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マリーは猫をルゥと名付けた。すっかり傷の良くなったルゥは、元気に跳ねまわり、時々マリーがやってくるとはしゃぎ遊んだ。じゃれつくルゥの相手をするマリーも、当初の無表情から比べると、ずっと表情豊かになったと思う。ただし、その微妙な変化は、エマ曰く「私には変わりないように見えますけど」という程度のものらしい。
相変わらずマリーは夜更けにやってくることが多く、最近は僕が寝ているベッドに勝手に潜り込むようになった。出て行こうにも、マリーは僕の服をギュッと握って眠るものだから、結局僕は諦めて横になる。まるで子守りをしている気分で、僕はマリーの頭を撫でるのだった。
無邪気な猫のように自分にすり寄ってくる少女が可愛くないと言えば嘘になるけど、この状況に慣れてしまうと、たぶん彼女は出来ないなぁなどとも思ってしまう。
添い寝さえ許されるとわかると、マリーの行動は、大胆になった。ルゥと僕の膝の上を取り合うというココロあたたまる光景もしばしば。それをやめさせられない僕も僕だが。
診療時間中は基本的には医院に出入りしないマリーだが、何故か患者が途切れた時間はわかるようで、ひょっこり顔を出す。元気になったルゥは医院には入れないので、医院では僕の膝はマリーが独り占めできるというわけだ。
ちょこんと僕の膝に座って、エマが入れた紅茶を飲むマリーは、可愛いお人形のようで、エマの頬も自然と緩む。僕は一応膝から降りて隣に座るよう言ってはみるものの、マリーがそれを聞き入れる気配はない。
「まあ、先生、本当によく懐かれて」
ふふ、と含み笑いをするエマに、僕は「野良猫を手懐けた気分だよ」と苦笑を返す。マリーはといえば、僕らの会話などに興味は示さず、エマがくれたジンジャークッキーに夢中だ。
そこへ、トントン、と控えめなノックがされた。エマが席を立ちドアを開けに向かう。マリーは臆病な猫のように、僕の膝を降りてソファの陰に隠れてしまった。
「ロイ先生」
神妙な顔をした男が頭を下げた。先日僕が診た急患、商会の主人の使用人だ。
「どうしました?」
「……それが、その……治療費のことなんですが……」
立ち上がって応対した僕に、男はますます体を小さくする。
「旦那様から、こちらへお支払いする治療費をいただけなくて。それで、せめてこれだけでも…足りないとは思うんですが…」
男が差し出したのは、数枚の銅貨。屋敷の主人に施した治療費としては、確かに足りない。
「これはあなたのお金ということですか?」
男は頷き、申し訳ありませんと謝りながら、足りないとは思うが、せめて少しでも支払いたいと申し出た。
「あなたの主人の治療費を、どうしてあなたが払うんですか?」
使用人の給料が、さほど高額でないことは知っている。おそらく、男が差し出すこの金も、なけなしの金なのだろう。
「それは、その…私がロイ先生をお呼びしたので」
「ですが、僕が治療したのはあなたの主人です。請求書もあなたの主人宛てに出しました。あなたからお金を受け取ることはできません」
僕は聖人君子などではない。ボランティアするつもりもなければ、ただ働きするつもりもない。だが、僕がお金を請求すべきは、払える金があるのに払わない成金親父だ。おおかた、僕程度の町医者に払う治療費などないとか言うのだろう。そういうことは、過去に何度か言われたことがある。
「請求は、僕から直接します。あなたが気に病むことではありません」
僕は、みんなが言うほどお人好しではない。正当な労働の対価は請求する。いざとなったら、まあ、奥の手を使わないでもない。
恐縮する男に言い聞かせて帰し、僕は溜息をついてソファに座った。
「まあ、先生はお人好しなんですから」
エマの声と同時に、ソファにマリーが戻ってくる。
「少しでも足しにもらっておけばよかったのに」
心配するエマに僕は笑みを返す。
「彼からもらうのは、気が引けるよ」
医院は、一応ちゃんと経営している。金払いのいい顧客もいるので、今のところ支払いを渋る患者が多少いても、すぐにお金に困るということはない。ただし、僕は治療費の踏み倒しを許すほど、優しくもボンクラでもない。
マリーはころりとソファに横になり、僕の膝を枕にした。最近はこれがお気に入りのようで、僕はマリーの髪を撫でてやる。
「またそんなことを言って。大丈夫なんですか? あそこの商会の主人は、お金にがめついという噂ですよ。ちゃんと催促できるんですか?」
「…まあ、頑張るよ」
催促という行為は、僕だって好きじゃない。でも、黙ってばかりもいられない。噂に聞く商会の主人は、なかなかに手ごわそうだけど、まあ、こちらには切り札がある、などと考えるのは、やっぱり僕は甘いのだろうか。
「一体どういうつもりだ!?」
翌日、突然怒鳴り込んできた男に、僕はぽかんと視線を向けた。
「あんな…あんなことをして、それでもあんた、医者か!?」
何のことだかわからないが、男はそれを僕に説明するつもりはないらしく、しきりに僕に向かって罵詈雑言を投げつけている。
今日はマリーがいなくて本当によかったと僕は心底思った。昨日夕方に帰って行ったマリーは、今日はまだ姿を見せていない。人が訪ねてきただけでも隠れてしまうような子だ。こんな風にわめき散らされたら、怯えてしまいそうだ。
この男は、確か商会の主人だ。僕は患者の顔を忘れないし、側に身を縮こまらせた使用人の男がいるから間違いないだろう。
僕の視線を受けた使用人の男は、申し訳なさそうに状況を説明する。
「実は昨夜、メアリー・ブラッドが現れたのです。旦那様に、未払いの金を払え、さもなくば自分に殺されるものと思え、と」
メアリー・ブラッドとは、近頃世間を騒がせている暗殺者の通り名だ。なんでも法では裁けない罪を犯した者や、権力をかさに着て弱者を虐げる者を成敗する秘密組織があるとかで、その暗殺者の一人なのだとか、と噂されている。
「あんな治療費程度で殺し屋を雇うなんて、医者の風上にも置けない野郎だ!」
商会の主人は、顔を真っ赤にして僕を怒鳴りつける。
「その“治療費程度”を払わなかったという自覚があるから、ここへ怒鳴り込んできたわけですね。ですが、僕が殺し屋を雇ったと言うなら、いろいろと矛盾しています」
僕の冷めた声に、商会の主人は一瞬言葉を失った。その隙に僕は言葉を継ぐ。
「殺し屋が殺さなかったあなたが、のこのこやって来たら、僕があなたを殺す可能性もあるのでは?」
殺し屋に殺されかけたと、その雇い主と思しき人間のところに怒鳴り込むなんて、命知らずもいいところだ。
「第一、僕はあなたに未払いの治療費を払って欲しいのに、何故殺すんです? 殺してしまったら、お金を請求できないではないですか」
僕の言葉に、商会の主人は黙る。
「そもそも、そんな“治療費程度”なら、殺し屋を雇うまでもなく、今ここで支払ってくださるのでしょう?」
にっこりと笑って見せれば、それこそ何も言えなくなった商会の主人が、酸欠の魚のように口をパクパクさせた。そこに僕は追い打ちを掛ける。
「“治療費程度”のことで動揺されるなんて、本当に心当たりはこれだけですか? あなたが心配すべきは、他にあるのではありませんか?」
何か後ろ暗いことがあるから、暗殺者の出現に怯え、心当たりのある相手のところに怒鳴り込むなどという奇行を犯したのではないか。僕の推測は図星だったようで、商会の主人は顔を真っ青にして黙り込んでしまった。
もちろん僕は、そのまま商会の主人を帰すようなことはせず、きっちり治療費を支払ってもらった。