中編
短めの繋ぎ回。
――何も考えていない、勢いだけの断罪劇。その後の顛末は、特に語るほどのことでもない。
「この、馬鹿、者が!」
鉄拳一発。怒りの余り言語能力を消失したディアーチ侯爵――ハッシュの父親が、息子の頬に全力の拳を叩きつけた。
今まで散々甘やかしてきた末っ子を、その拳で殴り飛ばしたのだ。
「な、何をするのですか!?」
「何を、だと! どの口が!」
口から泡を飛ばして怒り狂う父に、殴り飛ばされ地に這いつくばる姿のままハッシュは混乱していた。
家の都合だけで決められた不気味な人形令嬢との縁を切り、真実の愛を見つけた美しき物語。最近趣味になったお忍びで行っている平民向けの歌劇にも負けない愛の物語を魅せて見せたというのに、一体何をそんなに怒っているのかと。
悪いのはリーゼリアの方であり、政略結婚の目的であった金も慰謝料という形で好きなだけ取れるようにしたのだ。
父にも家にも迷惑などかけてはいない。それがハッシュの認識であった。
「慰謝料だと! それを請求されるのはこちらだ!」
「な、何故ですか? リーゼリアはマリーに嫌がらせをしたのですよ?」
ハッシュの主張を聞いた侯爵は、怒りを収めるどころか更に爆発させた。
そりゃそうだろうと第三者が聞けば誰もが思うだろうハッシュの理論なのだが、理解できないのは当人だけだ。
「一切証拠がない! それ以前に、婚約者がありながら堂々と浮気する馬鹿者の方が遙かに罪が重いわ!」
侯爵は怒りのまま、現在自分達が置かれている状況を説明していった。
ハッシュの婚約破棄宣言と、それ以前から繰り返されていた公然の浮気に関しては余りにも情報が広まりすぎていて隠蔽は不可能。証人を用意しようと思えばダース単位でいくらでも出てくるというのだから、侯爵家が無実を訴えるのは無謀を通り越して無理である。
対して、ハッシュが言うリーゼリアの罪というのは、簡単に言えば『マリエッタの手荷物が紛失した。もしかしたらリーゼリアが盗んだのでは?』という推理とも呼べないただの決めつけでしかない。
三流の喜劇ならばそれでいいかもしれないが、現実に裁判を勝ち抜くためには話にならない武器だ。
当然、リーゼリアを犯人であると訴えれる証拠は全くない。そもそも、その紛失した手荷物というのがペンやノートと言った学業用の道具であり、盗まれたのではなくどこかに置き忘れてきたのではと言われれば反論できない小物ばかりなのである。
また、仮に奇跡が起きてリーゼリアにも責任があると公的に認めさせることができたとしても、極小規模な軽犯罪。些細な弁償と謝罪が引き出せれば御の字という程度であり、その支払先はもちろん自称被害者のマリエッタのみ。侯爵家には一銭も入っては来ない。
逆に、婚約関係にありながら明確に悪意を持って浮気をしていたということが咎められての『婚約破棄による慰謝料』は莫大なものとなるだろう。同時に、婚約関係であったからこそ相場よりもかなり低い金利で伯爵家から借りていた借金は即時返済を求められており、慰謝料と合わせれば本当に侯爵家が潰れてしまう状況に追い込まれているのだ――と、侯爵はハッシュにもわかるように説明したのであった。
「そ、そんな……何でリーゼは金を出さないんだ!」
全てを理解したハッシュは蒼白な顔になりながら……自分の要求に従って金を出さない元婚約者に怒りを向けた。
そんな何も理解していない三男坊の姿を見て、等々怒る気力も無くしてしまった侯爵は、自分の選択を後悔する。甘やかすべきではなかった、ケチって教育を怠るべきではなかったと、今更すぎる後悔と共に一気に老け込んだように肩を落とすのであった。
「……こうなれば、手段は一つしか無い」
「な、なんでしょう?」
「もう、侯爵家に残された財産は何一つ無い。だが……貴族であることが金になる」
「まさか、それは……」
「爵位を売る。正真正銘最後の手段であるが、もうそれしか手が無いのだ……」
爵位の売却。それはこの国の貴族にとって最後の手段である。
それを失えばもう貴族ではない。特権階級としてのあらゆる権利と引き換えに金銭を得るとなれば、かなりの値がつく。そこまでしなければ、この突然の事態に誠意ある対応はできないのだ。
「そんな馬鹿な! 何故爵位を――貴族を捨てるなどと言うのですか!」
「言いたくて言っているのではない……それしかないのだ」
実年齢よりも一気に30は老けてしまったのではないかと思えるほどに気力を無くした侯爵は、それだけ言ってハッシュを下がらせた。
正確には、これからクラックス伯爵と交渉を行い、支払いを分割にしてくれ、遅らせてくれなど頼み込んで最後の足掻きをするつもりではあるのだが、今回の一件で大きくその名に傷をつけたディアーチ侯爵家の看板には伯爵家からすればもはや用はない。
親戚になる予定の身内関係から敵対関係に様変わりしてしまった以上、徹底的に潰すつもりであろうことは想像に難くない。
何せ、向こうは降ってわいた不祥事を盾に迫るだけで、娘を差し出してまで欲した『侯爵』が手に入るのだから……。
◆
――侯爵とハッシュの話し合いから数時間後。問題の当事者として侯爵家に連行されてきていたマリエッタとハッシュは、同じ部屋に軟禁されていた。
これ以上余計なことをされ、クラックス伯爵家の怒りを買わないようにするため、二人纏めて監視するつもりなのだ。
若い男女が二人きりだからこそよからぬことをする恐れもあるが、それはもうここに至ってはどうでもいい話である。
「どうして、どうしてなんですか?」
軟禁部屋に二人きりのハッシュは、しかし苦々しい顔で愛する女の顔を見る。
侯爵家の令息として、高貴な身分の者として余裕を持っていた時には愛らしく思えたその顔も、明日にも全てを失うかもしれないと思えば、途端に憎らしく思えてくるから不思議なものだ。
「僕が浮気をしたからいけない……いや違う、僕は悪くない……」
「ねぇ、ハッシュ様! どうして侯爵家の地位を失うなんて事に――」
「うるさい! お前のせいだ!」
マリエッタは、ハッシュが――そしてディアーチ侯爵家が没落するかもしれないと聞いて取り乱していた。
彼女からすれば、ハッシュは侯爵家の三男坊であるというのが最大の価値だったのだ。貴族の中では最下級の男爵家でしかない彼女にはディアーチ侯爵家の台所が火の車であることなど知るよしもなく、ハッシュを落とせば贅沢三昧の暮らしができる上に、三男坊ならば夫人となってもさほど仕事も責任もないという程度の考えしかなかった。
だというのに、侯爵家にも――ついでに男爵家にも、莫大な慰謝料請求がやって来たのだ。
元々土台が傾いていたとはいえ、侯爵家が耐えられない請求を男爵家が耐えられる訳もない。マリエッタの父である男爵からすれば、突然自身よりも格上の家々からこぞって非難されているという四面楚歌状態にあることもあり、抵抗する術はないだろう。なお、その家々とはリーゼの友人達――伯爵家令嬢が友人関係を結んでよしと認められるほどの家格の持ち主達であり、中には侯爵クラスまで紛れこんでいる詰みっぷりである。
結果として、ハッシュとマリエッタは、揃って平民以下の貧民落ちが確定している有様なのであった。
「そうだ、お前のせいだ……」
ぶつぶつと、どこか異様を感じさせる眼でハッシュはマリエッタを見つめた――否、睨んだ。
そこにはつい先日まであった狂おしいような愛情はない。どこまでも自分のことにしか興味が無く、自分をチヤホヤしてくれる女が好きなだけの男にとって、今のマリエッタは愛を囁く相手にはなりえない。自分を責めるような女になど、ハッシュの愛は向かないのだ。
もっとも、金を持たない男にマリエッタの愛は向かないため、そこはお互い様であるが。
「お前が私を誑かしたからこんなことになったのだ!」
結果、ハッシュは全ての責任をマリエッタに押しつけた。
自らの行動の責任を自分で取ることができず、他人に押しつける……所詮はその程度の男である。
「な、何がよ! 元はと言えば、アンタが――」
「うるさい! 黙れ!」
愛くるしい女の仮面を脱ぎ捨てて叫くマリエッタに、ハッシュは怒りのままに手を伸ばした。
その両手はマリエッタの首にかかり、そして――
「ヤ、メ――」
渾身の力を持って、マリエッタの首を締め上げる。
怒りのままに、冷静さを欠いたその行いは更に数十秒続き、やがてマリエッタの身体は抵抗虚しく力を失い、ついには崩れ落ちたのだった。
「……マリー?」
崩れ落ちた元恋人の姿を見て、今更冷静さを取り戻していくハッシュ。
自分が殺した。人を殺した。罪を犯した。
その事実が頭の中に染みこんでくると同時に、自らの未来もまた最悪の想像図が浮かび上がってくる。
如何に相手が男爵家程度の家格であると言っても、貴族であることには変わりない。貴族階級には数々の特権があると言っても、流石に貴族を殺しても問題なしと放免されるほどのものはない。
つまり、ハッシュは、このままでは殺人者として裁かれることになる。貧民どころか犯罪者。それも、風前の灯火であったとは言え貴族殺しの罪となれば、生半可なものでは済まないだろう。
(だ、誰か――誰か助けてくれる奴は――)
ハッシュの思考は、迷うことなく自分が犯した罪から逃れる方法へと移っていく。償おうとか、そんな発想はない。
(父上は――ダメだ。もう何の力も無い。ほかの友人は? 皆俺を見捨てやがった――)
そもそも、婚約破棄騒動によって、既にハッシュは見捨てられている。
力を貸してくれる相手なんて居るはずもないのだから、その考えは無意味だ。
「何で俺がこんな目に……そうだ、そうだよ。俺は悪くない。元はと言えばマリーが俺を誑かしたからリーゼの怒りを買ったんじゃないか。そのマリーを裁いて一体何が悪いんだ?」
助けが期待できないのならば責任転嫁。
ハッシュにとっての平常運転で心の平静を取り戻した後、ハッシュはその中に希望を見いだすのであった。
「そうだ……! マリーが消えた今、もうリーゼとの間に確執はない。リーゼは間違いを正した俺に感謝し、俺を救うはずだ……!」
自分に都合の良い妄想としか言いようがない明るい未来を見いだしたハッシュは、意気揚々と……ではなく、忍び足でその場から立ち去った。
今のハッシュは『これ以上余計なことはするな』というディアーチ侯爵の命令により、軟禁されている状態だ。
しかしそこまで厳しい監視というわけでもないので、扉の前で張っている見張りを出し抜くべく、窓から脱出を図るのであった。
「……う、ぐ」
数分後、気絶していただけのマリエッタが意識を取り戻したことなど知るはずもなく。
そして――
「大丈夫ですか?」
――その彼女を、部屋の外で張っていた伯爵家の手の者に発見されていることにも気がつかずに……。
普通の婚約破棄ざまぁをお求めの方は、ここまでで引き返した方がいいかも……。