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ここのところ、マリーは姿を見せていなかった。ルゥは寂しそうにしていたが、もともと少女の気まぐれだったのだ、仕方のないことだろう。
僕は、と言えば、相変わらずの日々を送っていた。
「よお、ロイ」
患者が途切れた午後の時間、それを待っていたかのように一人の男が現れた。医院のドアを開け、長い脚で大股に近付いてくる。整った顔立ちなのだが、眉間あたりの表情の険しさが、強面な印象を持たせる。
「ちょっと仕事を頼まれてくれないか?」
潜めた低い声で言われれば、何か危ない取引のようだ。
「今度はどんな?」
「とある幼児虐待事件の容疑者の男。もともと何か病気を患ってたとかで、倒れられて話も聞けやしない」
ロンドン警視庁のアークライト警部が溜息とともに告げた。彼は金払いのいい顧客の一人だ。とはいえ、話を持ってくるのは彼でも、金を払うのは彼の所属する組織だけど。
以前、軍の船医をしていた時に知り合い、僕が開業してからは、時々こうして警察の仕事を持ってくる。僕の専門は内科だが、船医の時には何でも診ていたし、今でも町の人からは内科、外科を問わずにさまざまな疾患が持ち込まれる。外科も厭わない内科医は貴重で、重宝するのだと警部は言っていた。
警部がすぐにでも来て欲しいと言うので、今日はもう医院を閉め、後のことをエマに頼んで僕は警部と一緒に出かけた。
連れて行かれたのは、大きな邸宅だった。事件の容疑者というから勾留されているのかと思ったら、まだ証拠が揃っておらず、事情聴取中に容疑者が倒れてしまったため、自宅軟禁状態なのだという。相手が貴族では、この対応も仕方のないことかもしれない。
道すがら警部に聞いた話によると、容疑者はとある男爵で、容疑は幼児虐待だという。近頃、その男爵は孤児院から身寄りのない子どもを複数引き取った。それも一つの孤児院ではなく、いくつかの孤児院から多数の子どもを。貴族が身寄りのない子どもを後見することはあるが、それほど多いというのは珍しい。そして、その子どもたちは、数日すると邸から姿を消しているという…。
僕は男爵の寝室へ案内される。ベッドには初老の男性が背に置かれたクッションに寄りかかるようにして座っていた。倒れたと聞いていたが、意識はあるようだ。
「警察の医者の診察など受けんと言ったではないか」
僕を見るなり、男爵は不機嫌そうに警部を睨みつけた。
「ご心配なく。信頼のおける内科の先生に来ていただきました」
警部がわざわざ僕を内科医だと強調したのは、内科医と外科医では地位に差があるからだ。内科医は、比較的上流階級の子弟がなり、外科医は中産階級が多い。
「どこの内科医だか知らんが…」
「その点についても問題ありません」
男爵の言葉にかぶせるように警部が言う。
「身元は確かです。こちらは、ドクター・ロイ・ハートネットです」
僕に目を走らせた男爵は、ふん、と鼻を鳴らす。
「ハートネット男爵家の変わり者の三男坊か。町医者の真似ごとをしているとかいう」
真似ごとではなく、町医者なのだが、いちいち侮蔑されそうなことを口に出したりはしない。僕が外科も厭わないのは、軍の船医をしていた経験からだが、町医者になったのは、その時に見た現実や、軍に在籍する下層の者たちと接したからだ。根底には貴族社会への違和感がある。父や兄たちが大英帝国の光と共にいるなら、僕は影に寄り添おうと決めた。
僕が医者になることに父はいい顔をしなかったが、反対もしなかった。大学の学費も黙って出してくれたし、開業資金も用立ててくれたということは、もしかしたら、応援してくれているのかもしれない。
ともかく、僕が貴族社会とは無関係ではないことを知ると、男爵は診察に応じてくれた。身分や出身によって医者の質が異なるわけではなく、医者の腕は、本人の能力や努力や環境に依るものだが、こうした身分による差別は別段珍しいことではない。
肺と心臓を患っている男爵の症状は、将来的には決して楽観できるものではなかったが、今のところはそれほど深刻ではなかったので、薬を処方して、様子を見ることにした。
今日一日は僕に邸に留まって診て欲しいと警部から要望があり、そのことを警部たちがいる客間で打ち合わせてから男爵の寝室へ戻った。
男爵の寝室では、若い下男がベッドサイドにお湯を準備しているところだった。僕が頼んで用意してもらったものだ。僕が寝室に入っていくと、「こちらに用意しておきました」と桶を指した。
「ありがとう。ところで、その手はどうしたの?」
下男の手の甲にはいくつかの傷が見えた。どこかに引っかけたにしては、不自然だ。
「あ、いえ、これは……大したことではないんです」
慌てて僕の視線にさらされていた腕を背後に隠す。
「大したことないって、化膿しているようだけど。よければ、手当てしようか?」
「いえ、滅相もございません。旦那様を診るお医者様に診てもらうなんて…」
「でも、この邸に医者はいないようだし、今は外に出られないだろう? 僕は構わないし、男爵には言わなければわからないよ」
使用人も警察から外出を禁止されているはずだ。放っておけば彼の傷はひどくなるばかりだ。僕が下男を診たことを知れば、彼が心配するとおり男爵はいい顔をしないだろうが、今は薬で眠っている男爵にはわからないことだ。
僕は男爵の容体が安定していることを確認してから、渋る下男を伴って、僕が使えるようにと用意された別室に移動した。最初は何とか断ろうとしていた下男も、僕が手当てするつもりを変えないのを見て取ると、諦めたように僕に両手を差し出した。手の甲の傷に違和感を覚え、僕は彼の袖を捲り上げる。服に隠れていた腕にも、いくつもの引っかき傷のようなものが赤く残っていた。血が出た痕もある。古い傷からごく新しいものまで、まるで何かと争ったかのような傷痕だ。
下男は傷を見て黙ってしまった僕を、おそるおそる窺い見た。不安そうなその目に気付いて、僕は笑顔を作る。
「大丈夫、薬を塗れば、きっと治るよ」
安心させるように言って、僕は傷口に薬を塗り込んだ。
「……なぜですか?」
しばらくは黙って治療されていた下男が、やがてぽつりと言った。
「なぜ、わたしのような下働きの者を診てくださるのですか?」
質問の意図を測りかねて僕は相手を見やった。
「ドクターは、貴族だと聞きました。それなのに、なぜ…?」
正確には僕は貴族ではないが、父が貴族であるということは、僕も貴族だと認識される。貴族と平民との階級意識は強固で、貴族である僕が平民である彼を診ること自体が不思議と取られても仕方がない。
「男爵の手も、僕の手も、そして君の手も、切れば同じように赤い血が出る。そのことを僕は知っているから。ただそれだけだよ」
正直、今の世の中の命に貴賎がないなんてことはない。地位や富ある者が優先され、その死すら悼まれない存在があることも、また確かだ。僕はすべての人を平等に救おうなどとは思わないし、できっこないとも思っているけれど、今目の前にある傷を癒すくらいのことはしてもいいと思っている。僕が破産しない程度になら。
若い下男は礼を言って部屋を出て行き、僕もそれを見送って部屋を出た。少し邸内の様子を見て、警部のところに顔を出して捜査の進捗状況なんかを尋ねてから、男爵の寝室に戻って来た。
ドアを開ける寸前、わずかな異変を感じた。風が、嫌な予感と共に頬を撫ぜる。そっとドアを押し開けて、僕は息を呑んだ。
ベッドに横たわる男爵の上に、黒い影が見える。開け放たれた窓から風が吹き込み、カーテンを大きく捲り上げた。その瞬間、影が月明かりに照らされる。
「…マリー!」
僕の声は心の叫びよりも小さくて、静かに閉まるドアの音にさえかき消されそうだった。だが、彼女の耳には届いたらしく、金髪のビスクドールが振り返った。
サファイアの瞳が、無表情に僕を見ている。
「……どうして、ここに? ここで何を…?」
言いかけて、彼女が手にするものに足が止まる。彼女の手には、細身のナイフが握られていた。僕から視線を逸らしたマリーは、何でもないような動作でナイフを振り上げる。
「だめだ、マリー!」
男爵の心臓に突き刺さりそうになる一歩手前で、彼女は手を止めた。
「どうして? この男は、たくさんの子どもを殺した。つみびと。死は、神の意思だとボスが言った」
無表情のまま彼女は問う。確かに男爵は罪人かもしれない。だからって殺してはいけないと説明する理由を、僕は持ち合わせていない。
「…だけど、君が殺す理由もない」
仮に百歩譲って、男爵の死が神の意思だったとしても、それを代行するのがマリーである必要はないはずだ。どのみち、男爵の命はそう長くはない。
「おい、ロイ、どうかしたのか?」
廊下から警部の声がした。僕は目でマリーに行けと合図して、「何でもありません」と答えた。マリーは身をひるがえして、窓から夜の闇へと帰って行った。




