前編
別に連載している長編のため、人の心を捨てていたらふっと降りてきた話です。
テンプレ婚約破棄ものをベースにしているつもりではある。
「ねえマリー。キミにはこの宝石の方が似合うと思うんだ」
「まぁ……なんて素敵な指輪……ありがとうございます。ハッシュ様……」
さる国に存在する、高貴な身分の子息令嬢達が集まる学園の中庭にて仲睦まじい男女のカップルがいた。
見るからに身分がありますと主張するような豪華な衣装を纏った男と、そんな男より数段ランクが落ちる衣服を身に纏いながらも愛くるしい顔立ちで周囲を魅了するだろう女。
男の名は、侯爵家の三男坊ハッシュ・ディアーチ。女の名は、男爵家の令嬢マリエット・ポティット。
身分に大きな違いがあれど、その壁を越えた愛情という架け橋を持っていると、その手のラブロマンスが好きな者ならば温かい眼で見守りたくなる二人だろう――
「……リーゼ様。よろしいのですか?」
「何がでしょう?」
「いえ、その……婚約者の方が堂々と浮気しているようなのですが……」
「私は別に気にしていませんわ」
――仲睦まじい二人が、婚約者がありながら他の女に浮気をしている男と、婚約者持ちの男を誘惑した尻軽女、という称号を持っていなければの話であるが。
「私が何を申し上げても、愛の障害とやらになるだけ。火に油というものです」
ハッシュとマリー。二人のカップルからは見えない、あるいは見る気が無い位置でお茶を飲んでいる一団がいた。
その中心人物こそが、ハッシュの正式な婚約者であるリーゼリア・クラックス伯爵令嬢――通称、人形令嬢である。
リーゼはその異名の通り、人形のように表情一つ動かさずに感情を表に出さないまま友人達に接しているが、通常ならば淑女の仮面が砕けるような侮辱と言えるだろう。
浮気の是非はこの際横に置いておくにしても、それを隠しもせずに人目のある場所で堂々と余所の女に愛を囁くなど、もはや宣戦布告に等しい行いだ。
家格的には確かにハッシュの方が上だが、それでもここまで蔑ろにされねばならないほど致命的な差ではないにも関わらず。
では何故そんなことになっているのかと言えば……単に、この婚姻関係が本人同士の意向によるものではなく、家同士の都合によって頭越しに決められたものだからだろう。
貴族は家を最も重要視し、それと比べれば個人の幸せなど考慮する必要もない。
ディアーチ侯爵家は格こそ高いが最近事業に失敗し、財政に不安を抱えていた。
クラックス伯爵家は順調に事業の拡大に成功しており、その富を持って更なる格を求めていた。
両家の当主が欲するものをお互いに出し合える関係だったからこそ、二人は婚約者という関係になったのだ。
しかし、自分の伴侶を自分で選べないというのは、やはり若者には辛い話だ。
ハッシュは絶世の美男子と称しても過言では無い美貌を有しており、若くして浮名を流していたということも大きいだろう。
より大きな富を得ることを至上命題とするクラックス伯爵家の教育を受け、刹那の喜びよりも長期的な利益を重視する傾向があるリーゼリアとは相性が悪かったとも言える。
結果、ハッシュは自分と同じように刹那的な喜びを是とする美少女、遙か格下の男爵令嬢マリーと堂々と恋人ごっこという有様になったのだった。
「文句を言う権利くらい、アナタにはありますわ」
「そうですよ。それに、あの指輪だって……」
リーゼの友人達は、婚約者の顔に真正面から泥を塗るようなハッシュの振る舞いに腹を立てている。
なんと言っても、侯爵家は財政難なのだ。それなのに、今マリーが嬉しそうに指に嵌めた大きな宝石がついた指輪をどこで入手してきたのか?
その回答は……リーゼの財布である。あろうことかこのハッシュという男、婚約者であるリーゼの財産を勝手に私的利用し、浮気相手へのプレゼントにしてしまっているのだ。
『お前は我が家に資金を提供することを条件に僕の側にいることを許されているのだ。ならば文句などあるはずがないだろう?』
あらゆる意味で馬鹿にしているとしか思えないその言葉と共に、当然という顔をしてリーゼから金を奪っては浮気相手に貢いでいる。
お前など俺にとっては財布でしかないのだと言外に叩きつけるような行いを見れば、無関係の第三者であるリーゼの友人達が怒り狂うのも無理は無い。
「いいのですよ。元々政略結婚……内面からの愛など契約外なのですから」
だが、本人は終始この調子だ。
余裕……というのとも違う。友人達からは、リーゼの無表情で無反応はもはや諦めの境地というべきものかとも思っている。
愛に満ちた素敵な家庭などとうの昔に諦めた。親の命令に従い、堂々と愛人を侍らせた夫と愛人に虐げられ搾取される人生を受け入れてしまっている……そのようにも思え、無表情でありながらも美しくも優秀な友人の人生が台無しにされようとしていると、ますます怒りを燃やすのであった……。
「それに、今はそれどころではないですし」
「……? ああ、侍女が行方不明なんですって?」
「ええ。書き置きもなしに持ち場を離れる子では無いはずなのですが、ここ数日連絡が取れなくて……」
「あの男が粉をかけていたのでしたわね」
「まさか……」
「憶測でものを言うものではありませんわ」
心配しているとは思えない無表情は変わらずに、話題を変えるリーゼ。
そんな彼女の内心を各自は勝手に想像しながらも、素直に周りは話に乗っていった。
きっと、彼女は婚約者の話題に触れられたくないのだろうと察して……。
とはいえ、それでも婚約者として最低限の義務というものはある。
本人にその気はなくとも、見ない振りすらできないような真似をされてしまうと黙っているわけにはいかない。流石に苦言の一つも言わなければ責任の放棄とも見なされ、リーゼの不始末にされかねないのだ。
故に、偶々通りすがった廊下で堂々といちゃついている浮気カップルを見つけたら、リーゼは半ば義務のように、人形令嬢らしく感情のこもらない言葉を淡々と並べるのであった。
「ハッシュ様。その女性とはどういうご関係ですか? そして、アナタはハッシュ様が私の婚約者であることを知ってそのような振る舞いをしているのですか?」
もはや作業感すら感じる定型文であるが、それでもリーゼは婚約者として最低限の義務であるといちゃつくカップルに苦言を呈した。
腐っても貴族。政略結婚がデフォルトである関係上、恋愛を楽しむのは妻ではなく愛人――というのは珍しいものでは無く、浮気などと言っても貴族階級ならばさほど咎められるものではない。
だが、それはあくまでも『正妻が一番』という建前を崩さないことが条件である。政略結婚とは家同士の契約、お互いが身内となり一蓮托生の関係になるというのが目的である以上、肝心の結婚相手を蔑ろにしては本末転倒である。
実際に心の底から愛の言葉を囁き心を砕けとまでは言わないが、正妻の下に妾がいるという権力構造だけは決して崩してはならないのである。
あくまでも今は婚約者でしか無いとは言っても、その婚約者を蔑ろにするなど政略結婚による関係性の強化どころか相手に喧嘩を売っていると取られても仕方が無い愚行だと言えるだろう。
間違っても公共の場で、不特定多数が行き来する廊下でいちゃつくなどしてはならないのだ。
いくらお互いに愛のない政略結婚と言えども、それでは政略の方に悪影響が出てしまうのだから。
「マリーは私の愛しい人だ。キミには関係ないだろう? 仮面でも被っているような不気味な女などにはな」
「まぁ、ハッシュ様ったら……」
という諸々の常識を、このカップルは完全に忘れ去っているらしい。
堂々と浮気宣言をした挙句口出しするな宣言。ここまでくると、わざと喧嘩を売って家同士の戦争を引き起こすのが目的なのではないかと邪推する者も現れるほどの異常事態である。
恋は盲目……などというが、これでは冗談ではなく頭の病気を疑われても仕方が無い。
少なくとも、今もリーゼの後ろで淑女の気合いで無表情を保っている友人達など、内心は地獄の鬼も怯えるような烈火の如き怒りが渦巻いているのだから。
(相変わらずですわね……この人は)
自分の婚約者に守るように抱きしめられている、マリーの指に輝く宝石の関係者です、と言いたくなる心を抑えて内心でため息を吐くリーゼ。
リーゼからすれば、この常識外れのあり得ない反応も想定の範囲内だ。このハッシュという男……外見こそ素晴らしい芸術品のような美貌を持っているのだが、中身は反比例するかのように空っぽなのである。
仮にも高位貴族。高い教養を持っているものなのかと思いきや、嘆かわしいのは財政難。
予備にすらならない三男坊にかける金は無いと、よく言えば自由奔放に、悪く言えばまともな教育もされないまま外見だけ大きくなった子どもなのだ。
更に悪いことに、お金をかけられない分、侯爵家の面々は末っ子を甘やかした。何をしても許し、何を求めても与えた。財政難であり高額の費用を必要とする教育に金銭を回せない分、浮いた金はハッシュ少年の子どもらしい我が儘を叶えるために使われたのだ。それでも金銭的にあまりにも負担の大きい願いには制限もあったが、それもリーゼリアとの婚約以降は歯止めが利かなくなっている。
その産物が、ハッシュというプライドだけは高い頭空っぽの美男子というわけであった。
この学園に通うのは貴族の義務であるため、ハッシュも入学させられている。
しかしその費用は婚約者であるクラックス伯爵家持ちといえば、どれだけ厚顔無恥なのかわかるというものだろう。
「……忠告はいたしましたよ」
「訳のわからないことを。さあマリー、キミのために今人気という希少な焼き菓子を手に入れさせたんだ。一緒にどうだい?」
「喜んで」
言うまでもないが、その焼き菓子を購入するための費用はリーゼの財布からである。
リーゼに対して勝ち誇った表情を一瞬だけ見せたマリーにも、リーゼの財力に寄生しているハッシュにも、周囲からすれば苛立ちが募って当然というものであろう。
そのまま、碌な礼も執らずに立ち去っていく二人を見送り、リーゼはため息と共に言葉を漏らすのであった……。
「やっぱり、お二人とも顔はいいんですよねぇ……」
頬に手を当て、困ったように微笑むような素振りを見せながらも無表情のリーゼ。
それは『人の悪口を言ってはいけない』という人としての倫理に沿い、遠回しに顔以外はダメと言いたいのだろうと周囲は解釈している。
いつもいつも、婚約者と浮気相手に困ったとき、リーゼは決まってこの言葉を口にするのだ。あの二人は、顔だけは素晴らしいのに、と……。
◆
そんな、無関係の第三者の怒りばかりが募る日々の中、事件は起きた。
「リーゼリア! 貴様との婚約、破棄させてもらう!」
いつものように中庭でお茶をしていたら、突然マリーことマリエットを後ろに連れたハッシュがリーゼリアにそんな言葉をぶつけたのだ。
突然のことに目を丸くする一同であったが、周りのことなど気にしないとハッシュは舞台役者のように声を張り上げるのであった。
「貴様は、あろうことか! 私の愛しいマリーに嫉妬して嫌がらせを行ったであろう!」
「ほぉ……?」
何というか、今までに何百回と聞いた気がする台詞であった。
陳腐な三流喜劇辺りで使い回されている脚本辺りから引用してきたのだろうか、とリーゼはお茶を飲みながら何となく思う。
「リーゼ様! お願いです、どうかすぐに謝ってください! でないとハッシュ様が……」
「おお何と優しいのだマリーよ……。だが、情けをかける必要などないのだよ。悪には鉄槌を……それが道理というものだろう?」
すっかり自分に酔った様子で、稚拙な舞台役者のような振る舞いと共に浮気相手と見つめ合うハッシュ。
こんな滑稽な姿でも、美形は美形なのだから目の保養にはなるとリーゼは危機感無く思うのであった。
「……それで? 私には一切身に覚えがないのですが、一体何があったのですか?」
「何と卑劣にして愚劣な……!」
なお、ハッシュは難しい言葉を使うと頭が良いと思っているタイプである。
「マリーの荷物を盗み、壊しただろう!」
「……それは何を? そしていつのことでしょう?」
「そんなことはどうでもいい! 私の愛するマリーに敵意を向けた……その大罪を償え!」
恐ろしいことに、被告人に発言権を与えず、説明責任すら果たさないまま裁判長が一人騒ぐ裁判はもう終了してしまったらしい。
まさか具体的な情報ゼロで贖罪を迫るなど、本当に何を考えているのかこの男は。と、周りで聞いていた者達は逆に固まってしまうのであった。
「私に罪があるというのなら、当然反証の権利があってしかるべきでしょう……というよりも、婚約はあくまでも両家の当主の意向によるもの。こんな当事者同士のいざこざでどうにかなるものではありません」
リーゼのすました顔の台詞も、どこか寒々しい。
彼女自身、似たような台詞を庶民の大衆娯楽の中で見たことがあるような気がしていた。それくらいにあり得ない、作り話の中でしかあり得ない状況であるということだ。
「父上とて、このような非道な女を我が侯爵家の一員にするのは問題があると説明すれば納得してくださるだろう!」
「つまり、現時点では一切了承をいただいていないと」
「つくづく苛立つ女だ……!」
ここに至っても、リーゼの表情は人形令嬢の異名に相応しく揺るがない。
ようやく理解が追いついてきた周囲からはハッシュに対して怒りや侮蔑の感情が叩きつけられんばかりだというのに、当の本人は本当に人形なのではと疑いたくなるほど感情を表出さない。
いくら感情を露わにするのは淑女としてよろしくない――というのがマナーであると言っても、この状況ならば怒るなり悲しむなりしても罰は当たらないだろうに。
「リーゼ様……酷いです。私、こんなに悲しんでいるのに」
「おおマリー……キミは本当に可愛いよ。こんな能面のような女と違ってな! こんなに可愛いマリーが泣いているのに、何とも思わないのか!」
「思いませんが」
しくしくとわざとらしく泣くマリエッタとは対照的に、全く熱を感じさせない態度でただただ拒絶するリーゼリア。
媚びを売り同情を誘い場を操ることを信条とするマリエッタと、情という概念を母の腹の中に忘れてきたと揶揄される人形令嬢の相性は最悪である。
もちろん、そこに自分が気持ちよければそれでいいお坊ちゃまが加わっても良い方向に進むはずもない。
「とにかく! 婚約など破棄だ! キミの悪辣な行動が原因なのだから、当然そっちが慰謝料を払ってもらうぞ! 侯爵家との縁談に泥を塗ったのだ……それ相応のものを覚悟しておけ!」
ハッシュは埒があかないと、それだけ言い残してマリエッタと共にその場から立ち去っていった。
本当ならば怒りに任せて立ち上がるべきだったと思っているリーゼリアの友人達も、結局怒りの視線以上のことができなかった嵐のような出来事であった。
ただ、それでも各自が辛うじて残していた冷静な部分の思考は、見事に共通しているのであった。
『ああ、要するに金目当てか……』
それがこの場に居合わせた全員共通の感想である。
要するに、何かしらに金を使うのに一々リーゼリアを通すのが面倒になった浮気カップルは、リーゼリア有責ということで婚約を破棄することにより、金だけもらってリーゼリアを捨てようと企んだわけである。
自分から浮気しておいて一人で騒いで慰謝料の請求。もはや結婚詐欺以外の何物でも無い行いであり、当然違法行為である。
証人はそこら中におり、万が一にもリーゼリアに負けはない。裁判をやればハッシュの味方をしたがる弁護士など一人も現れず、リーゼリアはわざわざ賢げに弁論術を披露しなくとも、ただ微笑んでいるだけで勝利を得ることができることだろう。
それを理解しているのか――人形令嬢は、この場で最も他人事であるかのように一人ティータイムの続きに戻るのであった。