端、コヤはぴたりと笑うのをやめると、
『あなたはご主人を殺していない』
思わず吹き出しかけたアネーシャを、『ほら、あたしの真似して言って』と叱咤する。
『あなたはご主人を殺していない』
「……あなたはご主人を殺していません」
『真犯人は愛人。証拠は上着のポケットの中』
「真犯人は愛人で、証拠は上着のポケットの中にあります」
恐怖におののいた顔でアネーシャを見上げていた修道女はすくっと立ち上がると、
「ありがとう。これでもう、逃げずに済むわ」
そう言ってどこかへ駆け出してしまった。
『こんな感じでさくさく行くわよっ』
女神の祝福って一体――と考え込んでしまうアネーシャだった。




