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 男爵のベッドサイドでまんじりともせずに夜が明けて、僕は疲労に溜息を吐いた。夜の間に、考える時間はいくらでもあった。そして、考えれば考えるほど、望まない方向に結論は達する。

 ゆっくりと立ち上がり、伸びをして体を慣らす。それから、男爵の寝室のドアを開ける。ドアの外で警備に当たっていた警官の一人に声を掛け、少し席を外すので男爵の様子を見ていて欲しいと頼んだ。

 昨日歩いた邸内の様子を思い出しながら、僕は目的のものを探す。しばらくしてそれを見つけると、気取られないように足音を殺して近付いた。

 廊下の隅に設けられた小さなドアは、注意していなければ見落としてしまいそうなほど陰になじんで目立たなかった。邸の主は決して使わないだろうと思うような薄汚れたドアだ。そっとドアに近付けば、隙間から生ぬるい風が漏れていた。その風の臭いに眉をひそめる。

 鍵が開けられたままのドアに体を滑り込ませ、地下へと続く薄暗い階段を、足音を立てないように降りる。階段の壁越しに下を覗くと、階段の先に小さな踊り場があり、そこにもう一つドアがある。

 彼は、そのドアの鍵を、さっきとは違うキーを使って開けた。この階段の入り口のドアの時と同じように、僕は気付かれないようにその様子を窺う。鍵を開け、ドアを開いたその瞬間、湿ったカビ臭い風に混じる臭いが強くなった。

「そこに、子どもたちの遺体があるの?」

 彼はビクリと背中を揺らして振り返った。壁の陰から出て階段に立っている僕を見上げるその目には、怯えのようなものがちらついている。

「……ドクター……どうして…?」

 かさついた声で彼は呟いた。

「君のその傷、子どもたちに抵抗されて出来たものだろう?」

 トントン、と僕は自分の手の甲を指先で叩いて、彼の体にある傷のことを指摘した。あれは、引っかき傷などではない。人間の爪が引っ掻いた痕だ。しかも、小さな爪で。それがいつくも、古いものから新しいものまであるということは…。

「子どもたちを殺していたのは、君だね?」

 若い下男は、答えないという形で肯定した。

「それを指示していたのは、男爵」

「……逆らえませんでした」

 下男はその場にへたり込んだ。

「自分の体が次第に不自由になっていくことに苛立って、それを子どもたちを殺すことで紛らわせていたんだと。賤民の命など、自分のためにはいくらでも犠牲にしていいんだとか、ほざいてたぜ、あのジジイ」

 階段を下りて来た警部が僕の後ろに立った。

 男爵のあの体では子どもたちを殺すどころか、身体的な虐待は無理だろうから、誰か実行役がいるのだろうとは踏んでいた。そしてそれが彼だということは、あの傷から容易に想像がついた。警部にはそのことを伝え、今朝、男爵に証拠が見つかったとカマを掛けてもらった。そして下男のほうは、折りを見て僕から話をしようと様子を見ていた。

「…君は、どうしてここに?」

 まるで僕を連れて来たみたいに行動を起こした下男に尋ねる。

「子どもたちの死体は、この地下に隠してありました。男爵は、子どもたちを葬る必要などないとおっしゃいましたが、わ…わたしは、もう耐え切れなくなったのです。せめて、彼らを葬り弔ってやらなければ……」

 彼のか細い声は、まるで泣いているように聞こえた。

「ドクターは、旦那様にもわたしにも、同じように血が流れているとおっしゃいました。…あの子たちにも、赤い血が流れていたのです!」

 最後はもう叫び声のようになって、彼は声を上げて泣き出した。やり切れんなぁ、と警部は呟き、階段の上のほうで様子を見守っていた部下たちを呼び寄せた。



 男爵の邸を後にして、僕は家に帰る前に以前診察した商会の主人を訪ねた。僕の突然の訪問に、「治療費はすべてお支払いしたはずですが」と商会の主人は身構えた。

「今日はそのことではありません。お尋ねしたいことがあるのです」

「なんでしょうか?」と主人は警戒を解かずに問う。

「あなたのところに現れたという“メアリー・ブラッド”ですが、顔は見ましたか?」

「いいえ、暗かったので顔は見えませんでした」

 どうか想像と違う答えであって欲しいと願いながら、僕は次の質問をする。

「では、声は?」

「若い女だったと思います。でも、何故そんなことを訊くんです?」

「いえ、ちょっと、参考までに。ありがとうございました」

 唐突な質問に商会の主人は訝しんだ視線を向けるが、それには答えずに僕は早々に商会を出た。彼の答えは、僕の期待とは違った。


 医院の仕事を済ませて、医院の上階にある自宅に戻る。寝室で僕を待っていたルゥがすり寄って来た。すっかり夜の帳が下りた窓の外に目を向ける。

 そこに、ふわりと黒いビスクドールが降り立った。

 彼女がいつやってきてもいいようにと鍵を開けたままにしている窓を押し開けて、いつものように彼女はするりと体を滑り込ませた。久しぶりの彼女にルゥが喜んで駆け寄ろうとする。ところが、彼女の雰囲気の違いに気付いたのだろう、途中で足を止め、一目散に戻ってくると僕の足の陰に隠れた。

 彼女は黙ってうつむいたまま、その手に握る細身のナイフのように、静かな殺意を身にまとっていた。

「……君が、メアリー・ブラッドなのか……?」

 こんな小さな子がまさか、と思いたかった。だけど、僕は目撃者になってしまった。商会の主人のもとに現れたのが彼女なのだとしたら、彼女の正体は…。

「そう。わたしはメアリー・ブラッド」

 顔を上げた彼女のサファイアの瞳は、何の感情も伴っていなかった。ただ、空虚に僕を見つめる。

「目撃者を消すのは、組織のルール。ボスから、そう教えられた」

 そのルールに従えば、男爵を仕損じた際に目撃者となった僕は消されるべきだ。だから彼女はルールにのっとって僕を殺しに来た。

「…ボスの言うことは、絶対。ボスは正しい」

 再びうつむいた彼女は、ナイフを手に、音もなく一歩進んだ。僕はつっ立ったままそれを見下ろす。

「ボスの言うとおり。感情なんかいらない」

 小さな声で呟く彼女は、いつもの口数に比べたら、驚くほどおしゃべりだ。

「……こんな気持ちは、知らない」

 不意に、彼女は立ちすくむように足を止めた。

「……できない。………わたし、ロイを殺せない」

 力なく降ろした腕からぽとりとナイフが落ちて、カランと床に硬い音が響く。

「わかってたよ」

 僕は進み出て、彼女の前にかがんで目線を合わせる。

「マリーに僕を殺せないなんてこと、わかってる。だって、君は僕を好きなんだから。そうだろう?」

 マリーのうつむいた両頬に手を添え、ゆっくりと顔をあげさせる。僕の視線とかち合った彼女のサファイアの瞳からは、大きな涙がぽろぽろと零れていた。彼女が初めて見せる大きな感情は、彼女の心を揺らし、混乱させているようだった。

「……すき? それは、ロイが死んだら悲しいと思うこと? ロイがいないといやだと思うこと?」

「そうだよ」

 マリーが僕へ向けて来た感情は、まるで動物のそれと同じように、ルゥが僕に懐くように、純粋で正直だった。表情にこそ現れないマリーの感情は、いつも体いっぱいで表現されていた。僕にひっついて甘え、ベッドに潜り込むのも、彼女の愛情表現だ。本人は無自覚だとしても。だから、彼女がナイフを持っていても、僕は殺されるとは思わなかった。

「───ロイが好き」

 マリーの大きな目から涙はとめどなく溢れ、頬を伝い僕の指を濡らす。

「…ロイ、ぎゅってして」

 彼女が望むまま、僕はマリーを抱きしめた。ベッドで僕にすり寄って来る時のように、マリーは僕の服を掴む。

「ロイの側は、安心する。こんな場所、他に知らない」

 世間が恐れる血染めの暗殺者は、僕の腕の中では、ただの小さな女の子だった。



「こんにちは、ロイ先生」

「やあ、リリー」

 丁度患者が途切れた時間に医院に顔を出した金髪の少女は、その青い瞳を楽しげに細めた。

「よく眠ってますね」

「ああ、最近ひどく甘えるようになってね」

 彼女の視線の先には、黒猫が丸くなっていた。医院には入らないようにしつけていたのだが、ここのところ、患者がいなくなると隙を見ては入り込み、僕の近くから離れようとしない。

「遊び相手がいなくなって寂しいのかな」

 ルゥがこんなふうになったのは、マリーが姿を消してからだ。あの夜を最後に、マリーは現れなくなった。もともと彼女の素性を知らない僕には探しようもなく、気まぐれに現れる彼女を待つしかない。

「先生も、少し寂しそうですね」

 そう言って、リリーローズ・エインズワースは笑う。近くに住む彼女の母親が僕の患者で、彼女は時々、母親と一緒に焼いたお菓子を差し入れてくれる。彼女がこうして来るということは母親の体調はいいということで、僕は少し安心する。

「よく懐いていた猫がいなくなってしまったからかな」

「大丈夫、きっと戻ってきますよ。安心して眠れる場所を、そう簡単には手放せないはずです」

 少し大人びた微笑を見せる少女は、確か14だと聞いた。あと数年もすれば、マリーもこんなふうになるのだろうかと、つい考えてしまう自分に苦笑する。

 僕は存外、マリーを気に入っていたのかもしれない。

 いつか彼女が帰ってきたら、彼女の好きな紅茶とジンジャークッキーをあげて、存分に甘やかしてあげようか。

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