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顔面に微笑みを携えたまま迷い無い足取りで凛の前までやって来た王子に、凛は視線をそらすことなくキッとにらみ返した。
(ま、負けるもんか……!)
王子の微笑みを見た女子の群れは、ほぅ…とうっとりとした溜め息を吐いた。が、凛にはこの微笑みが胡散臭いものだと十二分に理解していた。
(アンタの教育係を半年も勤めてんだから、そんな小細工は通用しないっての!)
それでも王子は凛への微笑みを止めない。
というか、凛に近づくごとにその笑みはどんどん深いものに変わっていることを凛は気付かない。
そしてとうとう、王子は凛の目の前にやって来た。
「お疲れ様です。センパイ。休憩時間に失礼します」
そういって軽く頭を下げた彼…金髪碧眼王子こと、森崎セシルはとても良い笑顔を凛に向けた。
…と同時に周りの女子の嫉妬の視線も浴びたわけだが。
「…えっと、お疲れ様、セシル君。」
頬を若干ひきつらせながらも凛は答える。ここで過剰な反応をとると女子の群れから更に敵意のこもった視線にさらされることを、この半年の教育期間で凛は十分に理解していた。
只でさえあの、“王子”の教育係になっただけでチクチク嫌みを言われたのだ。凛の希望ではなく上司命令で仕方なくであったのに。
そして少しでも色目を使うような対応をした瞬間、凛は社内で孤立する。
公私混同も甚だしいと思うが、働く上で人間関係に余計なトラブルは起こさないに限るので
凛は勤めて“普通”に接することを心がけている。そして“余計な干渉はしない”これに尽きるだろう。
(実態はどうであれ、私が既婚者でよかった…これで独身だったらもっと風当たりが強かっただろうし)
その夫婦関係が現在機能しているかと言えば微妙なところだが。
凛は小さく溜め息を吐いた。
「センパイどうしました?顔色が優れませんが…お疲れですか?」
「っ?!」
そういってセシルはぐっと顔を凛に近付ける。反射で後ろに仰け反ったのと同時に小さく悲鳴が上がったのが聞こえた。
(近いわっ!!余計なスキンシップはとるなとあれほどいってるのに…!)
心のなかでは舌打ちをする勢いで怒鳴っているのだが表には出さず勤めて平静を装った。
「なんでもないよ。それでセシル君。私に何か用?」
そこであぁ!とようやく本題を思い出したのか、セシルは手元のファイルを広げ始めた。
それを見ながら凛はまた小さく溜め息をつく。
(仕事はすごくできるのに、こういうところが少し抜けてるのよね…外国特有のおおらかさ故なのかしら)
セシルはとても仕事ができた。
半年前に急に異動してきた彼の教育係に急遽決まり、それから一緒に仕事をし続けている。
なぜ凛が選ばれたのか、部長に聞いても「俺も分からないんだが上からの命令でさ…」と何やらゴニョゴニョ言っていた。
だが命令なら仕方がない。凛は女子達の嫉妬の目線に耐えつつ仕事を教えていたが、セシルはとても飲み込みが早かった。
教えやすいし、教え甲斐がある。そして見目がいいし、言葉遣いも丁寧で気さく。
おかげで営業に連れていくと上手いことまとまる案件が増えたものだ。
教育係になって三ヶ月後には
「センパイの分も終わらせておきましたよ」やら「昨日の取引先の案件、自分の方で終わらせておきました」なんてのはしょっちゅうで、凛は毎回焦らされた。しかも、仕事をしてくれるのはとてもありがたいのだが報告が全部事後報告なのだ。
そのせいで先方に二重にメールを送るところだった。それにキレた凛は「ホウ・レン・ソウ!!報告連絡相談!なにか行動するときは必ず私を通して!!」
と、何度も何度も言い聞かせることになる。
そんな事もたくさんあったが、セシルは仕事覚えがとても早いのでもう教えることもないのではないかと部長に相談したが、
「いやでも上からの半年間は絶対にと言われていて…」とまたもやゴニョゴニョ言っていたので、凛は諦めて今も教育係についている。
といっても、今月末にはその任も終わりを迎えるのだが。
(教育係もあと二十日チョイか……長かったなぁ)
この半年間を思いだし、凛は遠い目になった。
主に女子からの質問攻めについてだが。
「セシル君の趣味は?」「好みのタイプは?」「血液型は?」「誕生日は?」「どこの国の人?」「どこの大学出たって?」「家族構成は?」「収入は?」などなどなど…
それらの質問に、凛は知らぬ存ぜぬで通した。余計な勘繰りを産まないためだ。
質問してくる女子にも、「プライベートな質問は一切しません。興味ないので。」で突っぱねる。不服そうな顔をされるが、同時に安心もされる。「コイツは大丈夫だ」と顔に出るのだ。
そんなことを思い出していると、セシルから数枚の書類を渡される
「部長から頼まれていた件で。至急確認しておいてほしいとのことです」
「ん。ありがとう」
そんな急ぎの仕事あったかなと思いつつ書類をチラリと見るが、どうも昼休憩に渡しに来るような用件ではない。
「これさぁ…」
いま渡す必要あった?と続けようとした凛の言葉を、セシルのものすごい笑顔が遮った。
(な…?!)
ゾワリと鳥肌がたつのがわかる。
直感で感じるのだ。
”嫌な事が起こる“と。
「それでは、休憩中に失礼いたしました。またあとで」
軽く頭を下げ金髪がさらりと揺れるのを呆然と見つめていた。
そのままセシルは背中を向け、入り口付近にたむろしていた女子のなかに入ると笑顔で会話をしながら消えていった。
手には女子に渡された沢山のお弁当やお菓子をもって。
その姿をポカンとした表情で見つめていた凛は、ハッとしたように物凄い勢いで書類を数枚めくり、挟まれた付箋を見つけ、驚愕に目を見開いたあとそのまま崩れるように椅子に座りなおった。
脱力した凛を周りは怪訝な表情で見ていたが、また何時ものように昼食を再開した。
美保が満足顔でこちらに戻ってくるのが見えたので慌てて付箋を握りつぶしポケットにしまう
「なんでこんなことに」
ぼそりと呟いた凛の言葉は、幸いにも誰の耳にも入らなかった。
凛は頭のなかで付箋の中身を思い返していた。
“十九時、センパイ行きつけのカフェで待っています。
森崎セシル”