27
翌日、朝早くにシアに叩き起されたアネーシャは、まだうつらうつらしながらも、宿屋を出て、メテオロスへ向かった。コヤに案内されるがまま歩いていると、途中であることに気づいてはっとする。
「朝ごはん食べ損ねた」
すぐ後ろを歩いていたシアが呆れたような声を出す。
「食べただろ。覚えていないだけで」
『ええ、坊やの言う通り』
「ちなみに内容は?」
「卵のサンドイッチに豆サラダと薬草ジュース」
言われてみれば確かに、薬草ジュースの苦味が口内にまだ残っている気がする。
「あんなんじゃ足りない」
『食い意地が張ってるんだから』
「燃費が悪いんだよ、お前の身体」
ひどい言われようである。明らかに刺のある言い方をされて、むっとしたものの――もしかして二人とも機嫌が悪いのかな? と思い直し――ここは下手に言い返さないほうが賢明だと、黙々と歩き続ける。
一時間ほど歩いて緩やかな坂を登り、突然現れた急な崖の階段を登ってさらに一時間が経過。歩けども歩けども、民家らしき建物は一向に見えてこない。それどころか人一人会わないので、
「この道で合ってるの?」
『着いたわ、ここよ』
えっ、と素っ頓狂な声を上げたアネーシャは、立ち止まって周辺を見回す。
「村なんてどこにもないけど」
あるのは、天にも届こうかというほど高くそびえ立つ巨大な岩だけ。
しかもそれは一つだけでなく、少し歩いた先にも同じくらいの大きさの、絶壁の岩があった。
見渡す限り岩、岩、岩――岩だらけ。
『大昔に砂岩が隆起して、今みたいな地形になったのよ』
「へぇ……ところで村人は?」
『ちゃんと住んでるわよ、この岩の上に』
まさか、とアネーシャはごくりと唾を飲み込む。
「この岩を登るの?」
もちろんだとコヤはうなずく。
『岩ごとに一軒ずつ建物が建てられているわ。お店や修道院もあるわよ』
信じられない、と目を剥く。
『俗世間から離れて暮らすには、絶好の場所じゃないの』
道理で「幻の地」と呼ばれるわけだ。
あんなところに家が建っているなんて、誰も思わないだろう。
「シアは知ってた? ここの人たちが岩の上で生活してるってこと」
「……話には聞いてた」
シアも驚いた様子で、岩に触れて、感触を確かめている。
「階段……はなさそうだな。たぶん、この鎖を使って上へ登るんだろう」
ヴァレ山での苦労を思い出して気が遠くなった。
ここでもまた、恐怖の壁登りをしなければならないのか。
『村の住人、全員のお宅を訪問するとなると、上り下りが大変ね』
大変どころのレベルではない。
登っている途中で足を滑らせ、落ちて死ぬかもしれない。
『でもまあ、足腰が鍛えられていいんじゃない? ダイエットにもなるし』
「コヤ様、階段を上り下りするのとわけが違うんだよ?」
『やだ、アネーシャ。ビビってるの?』
「……ビビってない。ただ膝がガクガクしてるだけ」
『死にたくなければ、極力荷物を減らすことね』
「それが可愛い娘に言う言葉?」
コヤの忠告に従い、泣く泣く荷物の大半を手放すことになった。とりあえず盗難防止用に、岩場の裂け目に押し込んで、目印をつける。用事が済んだら取りに戻ればいいとシアには言われたものの、気は晴れなかった。
***
「うわー、見てコヤ様。ここ、すごく見晴らしがいいよ」
『ホント。苦労して登った甲斐があったわね』
「コヤ様は私の肩の上で休んでただけでしょ」
『そうよ。誰かさんが途中で力尽きないよう、神力を注ぐためにね』
「いつもありがとう、コヤ様」
『こういう時は素直なんだから』
小鳥の姿から猫の姿に戻ったコヤは、『やれやれ』というように伸びをしている。
それにしても、先に到着しているはずのシアの姿がどこにもないのだが、
「あいつ、置いていきやがった」
『誰かさんが遅すぎるせいで、待ちくたびれたのよ、きっと』
岩の天辺は思っていた以上に広く、敷地内ギリギリに収まるよう作られた建物も迫力があった。素材は重厚感ある石造りで、見事に自然の岩と調和している。
「家というよりはお屋敷みたい」
『修道院だから静かにね』
「まずここで何をすればいいの?」
『ウルスラに会って、挨拶しなさい』
「ウルスラさん?」
『敬虔な修道女であり、この修道院の院長よ』
こわごわ呼び鈴を鳴らすと、すぐさま扉は開かれた。
しかし現れたのは修道女ではなく、
「……ウルスさん?」
「遅かったな。シアは中だ。案内しよう」
まさか、とアネーシャは口元に手を当て、はっと息を飲む。
「ウルスラさんってウルスさんのこと? ドラゴンスレイヤーは仮の姿で実は……」
『何バカなこと言ってるのよ、アネーシャ』
「でも名前も……ラがあるかないかの違いだし」
「ウルスラは孤児だった俺を引き取り、育ててくれた。養い親だ」
『と彼は思い込んでいるようだけど実子よ』
当の本人も知らない衝撃的な事実をさらりと知らされて、どきっとした。
気まずい思いをしつつも疑問が頭を過る。
『ウルスラの人生は壮絶でね、事実を彼に打ち明けられなかったの』
修道女になるくらいだ、そりゃ過酷な人生を送ってきたに違いない。
アネーシャはしたり顔でうなずく。
『誰にも言っちゃダメだからねっ』
「なら話さないでよ」
うっかり秘密をばらさないよう、ここにいる間はコヤとの会話を控えようと決意する。
『いいわよ。だったら一方的に話しかけるから。気にしないで』
それはそれで気になるのだけど。
「さあ、中に入ってくれ」
促されて、ウルスの後に続く。
長い廊下をゆっくり歩きながら、コヤが話してくれた。
『ウルスラの本名はアウレリア・サーシャ、三十年以上前に処刑された王の妹よ』
嘘っ、と声に出しかけて、思わずむせてしまう。
振り向いたウルスに「大丈夫か」と心配されて、さらに焦った。
「ごめんなさい、平気です。ちょっと口の中が乾燥してて」
そんなアネーシャに構わず、コヤは話を続ける。
『実際に処刑されたのは身代わりの侍女で、アウレリアは生きていたの。ウルスラはその侍女の名前……彼女のことを忘れないよう、あえてその名前を名乗ってるのね』
王の妹とはいえ、アウレリアは後妻の連れ子で、血の繋がりはなかったそうだ。
それでもアウレリアは兄を慕い、王もまたアウレリアのことを特に目にかけていたという。それほどアウレリアは家族に愛され、彼女もまた家族のことを愛していた。姉が隣国へ嫁ぐ際には、悲しみのあまり涙を流し過ぎて病気になってしまったほど。
また、信心深いアウレリアは毎日祈りを欠かさず、王族でありながら領地でとれる食べ物などを領民に分け与えていたという。月に一度は孤児院を訪問し、自ら文字の読み書きを子どもたちに教えていたそうだ。
年頃になると、美しく成長したアウレリアのもとに数多くの縁談が舞い込んだが、彼女は全て断ってしまう。なぜなら彼女には既に愛する人がいて、その男性の子どもを妊娠していたからだ。
『でも結婚はできなかった。彼には既に妻子がいたから』
誰なの? と心の中で問いかける。
『王よ』
ぎょっとして、思わずウルスの背中をまじまじと眺めてしまう。
言われてみれば、彼の立派な体格は王譲りかもしれない。
『けれど王妃がその事実に気づいてしまった。元より、彼女はアウレリアの存在が気に食わなかった。王はいつも、妻子よりアウレリアのことを優先していたから』
そしてアウレリアは反逆の濡れ衣を着せられ、処刑されてしまう。
『もっとも侍女が身代わりになったのだけど――アウレリアは無事に逃げおおせたわ。王の手引きでね』
その時、突然ウルスが立ち止まったので、「ぶほっ」と彼の背中に顔をぶつけてしまった。
まるで硬い岩にでも当たったみたいだ。鼻先がひりひりする。
「入ってくれ。この部屋でウルスラが待っている」




