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月曜日、弘人は帰ってきた。
といっても日付がとっくに回った深夜に、明らかに女の香りを纏って。
(大丈夫、大丈夫…)
凛は努めて今まで通りに接した。
お帰りなさいと玄関まで迎えにいく。
帰ってくるのを待っていた凛を一瞥すると、「いたのか」なんて事を言ってきても。
作った夕食には何も手をつけず、風呂に入るとそのまま寝室へ行って一人で寝てしまっても。
(大丈夫、大丈夫…)
凛は食器や残った食材を片付けると寝室へと向かった。
真っ暗な部屋の中で、凛は弘人に気付かれないように懐中電灯を灯しベッドにそろりと近寄った。
明かりを向けると弘人はダブルベッドのど真ん中で大の字で寝ていた。
イビキも凄い。
実は相当疲れているんじゃないかと心配になるくらい深く眠っているのがわかる。
(やるなら今しかない。時間がないんだから…)
弘人にベッドを占拠されているため、凛はソファで寝ることにした。
自分の枕と上掛けをもち、そっと弘人に近付くと枕元に置いてあったスマホを手に取る。
ちらりと視線をやるが、
ガーガーとイビキをかいて深く深く眠っているらしい弘人に全く気づかれた様子はない。
凛はそのままそろりそろりと寝室を出た。
(き、緊張した~~!!!)
凛は勢いよくソファに飛び込むとクッションに顔を埋めた。
(やった!やったよセシル君!)
凛はニヤけるのを止められなかった。
ただ弘人のスマホを持ち出しただけなのだが、凛にとっては今まで生きてきた29年間で初めて行った“悪いこと”である。
(あっ!セシル君に報告しなきゃ)
凛は自分のスマホを操作し、セシルに急ぎ連絡を取った。今までプライベートで連絡なんて全く取っていなかったのにどういう変化なんだと自分に軽く違和感を抱きながら。
“無事ゲットできたよ”
“よくできました”
(返事早っ!!)
返信まで約二秒。即レスである。
スマホを肌身離さず握りしめ視線もそらさずしていないとできない早さだ。
“ロックが掛かってて開けないけどどうする?”
“暗証番号なら分かってるよ。××○△って入力して”
なんで知ってるんだ、という突っ込みはあえて流しておく。
前回夜の公園で話し合ったとき、弘人の簡単なプロフィールを聞かれた。
その時に暗証番号とかはこっちの方で調べておくから。と爽やかな笑顔で言われたのだ。
(プロフィール聞いただけでなんでパスワードとか分かるのかな…誕生日の数字でもないし。探偵なの?…恐ろしき森崎セシル)
凛はざわざわとした鳥肌を覚えつつも弘人のスマホのロックを開く。
“開いたら、メールや画像のフォルダにそれらしい証拠があるかどうか確認して。あれば僕がこの前渡したカードを旦那さんのスマホに差して、旦那さんのカードは保管して明日僕に頂戴”
言われた通りまずは弘人の写真フォルダを開く。
「…うっ!」
フォルダの中は大量の弘人と美花の写真がズラリと並んでいた。
二人で色々なところに行ったのだろう。
観光名所の前で取った写真もあれば、明らかに海外で取った写真、お互いをそれぞれ写した写真や
ベッドの中で撮ったのか、素肌が晒された写真もあった。
凛のスマホが鳴った。
“キツいと思うけど、気持ちの整理だと思って頑張って”
(本当にね…かなりキツい)
凛は口許を手で覆った。
一枚一枚、確認しながらも凛は嗚咽をこらえるのに必死だった。
…決して、悲しいからではない。
(三十すぎて自撮り多すぎでしょ?!二人して写真撮りすぎ!何百枚あるのよ!…これなんて、“今日の美花だよハート”なんて文と美花の写真が送られてるし、それにしっかり自分も“今日の俺ハート”なんてキメ顔の自分の写真送ってるわけっ?!気持ち悪すぎるんですけどっ?!)
ドン引きだ。
凛は知らなかった弘人の一面にドン引きした。
まさかこんなにナルシスト気味な人だったなんて知らなかった。もっとクールで知的で、でも気配りもできて社交的な人、というのが凛の印象だったのに。
いやもしや、美花に感化されたのか…?美花は確かに昔からその傾向があるが、いやでも…と一人ぶつぶつ写真とにらみ合いをしていた。
凛は腹の底から沸き上がる嫌悪感に耐えつつ写真とメール等をチェックし、一度弘人のスマホの電源をおとしてからセシルに渡されたカードを差し替えた。
カードを移し変えるのだから、元あったデータが消えてしまうのではないかと心配したが、流石セシルの用意したものだ。なんらデータも損なわれることなく先程と全く同じ写真とメールが並ぶ弘人のスマホである。
凛は仕事をやり終え安堵の吐息を漏らす。
“全部終わりました。気持ち悪かった”
“お疲れさまでした。よく頑張ったね”
凛はふっと笑みをこぼした。
文字にすると素っ気ないが、この文を送ったセシルの表情がなんだか目に浮かぶ。
もし今目の前にいたら…きっと優しく微笑みながら凛の頭を撫でてきたりするんだろう……
(ってバカ!!!)
凛は顔を真っ赤にしてクッションに突っ伏した。
(なに余計なこと妄想してるのよ!そんなことされたって手を叩き落とすだけ!セシル君はそんなんじゃない。ただの後輩!ただの後輩!!今はただ、協力してくれるだけ………)
そこでふと、先日の深夜の公園での事を思い出す。
“復讐しようよ”
そう言ったセシルの顔は、笑顔でこそあるものの目は全く笑っていなかった。
本気なんだ。凛は感じた。
だが、それに素直に“はい。復讐しましょう。”何て言えるほど凛に度胸はなかった。
「でも、私だって悪いところがあったから気持ちが離れてしまったわけで」
「旦那さんがセンパイになんの不満があったのかは僕にはわからないよ。…ただ、僕個人の意見として、センパイは女性としてとても魅力的で素敵な人だ。だから、なんでセンパイの旦那さんが不倫したのか理解不能だね。それにセンパイは今この瞬間において完全に被害者だ。別に考慮する必要はないんだよ。というか、不倫したって言うことがもう最低なことなんだから」
ハッキリと言い切ったセシルは珍しくも苛立ちが表情に出ているようだった。
いつもニコニコ爽やかな笑みを浮かべているセシルが、そんな不機嫌丸出しの顔をすることが凛にとっては新鮮だった。
そして同時に嬉しくもある。
味方をしてくれる。それがどれだけ心強いか。
「ええっと…なんか、ありがとう?」
「センパイの魅力的な部分なら、明後日の日没まで語れるけど…今日はとりあえず置いておくよ。…で、センパイ。復讐はダメなら、少し軽く…仕返しは?」
「仕返し?」
凛はキョトンとセシルを見つめた。
「このまま素直に離婚して、そしてトントン拍子に話が進んでその旦那さんが妹さんと再婚したらどうする?センパイの元旦那さんがまさかの義弟にジョブチェンジ」
「わ、笑えない!!」
凛は頭を抱えた。
ありえない。そんなことあってたまるか。別れた元妻の目の前で平然とイチャイチャする二人が容易に想像できた。
「まあ流石に旦那さんの両親とかセンパイの両親が止めるとは思うけどね。でもそれで止まるならいいよ。でももし制止を振り切って再婚したりして、しかも離婚の原因はセンパイにあるみたいな風潮にされて。それでセンパイに嫌味ったらしく仲直りしましょう?とか言いながら結婚式の招待状渡してきたらどうする?」
「…人として終わってるとしか思えない。そいつら」
大概セシルの妄想なのだが、冷静でない凛は流されるままだ。
「悔しくない?」
「悔しいし…何だかものすっごく腹が立ってきた」
その調子だ、とセシルはニヤけるのを止められていないのだが、公園の手すりの上で握り拳を作り怒りのあまりワナワナと震えている凛には到底視界に入らない。
「だから、ね。旦那さんと妹さん、二人に少し仕返しをしよう?まずは…二人がこのまま穏便に再婚するのを阻止しよう」
「どうやって?」
「それは、追々僕が教えていくよ。大丈夫。こういうの得意だから」
一度社会から退場してもらうだけだから。そう笑顔で言い切ったセシルから漂うなんとも言えない恐怖…
凛は思い出して思わずぶるりと震えた。
(はっ!!弘人さんのスマホ戻してこなきゃ)
凛はまたそろりそろりと寝室に足を運びいれた。
弘人は寝返りを打ったようでこちら側に背中を向けている。イビキが止まっているので凛は起きているのかと一瞬硬直したが、規則正しい寝息が聞こえてきたのでホッと安堵し、弘人の枕元にスマホを戻し自分もリビングのソファに戻る。
(案外あっけなかったな)
ソファにごろんと横になりながら今自分が犯したことを振り返る。
(まだこれからかあ…セシル君の方でもいろいろ証拠を集めてくれるって言うし、私も頑張って行動しないと。…本当に二人が結婚して弘人さんが義弟になることだけは避けなきゃ)
それだけは絶対に、と凛は決意を固くした。
二人の未来を祝福できるほど、凛は聖人ではない。
(どんなに繕っても、私の中に弘人さんと美花の行為に対する怒りがあるんだ……だから、セシル君の“仕返し”に乗ってる。…人を呪わば穴二つっていうし、いつかこのしっぺ返しが自分にもくるのかなぁ)
はぁと深くため息をつき、眼をつむる。
ここ最近色々なことがありすぎた。久しぶりに帰ってきた弘人の冷たい態度も気にならないくらいに、凛は状況についていくのに必死になっている。
(そういえばセシル君、最後になんかいってたな……)
うとうととし始めた中でどうにか思い出そうとするも、迫り来る睡魔に阻まれて思考が定まらない。
(…確か、願いを、どうとか…)
そこで凛は完全に眼を閉じ深く眠りについた。
「ねえ、センパイ…全部終わったら、僕のお願いを叶えてくれる?」
「私にできることだったらいいわよ」
こんな軽く口約束をしてしまったことに、凛はとてつもなく後悔することになる。