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ふと目を開けると、そこは木々の生い茂る薄暗い森の中だった。
目の前には大きな湖があり、その上空は木の葉が無くぽっかりと空けており、眩い星空と大きな月…のような、日本で見ていたものより更に大きく、拳ほどの大きさで青白く輝いている。
水面は夜空と月明かりを反射して森のなかを薄く照らしていた。
凛はのろのろと立ち上がると湖へと歩みより、そっと水面を覗き込み、そこに写る自分を見て…ホッと息を吐いた。
「はぁ、よかった…いつもの私だ」
怖い夢を見た、と凛は思った。
春の野原のような暖かくて気持ちのいい場所なのに、そこに居る人達は意味不明なことばかり一方的に言ってきて、しかも自分が自分じゃない。そんな怖い夢。
凛は大きく伸びをすると、辺りをキョロキョロと見回した。
大きな月と反射する湖のお陰で真っ暗闇、というわけではなくほんのりと薄暗く、遠くまでは見渡せないがある程度の距離は視認できる。
「ここどこ…まさか、また夢とか…」
「起きた?凛」
パッと声のした方に振り返ると、見慣れた金髪、見慣れた青の瞳の…セシルが、にこりと、気配もなく背後に佇んでいた。
凛は驚き、悲鳴をあげる…事はなく、そのセシルの変わらぬ雰囲気に、小さく「…良かった」と呟いた。
そんないつもとは違う凛の反応にセシルは首をかしげると屈み込み、凛のおでこに手を当てた。
「…熱はないか。どうしたの?らしくないけれど」
「らしくないって何よ。ちょっと………訳のわからない夢を見て」
怖い夢を見た、とは素直に言えなかった。なんだか子供っぽすぎると思って。
「それより…ここはどこなの?私…あれ?」
凛はまだ少しボーッとする頭をフル回転させて記憶を遡る。
セシルのお城で毒を盛られて、横柄な態度の宰相がいて、人がたくさんやって来て…
「混乱しているね?窓を飛び出したときに凛は気を失ってしまってね。異常は無かったからそのまま連れてきたんだ」
「ああ、ええっと…そうだった…見せたいものがあるとかなんとか…」
「ここがそうだよ」
セシルの視線の先には、先ほど凛が覗き混んだ湖。
それなりに大きく、日本だったら手漕ぎのボートやアヒルのボートで賑わいそうな広さがある。
水面は月の明かりを反射してキラキラと輝いており確かに神秘的で綺麗だが、果たしてこれを見せたかったのか。それもこんな夜中に。
「とっても綺麗だと思うけど…昼間でも良かったんじゃ?」
「そうだね。昼もとても綺麗なんだけれど…待てないらしくてね」
「何が?」
ほら、と、セシルが何かを包み込むように片手を持ち上げた。
セシルの視線もそこに向いており、凛もその手のひらをじっと見た。
「…何もないけど」
「うん。普通の人には見えないみたいでね…精霊だよ」
「せいれい…?」
凛は更にじーっとセシルの手のひらを見たが、やはり何も見えず。
セシルはくすくす笑うと手をポンと持ち上げ、軽く空に放り投げるような仕草をした。
「僕がいま手に乗せていたのは精霊の子供…というか、妖精だね。テニスボールくらいの大きさで蛍みたいに淡く光ってここら一帯に沢山居るんだよ。その妖精が長い年月を経て力を蓄えると精霊になって、人の形をとれるようになるんだけれど…」
セシルは何故か物凄く、残念なものを見るような。軽くため息を吐きながら困惑した表情で凛の足元を見た。
「な、なに?」
「…その精霊達が、凛の足元で土下座しているよ」
「なぜ?!」
凛は思わず自分の足元を見た。が、やはり何も見えない。
そこから動こうにも、どこにその精霊、とやらが土下座しているのかわからず、踏んでしまうことが恐ろしく凛は固まった。
「見てみたい?」
「土下座姿は別に見たくないです…でも、本当に、いるの?」
「居るよ。凛が望むなら…」
そのとき、ザワリと冷たい風が吹き抜けた。
今まで無風だったはずなのに突然に吹いた風はとても冷たく、凛はブルリと震えた。
「…怒らせちゃったね」
「え?」
「精霊達は、凛に姿を見せたくないらしい」
「……そう…やっぱり私が黒目で、魔力なし、だから?」
途端、今度は雨が降りだした。
「は?!え?!」
「…悲しいみたいだよ?凛に誤解されたことが」
打ち付けるような強い雨ではなく、しとしとと降るその雨は、不思議なことに全く濡れない。
「えと、えと、誤解って?!」
「姿を見せないのは凛のためなんだって。凛にはなにも縛られず幸せになってほしいから」
「どういう…」
にこりと微笑んだセシルが空に手をかざすと雨は一瞬で止み、代わりに足元に小さな花がポツポツと咲き、頭上からヒラヒラと花が降ってくる。
「こ、これは…?!」
「謝罪と、感謝。精霊達は凛がこの世界に来てくれて本当に嬉しいんだって。勿論、僕も」
セシルは降ってくる花から一輪の白い薔薇を取るとそこに口付けた。
そのバラは淡く光ると徐々に色が代わり、青く輝く薔薇になった。
「凛。この世界で凛の人生を新しく始めてみない?」
「…え?」
セシルは青い薔薇を凛の髪に差すと優しく微笑んだ。
「この世界はまだ、凛にとって厳しい世界だと思う。でも必ず、僕が凛にとって幸せな世界にすると誓うよ。凛には、幸せになってほしいんだ。今度こそ」
ふわりと優しい風が吹いた。
花の香りと共に肌を撫でる風はとても暖かく、凛の背中を後押しするような、包み込んでくれるような、そんな気がした。
「でも、私、この世界の事よく知らなくて…それに、魔力がないと…」
「この世界の事は、これから一緒に知っていこう?それに、魔力がなくても凛の事を知って、共に居ようとしてくれる人は必ず居るよ」
ふと頭を過ったのはメアリとルナ。
それから必死に何かに抗いながら凛を知ると言っていたルーク。
そして、先ほどから優しい風を吹かせて応援してくれる姿の見えない精霊達と…セシル。
「私…生きていいのかな、この世界で」
「勿論。凛はここで新しく…そう。リスタートするんだよ」
凛は髪に飾られた青い薔薇をそっと撫でた。
色々なことがあった。
不倫されたこと、仕返しをしたこと、会社をやめてこの世界に来たこと、冷たくされたこと、それでも接してくれる人、そして…信じられる人。
短い時間しか居ないけれど、何故か日本に帰ろうとは思わなかった。これからここで生きていくんだと、そう感じていた。
不条理なことも沢山ある。理解できないことも、変な世界だなと感じることも沢山あるけれど。
「私、この世界を知りたい…知って、新しく私を生きてみたい…!うん!ここで、私をリスタートします!」
胸を張って言い切った凛に、セシルは溶けるような甘い笑みを浮かべ、暖かく優しい春の風が二人の間を吹き抜けた。