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「アネーシャ・サノス、長きに渡り、よくもわしを騙してくれたな」
荘厳な造りの、神殿内の一室。
何の前触れもなく現れた壮年の神官長を前にし、アネーシャはぽかんとした。
「つい先刻、神託が下ったのだ。真の聖女はお前ではなく、陛下の末の姫君――マイア・クロロス様だと」
月の女神コヤ・トリカを唯一神とし、宗教を重んじるこの国では、神託は絶対だ。
それがいかなる内容であっても、国王ですら、異議を唱えることはできない。
「本物の聖女が判明した今、偽物は必要ない」
ショックが強すぎて、言葉が出てこない。というか、まだ子どもだった自分を孤児院から引き取り、勝手に聖女として祭り上げてきたのは他の誰でもない、神官長のはずだ。
――私が何をしたというの?
あらゆる傷や病を癒し、災いを退け、幸福をもたらす聖女として、アネーシャは国民から崇められている。いや、崇められていた。聖女の足に触れて祈りを捧げれば願いが叶うと、民は信じているのだ。現に、父親の不治の病が治っただの、夫婦の夢が実現しただの、子どもたちが災害を免れただとの、民は絶えず聖女に感謝し、神殿への献金も年々増えているらしい。
――でも所詮はお飾りの聖女にすぎなかった。
神官長の言葉で、思い知らされる。
「まもなくマイア様がご到着される。それまでにこの部屋を開けておくように。これは命令だ」
冷ややかな言葉に、アネーシャは打ちのめされ、項垂れた。神官長が出て行くと、室内はしんと静まり返る。育ての親である彼の、冷たい眼差しを思い出して、アネーシャは泣いた。
――ここを出て、どこへ行けばいい?
アネーシャは今年で19歳になる。
成人として認められる年齢ではあるものの、孤児院育ちの自分に、頼る当てなどない。
都へ来たばかりの頃、外出どころか、部屋から出ることさえままならなかったのだ。聖女は国の宝であり、守り神でもあるため、世間とは隔離された環境に置かれる。外を出歩くことも一切許されない。だからこそ、聖女のいる神殿に人々が押し寄せ、祈りを捧げるのである。
『泣いてすっきりしたら、ここを出ましょう』
誰もいないはずの室内で、優しい声で話しかけられて、アネーシャは顔を上げた。
そうだ、自分は独りではない。
育ての親は、もう一人いた。
黒目黒髪の地味な顔立ちをしたアネーシャとは対照的な、絶世の美女がそこにいた。
白っぽい銀髪に夜空のような藍色の瞳、抜けるような白い肌、花のような赤い唇。
全体的に半透明に見えるのは、彼女が人ではない証拠。
神力を纏っているせいか、彼女の身体はいつも淡い光を放っている。
『大丈夫大丈夫、アネーシャにはあたしがついてるから。何とかなるって』
内心で「……軽っ」と思いながらも、アネーシャは笑う。
「ありがとう、コヤ様」
…………
……
神官長は知らない。
アネーシャ・サノスが月の女神の姿を見、声を聞くことができることを。
その身を介して、女神の力を民に注いでいたことも。
なぜなら彼は、聖職者でありながらこの世に神は存在しないと考えているからだ。神託はあくまで人心を操るための道具であり、聖女事業は大金を稼ぐための手段――だからこそ神託を利用して、次の聖女に王の娘を選んだ。
更なる地位と権力、大金を求めて。
神官長の心の内を知り尽くしている女神はやれやれと肩をすくめた。
そもそも神の存在を信じていない相手に、自分の意思を伝えることは難しい。それでも女神の存在を信じる聖職者たちを通じて、アネーシャを保護し、聖女として慈しむよう、神官長に働きかけてきた。けれどそれも、ここまでのようだ。
『残念だけど、これでお別れね』
女神はこの地を去るつもりだった。
我が子同然に育ててきた娘を、今さら手放すつもりはない。
アネーシャこそ、神と人とを繋ぐ――自分にとっては唯一無二の存在なのだから。