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凛はセシルの車に乗り、ある場所を指定した。
それは凛の住む家からも程近い、高台にあるひっそりとした公園だった。
夜の二十三時を回ったところということもあり辺りは街頭が照らすのみで暗くシンと静まり返り、人の気配がない。
高台にある、ということもあってか住宅街はあるものの街の喧騒や騒音などとは遠く静かで落ち着いていた。
「へぇ~…綺麗だね」
セシルは公園の手すりに手をかけると、眼下に広がるキラキラと光る夜景に感嘆した。
夜空には星が瞬き、地上には星空以上に輝く街の明かり。
「…ここでね、プロポーズされたの」
凛は手すりに背を預け、星空を見上げていた
セシルはそんな凛の横顔をじっと見つめる。
「ここは夜景がきれいで有名な公園なんだって。…今日は珍しく誰もいないけど、いつもはもっと人がいるんだよ?」
若いカップルなんてうじゃうじゃいるよ、と言った凛は笑顔こそしているものの、それは暗く悲しげなものだった。
「…結構来るんだ?」
「そうだね。結婚してから、来ることが増えたかな。家もここから比較的近いし…ここに来れば、初心を思い出せるから」
凛はくるりと体の向きを変え、輝く夜景を見つめた。
「…噂は聞いてるでしょ?弘人さんが…私の旦那さんが、仕事が忙しくって全然帰ってきてないって。」
「うん、知ってる」
「でもそれは、仕事じゃなくて…不倫をしてるから帰らないんじゃないか、って噂は?」
「それも、知ってるよ」
凛は苦笑した。
そんな噂が流れていることは、本当に偶然に耳にした。
女子トイレで個室に入って軽くポチポチとスマホをいじっている時だった。手洗い場で他の女子社員が話しているのを聞いたのである。
最初、この話を聞いたとき、凛はすぐにでも個室を飛び出し、噂話をする女子社員に詰め寄って“不倫なんてされていない”と、“何も知らないくせに勝手に面白おかしく話を盛るな”と叫びだしたくなった。
だけど凛にはそれができなかった。
“和泉…今は関野さんか。可哀想に。まだ新婚でしょう?”
“全然帰ってこないなんて、どうしてだろうね?本当に不倫してるのかな?”
“でも和泉さんが可哀想よ。真面目に一生懸命働いているし、旦那さんが帰ってこなくてもグチ一つ言わないんだよ”
同期の美保も、凛に確認などはしてこないが、この噂は知っていただろうに。あえて凛には話さなかったんだと感じた。
凛は体の向きを変えると手すりに頬杖をつき遠くに見える夜景を見つめた。
不思議と、何を考えなくても言葉はスルスルと出てくる。
「なんとなくね、分かってたの。帰ってこなさすぎるって。他にいい人でも出来ちゃったのかなって。でも、まさかそれが私の妹だったなんて……思いもしなくてちょっと、キツいかな……」
いつからだったのだろう。
結婚の顔合わせの時から、だろうか。だとしたら美花と弘人はもう一年近く前から交際していることになる。でもそうだとすると、確かに納得できる。
最初の頃、凛と弘人は順調な交際だった。それが段々と、結婚式の準備をするあたりくらいから顕著に、そして結婚後は気付かないふりをする方が難しいくらいに弘人の心は離れていった。
美花は、凛とはあまり似ていない。
凛は色白で髪も色素の薄い焦げ茶色だが、美花は健康的な肌と赤く色づく頬、日本人らしい真っ黒で艶やかな黒髪。
何故か日焼けもせず不健康にも見えるほど色の白い凛からしたら、その肌も滑らかな黒髪も全てが羨ましかった。
そして性格も凛とは違い愛嬌があって可愛らしい。先輩に好かれるタイプだろう。
対して真面目一本筋の凛は、一緒にいてもつまらない、と美花にも何度か言われたし自分でもそうだろうなと思っている。
だから、明るくて社交的な弘人が自分を見初めてくれたのは奇跡に違いない。そう思っていたのだ。
ただやはり、美花と出会ってから弘人は知ってしまったのだろうか。感じてしまったのだろうか。
“妹の方がいい”と。
美花と弘人が出会い交際がスタートするまで、おそらくそう時間もかからなかったのだろう。
「さっき、センパイに結婚式の写真見せてもらったでしょ?あの写真。あれ見て確信したんだ」
「なんか変だった?」
「あの写真、センパイとか家族はみんな笑顔なのに、センパイの旦那さんと妹さんだけ、全然笑ってないんだよ」
言われてみてハッとした。
確かにあの写真は弘人は全く笑っていない。
というか結婚式の時は終始機嫌が悪かった。
緊張してるから、なんて当時凛は思っていたが
…ちがうと、無理やり誤魔化した自分を恥じた。
「そう、だね。…弘人さんはあの日口数も少なくて無表情で、機嫌が悪かったの。緊張してるからだって、自分に言い聞かせてたけど…そうね。美花もあの日はおめでとうも何も言ってくれなかったかな。家族は、姉離れができていないんだなんていっていたけど…それを信じきって、すべてを見ないふりをして…私って本当に愚かだわ」
凛は深くため息をついた。
泣きそうになる。
もう夜景も、星空も、凛にはなんの価値もない。良さも分からない。
思いでの場所だったこの公園も、寂しく感じると何度も足を運んではプロポーズされた時の事を思い出して、大丈夫だって言い聞かせて。
「…ほんと、バカみたい」
自分に呆れる。こんな女に愛想をつかして、それよりも可愛らしく愛嬌に溢れた妹の美花に心が動くのも当然だと思った。
「……センパイはどうしたい?」
冷静に、そう尋ねられた。
セシルの主観はなしにして、凛の意思を尊重すると。言葉にしなくても伝わった。
「…そうだね、もう知らなかったふりはできないし、きっともう、弘人さんは私のことは好きでも何でもないでしょう?…だから」
そこで一度言葉を切り、深く息を吸って眼を閉じた。
「だから、別れる」
言い切った凛は、自分の心が確かに落ち込んでいるもののどこか清々しいような気分でいることが不思議だった
(もっと、辛くなるかと思ったのに)
それはもう、先輩としてのプライドなんてかなぐり捨てて大声で泣き叫ぶくらいには。
だけどもそうならず、凪いだ気持ちで入れるのは何故なのか。
(私は、私が思っている以上に冷めた人間だったのかしら…それとも、こうなることをどこかでわかっていたから、かな)
別れると決めたら今まで悩んでいたことがとてつもなくバカらしく感じた。
相手が妹でなければ、自分の努力次第で弘人の気持ちが戻ってきたかもしれない。
でもそれが妹ならば、もう凛には太刀打ちできないことを知っていた。
「妹の美花はね、写真で見たでしょ?とっても美人で愛嬌があっていつも人気者でね。私は、ほら…」
そういって片手で髪を掴むとびよんびよんと引っ張る。
「何故か知らないけど色素が薄くて、髪がこんな風に焦げ茶色なの。染めてるんじゃないのよ。これで地毛なの。目は日本人らしく真っ黒なんだけどね。…美花はこの髪の色がすごく羨ましかったみたいで、ズルいってよく言われたわ。でも私は、真っ黒で艶のある美花の髪の方が綺麗で羨ましいっていったら、途端に伸ばすようになって。でもそれがすごく似合って、本当に美人さんになったんだよ」
「センパイは、妹さんが好きなんだね」
「そう、ね。いい子なのよ。とっても。きっとセシル君も会ったら好きになっちゃうんじゃない?」
「それだけは、絶対にないよ」
セシルは顔がひきつった。
どこの世に、姉の旦那を奪っておいて平然としてられるような悪女に惚れるやつがいるというのか。
「ねえセンパイ。別れるっていっても、ただ普通に離婚するだけじゃ、悔しくない?」
「…え?」
凛はセシルの瞳を見つめた。
暗闇の中でさえ色を失わないその碧は、人を惹き付ける。凛は視線をそらせない。
「復讐しようよ」