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いったい全体、何がどうしてこうなったのか。
凛は行きつけのカフェの扉の前で固まっていた。もう何度、逃げようと、家に帰ろうと思ったことだろう。それでも逃げずこうしてお店の前で硬直しているわけだが、逃げなかったのはあくまで先輩としてのプライドか。それとも
(いま逃げたところでどうせまた明日捕まるだろうし…)
諦めである。
あの森崎セシルという英国紳士のような風貌の外国人は、意外にもしつこい性格なのである。
前に営業先への移動の最中に凛の夫である弘人の事について、それはまぁ事細かに尋問…もとい、質問された。
そのときは出先であったのもあって軽く流す程度に答えていたのだが、こちらが明確に答える気が無いと悟ると、余計に知りたくなったのかエンジンがかかってしまいそれからしばらく休憩中は勿論、移動の時や少し時間が空いたときなど、顔を見せては弘人の事を聞いてくる。
これが面白くないのが社内の女子である。
セシルが弘人の事を質問しまくっているので余計な勘繰りが生まれそうになったのだが、それを凛は黙殺した。
というのも、変な噂が広まる前にセシルの興味を裂こうと思ったのだ。
おそらく異動先の先輩が新婚ホヤホヤなもんだからちょっとからかってみようとか、後学のためとか、そんなものだろうと思い、凛はセシルをカフェに呼び出し、そこで質疑応答をしたのだ。…そのカフェが、今日待ち合わせをしているここである。
(確かに一度だけ一緒に来たけども、行きつけだなんて一言も話してないのに)
なぜばれたのか。凛は嫌なことがあったり落ち込むとよくここのカフェに来て一人で問題を消化する。
駅から少しある、狭い路地を入ったところにある小さなカフェだが、落ち着いていてコーヒーの香りがふわりと漂うこの店が凛はとても好きだった。
時計を確認すると待ち合わせ5分前。
凛は意を決して扉を開いた。
扉を開けるとすぐ見慣れたカウンターが目に入る。
マスターはいらっしゃいませと軽く微笑み会釈をする。
凛もそれに習い軽く頭を下げると店内を見回す。席が七割ほど埋まっているが目当ての金色が、すぐに見つかる。
「あ。センパイ」
見つけると同時にこちらに振り返った金髪碧眼王子はにこりと微笑んだ。
(ほんっとうに目立つ容姿だわ)
凛は小さく溜め息をつきセシルのテーブルへと向かう。
見つけるまでものの二秒足らずだったと思う。
例え人混みに紛れたとしてもセシルなら容易に見つけられるだろう。
このこじんまりとしたカフェの中においても、セシルの存在は異質と言うか浮いているように見えた。
そんな軽い現実逃避をしながらも凛はセシルのいるテーブルへ着き、目の前に腰を下ろした。
そこでふと思い出す。
(そういえばコイツ、オンとオフでキャラが)
そこまで思い出したとき、目の前の美貌の王子の笑顔がとろけた。
「お疲れ様ですセンパイ。来てくれて嬉しいなぁ」
凛は思わず顔をしかめる。
「セシル君、前から言ってると思うけど言葉遣いとかさ、オンとオフでのキャラとかさ、ちょっと違うよね?」
「前も言われたよね。それ。今はプライベートだし、センパイも敬語じゃなくて良いって言ってくれてたから素の僕なんだけど」
コテンと首を傾げながら「ダメかな?」なんて言ってくる社内の爽やか王子に溜め息を禁じ得ない
確かに凛は二人でいるときは、堅苦しくないようかしこまらなくても良いと以前営業先を回っているときの休憩時間にさらりとセシルに伝えた。
それは慣れない日本で大変な上に本社から異動してきて仲のいい人も居ないだろうから、余計な気苦労はしなくて良いよという意味もある。
だが、凛が伝えたかったのはあくまで畏まらないでいい、というところだったのだが
「え、敬語じゃなくてもいいんですか?嬉しいな。堅苦しいの苦手だったから、そういってもらえると助かるよ」
何て言いながら大きく背伸びをし、やっぱりセンパイは優しいな~なんて呟く。
それを目の当たりにした凛は唖然と目の前のセシルを見つめ続けた。
社内のセシルはなんでもスマートに仕事をこなし、日本人男性にはあまり見られないレディーファーストやエスコートをさらっとしてしまう、そんな紳士だったのだから。
だが目の前にいるこれはなんだ。
いきなり敬語を崩し途端に馴れ馴れしくなった。
「センパイと一緒にいると凄く気持ちが落ち着くんだ。真面目なキャラ維持するの大変だったんだよ。だからこうして素でいても良いって言ってくれて、凄く嬉しいんだ。…ありがとう」
凛は相変わらずポカンとしたままセシルを見つめ続けた。
畏まらないで、と伝えただけで敬語を使わなくていいとは言っていない。だが、今さらその言葉遣いを指摘するのは先輩としてのプライドに関わると言うか。
(ほ、本音と建前の文化がないのね……)
凛の呆けた表情に、セシルはクスリと微笑む。その表情も優雅で育ちのよさが伺えるのだが、凛にはそれを感じている余裕がなかった。
セシルはそんな微笑みを携えたまま徐に凛の手を取ると、その甲に唇を寄せた。
「…んなっ?!?!?!」
凛は思わず叫ぶと物凄い早さで手を引っこ抜き両手を宙に逃がす。
…端からみれば突然大声を出して大きく万歳をし始めた変人である。
「ひどいなぁ。流石に傷つくよ」
変わらずニコニコしており指して傷ついたような表情はしていないだろうがと凛は毒づく
「あ、ああああのね?!こういうスキンシップはむやみやたらにするべきじゃない!!勘違いされるわよ?!?!」
「ふふ、センパイ顔真っ赤だよ。大丈夫。センパイ以外にしないから」
「こっ………!!!!」
この台詞までセットだったのか!と凛は頭を抱えたくなった。
翻弄されている。慣れないスキンシップに過剰に反応しすぎている。二十九歳のアラサー女子が二十五歳の青年王子にだ。
(これは挨拶!!セシル君の国流のただの挨拶なんだ!!)
もう乙女でもないのにこんなのにたじろぎ、恥ずかしがるなんてその方が恥ずかしい。ここはスマートになんでもないように対処するのが大人の女なのだろう。
凛は先ほど口づけされた手の甲を反対の手で握り隠し自分の腰に回した。
「そういう台詞もスラスラ言える辺り、相当女慣れしてるね。あなたに泣かされてきた女の子が目に浮かぶわ」
思わずツンツンした物言いになったが、若干腹が立っていた。
ただ手の甲にキスをされただけだが、既に森崎セシルという人間に翻弄され遊ばれたような心境になった。コイツに本気になった女子は、さぞ痛い目を見るのだろう。
そんな凛の心境を感じたのか、セシルは困ったように微笑むと小さく溜め息をついた。
「…だから、ね?」
そのまま一歩凛に近付くと手を伸ばし、彼女の長く艶やかな焦げ茶色の髪を一束取ると、そこにも口付けを落とした。
「センパイだけなんだよ」
「っう~~~!!!!」
凛は顔を真っ赤にしながらも、今度は思い切り逃げず、半歩後ろに下がるで止めた。
「私には!スキンシップ禁止!!!」
「えぇ~??」
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「…そんなやり取りがあって今になるわけだけどね…」
「センパイ。大丈夫?急に」
ドリンクメニューを片手に突然物思いに耽った凛を見て、セシルは怪訝な顔をした。