11
「あの時はヒヤヒヤしたなぁ」
「…ハッ!!!」
我に帰った凛はサッと辺りを確認したが、先程となにも変わらない森の中。
凛は地面に座って過去に逃避していたはずなのだが、いつの間にかセシルに手をとられ歩き続けていた。本人は無意識に過去の思い出を声に出していたようだ。
日が落ち始め辺りが暗くなり足元が少々見えにくくなっていた。
鬱蒼と生い茂る木々が邪魔をして視界は悪く、空さえも見えない状態だった。
それでも手を引いて前を歩いているセシルが草や枝を踏み締めて歩いてくれているので差ほど歩きにくさは感じない。
「リスティアなんて国、地球にはないからね。そこを突かれたらどうしようかと思ったよ」
「ちょ、ちょっと待った!!!」
凛は繋いでいたセシルの手を思い切り引っ張り、こちらを振り向いたセシルの肩を掴んだ。
「どういう事なの?!ここは、本当に日本じゃないの?!地球じゃないの?!」
「そうだよ。ここはセンパイにとっては異世界だね。…全部終わったら僕の国に来てもらう。そういう“契約”だったでしょ?」
「っそ、そうだけど…!でも…!!」
凛はガクガクとセシルを力の限り揺らした。
この行為になんら意味はないのだが、こうでもしないと凛は混乱のあまり叫び出しそうになるのを押さえられなかった。
凛は深夜、“仕返し”を決行する日に予定通り荷物をまとめ、テーブルに記入しておいた離婚届と、セシルが用意した弘人と美花の不倫の証拠を置いて家を出た。
その日弘人が帰ればそれを見て凛が家を出た理由に気付くだろうし、もし帰らなくても弘人と凛の両親に不倫の証拠を送っておいたので、早ければ明日には弘人の両親から連絡が行くだろう。
おまけに弘人の職場や美花の職場にも同じものを送っておいたので実家から連絡が来なくとも同僚たちには白い目で見られること確実だ。
そこまで準備をして、真っ暗な例の公園でセシルと待ち合わせしてから職場近くのシティホテルまで送ってもらい、そこで退職までの数日泊まるつもりだった。
そして退職後にセシルの国にいってしばらく自由に過ごす。そういう計画だったはずだ。
なのに実際は、公園で会った時唐突に言われたのだ。「“契約”を覚えている?」と。
もちろん覚えている、と答えると、にこりと綺麗な微笑みを見せたセシルは、どこからともなく凛の背よりも長い棒のような物を取り出した。
なんだそれは、という疑問を口にする間もなくセシルは何かを呟いた瞬間、凛の右の手のひらが熱くなり、真っ暗だった辺り一面が白く輝きだした。足元にはなにかよくわからない複雑な模様が浮かび、凛は信じられない思いでセシルを見た。
そして彼はこう言った。「僕の住む国。異世界“リスティア”でずっと暮らして欲しい」と。
「引き継ぎとかなら大丈夫だよ。そういった記憶は全部複製して渡してあるから。当初の変更点と言えば、ホテル住まいが無くなったことくらいじゃないかな?」
「バッカじゃないの?!大幅に変更してるでしょうが!!記憶の複製とか恐ろしいこと言ってるし!第一私は異世界に行くだなんて聞いてないし!立派な契約違反ですっ!!」
「でもセンパイも詳しい契約内容を聞かなかったし…」
「だって!まさかこんなっ!!」
凛の必死の訴えも空しく、セシルはまあまあと宥めただけでまた歩き出す。
凛も抵抗を試みたが力に負けてズルズルと引き摺られるように森を進む。
「お願いだから説明して!」
「歩きながらでも?」
「何だっていいから!!」
セシルはうーんと呟くと、なにかを思い付いたのか立ち止まり、凛に向き直る。
「センパイ…じゃないね。これから貴女は“リン”だね。貴女の名前は“リン・イズミ”」
「なんで旧…」
そこまでいって凛は口をつぐむ。
まだ正式に受理されていないとはいえ、凛は離婚を申し出た側だ。
それなのに弘人の姓である関野を名乗るのは確かにと思った。
(その資格も、無いもんね)
別れるということは、そう言うことだと理解した。すべてを切り離して、和泉凛に戻る。
「わかったわ」
「よかった。じゃあこれからは僕もセンパイ、ではなくて凛と呼ばせてもらうね」
「ええっ」
「もう会社とか関係ないから、いいでしょ?それに」
セシルは少し屈んで凛と目線を合わせた。
眼前に迫った蒼の瞳をまじまじと見つめた凛は、宝石みたいだな、なんて考えていた。
「僕の方が年上なんだよ?」
「…………え?」
更にどうやったらこんな色素になるんだ、とか、眩しく感じやすいとかいうけど本当なのかな、とか全く別の事を考え始めた凛は咄嗟の反応が遅れた。
なんといっていたか、たしか年がどうのと。
「……ええっと、ちなみにセシル君は何歳なの?」
「うーんと…確かもう少しで五百歳になるところかな?」
「ごっ?!?!」
ザザッと思わず数歩離れた。だけど許して欲しい。
凛のいた世界では五百年も生きられる人なんて存在しない。もしいるとすれば、それは人ではない何か、だ。
(あ…でもセシル君はここを“異世界”だって言ってた。ということは平均寿命がそもそも違うとか…)
少しずつ冷静になってきた凛は混乱する頭をフル回転して理解することに努めた。
固定観念に囚われてはいけない。どうやらここは“異世界”らしいのだから、色々なことが違って当然なのだと。
「ちなみになんだけど、セシル君の国…というかここの世界の平均寿命は何歳なの?」
「ちゃんと統計をとってるわけじゃないから正確なものはわからないけれど…だいたい八十から九十くらいじゃないかな?」
ザザザッと凛は更に数歩下がった。
「……………」
「……………」
訪れる沈黙。凛は目の前にいる金髪碧眼の男が一体なんなのか、分からなくなっていた。
視線は反らさず、宝石のような瞳を見つめ返した。…正確には睨みまくっている。
セシルは困ったように微笑んでいた。
「…やっぱり、怖い?僕の事」
「…………怖いって言うか、理解できないって言うか…」
セシルが嘘をついているとも、冗談を言っているとも思えなかった。凛の聞いたこの世界の事を教えてくれている。だからこそ、知りたかった。
「…セシル君は、人、なんだよね…?」
「難しいね」
セシルは苦笑した。
顎に手を当て、どう伝えるべきか悩んでいる様に見えた。
人なのか、という質問に難しいね、という返答。
人であるとハッキリ断言できない別の生き物ということになる。
(人じゃないなら、なにがあるの?!エイリアン?!幽霊?!)
凛は混乱した。大混乱だ。
ただでさえ、急に異世界とやらに飛ばされたらしいというのに、今まで後輩だと思っていた男がまさかの五百歳近くでしかも人ではないときた。なにがなんだかわからない。だからこそ、凛は開き直った。
(セシル君の正体がなんだろうがもういい!なんでも受け止めてやる!)
相変わらずセシルを睨み付けたまま凛は決意を新たにした。
セシルはそんな凛を知ってか知らずか小さくため息をはいた。
「…信じてもらえるかわからないんだけど…」
「なんでもいいわ!なんでも信じるし、セシル君はセシル君でしょ?!ドラキュラだろうがミイラだろうがなんでもこいよ!」
「ええっと、その二つではないことは言っておくね」
セシルは近くにある木に手を触れた。
すると青く光る不思議な円形の模様が浮かび上がった。
「なんっ…?!」
「この森は不思議な森でね、この世界だと二人の王しか入れない森なんだよ。…いや、入ることはできても出られない…黄泉の森という場所なんだ」
先ほどセシルが触れた木を中心にポツポツと辺りの木に模様が浮かび上がる。それは道標のように一直線に森のどこかへと示しているようだった。
日もほぼ沈み顔すら見えにくくなっていた森で光るこの木はとても幻想的に見えた。
「これは道標。この紋を扱えないとこの森から出ることが出来ない。そして、この紋を扱えるのが僕と、もう一人の王なんだ」
「お、うって…」
凛は唖然と、横に立つ男を見上げた。
暗闇で青く光るその模様だけが光源なはずなのに、その男の金髪もまた輝いているように見えた。
「夜を統べる者、闇を司る者…〈魔王〉セシル・リスティア。それが僕なんだ」
セシルは満面の笑みを浮かべ。
凛は思考が停止した。
異世界来ました。