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昨日はあんなに猫を心配していた様子だったのに、少女は姿を見せなかった。あれは少女の気まぐれだったのだろうか。
ベッドに腰掛け、僕のベッドで丸くなる猫を眺める。診療時間には医院の隅に寝かせていたが、結局夜になって寝かせる場所がないから、自分のベッドに連れて来た。猫の頭を撫でてやると、気持ち良さそうに耳を寝かせた。しばらくそうしていた猫は、不意に顔を上げた。なーん、と小さく鳴いて、窓のほうへ目を向ける。何度も窓に向かって鳴くので、不審に思って僕は窓へ近付いた。
カーテンを開けると、目の前に人影が現れてぎょっとする。
夜の闇の中、屋根の上に平然と立っていたのは、昨日の少女だった。僕は驚きながらも窓を開ける。僕の寝室は、半屋根裏になっているので、屋根のすぐ近くに窓がある。少女は僕の開けた窓から、猫のようにするりと室内に滑り込んだ。
「一体どうしたんだい、こんな時間に?」
もう日付も変わろうかという真夜中だ。少女が一人で出歩く時間ではない。しかも、一人暮らしの男の家に上がり込むような時間でも。僕の心配と小言を含んだ言葉を一切無視して、少女はまっすぐに猫へと歩み寄った。
体力が少し回復した猫は、首を伸ばして少女を待つ。少女は、そっと猫に触れ、その黒い毛並みを優しく撫でた。
僕は小さく嘆息して、少女に猫の回復は順調であることを告げた。
「これ、君が来たら返そうと思ってたんだ」
それから、少女が置いて行った銀貨を少女に差し出す。少女は首を振って受け取りを拒否した。
「治療には、お金かかる。ただでは、治療できない」
少女の言うことはもっともで、治療費を踏み倒そうとする輩にも聞かせてやりたい台詞だが、はいそうですか、とこれをもらうわけにはいかない。
「でも、こんなにもらえないよ」
全額を返そうとする僕に、少女は断固受け取りを拒否するので、妥協案を示した。
「じゃあ、薬代だけもらっておく。残りは返すよ」
そう言って少女の手に銀貨を握らせると、渋々といった様子で少女は受け取った。
「それにしても、こんなお金、どうしたの?」
僕の問いの意味がわからないのか、少女はきょとんと僕を見上げた。
「おこづかい」
その言葉の意味さえわかっているのか怪しいところだ。こんな高額のお小遣いって、どんな家なんだ? 家族はいないと言っていたが、嘘なのか? それとも、やはり親を早くに亡くした貴族かジェントリの娘か?
「君は、どこの誰なの? 送って行くよ」
こんな時間に家に置いておくわけにはいかない。ところが、少女はふるふると首を振り、猫の側を離れようとしない。まさか、昨日みたいに泊まるつもりじゃないだろうな。
「猫は連れて帰っても大丈夫だから」
再び少女は首を左右に振る。
「ここに、いたい」
「………」
どうしたものかと僕は思案する。家族がいない少女。もしかしたら、複雑な家庭環境にあるのかもしれない。継母云々とか? 親戚の家に居候で肩身が狭いとか? でもなんでそれじゃあ、抜け出してくるのが夜なんだ。むしろ昼だろう、居心地が悪いのは。いや、でも、夜になると逃げ出したい事情でもあるのか…。
余計なことを考えれば考えるほど、僕の気分は重くなり、少女を追い返す勢いがなくなる。いや、だからって、僕の家にこの子を泊めるのは…。
僕が逡巡している間に、少女はふわりとベッドに飛び乗り、ブランケットにくるまって猫と一緒に丸くなった。なんて気ままで自分勝手な。本当に猫みたいだ。僕は呆れて、でも半分諦めもしていて、溜息をついてベッドに腰掛ける。
「君にどんな事情があるのかわからないけど、よく知りもしない男の家に泊まるのは、あまり感心しないなぁ」
ブランケットの上から少女の頭を撫でると、少女の目が僕に向けられた。暗い部屋の中でも、サファイアみたいに輝く青い瞳。
「だいじょうぶ。あなた、いいひと。近くにいると、安心する」
なんだその根拠のない自信は。僕をいい人だと無表情に断言して、少女は目を閉じた。もちろん僕は、医師として、大人として、男として、そしていろんな意味で、安心できるひとでありたいけれど、それを何の根拠もなくほぼ見知らぬ少女に言われるとは。
結局僕は、自分のベッドを猫と少女に明け渡し、自分はリビングのソファに寝転がった。いくら安心だと言われても、見知らぬ少女と同じベッドに寝られるほど、僕の神経は図太くない。
翌朝、僕は妙な重みを腹に感じて、息苦しさで目を覚ました。ブランケットに隠れた自分の腹を眺めながら、ぼうっとした頭で考える。
……えーと、何でこんな不自然に膨らんでいるんだろう?
恐る恐るブランケットをめくると、大きな猫が腹の上に丸まっていた。何故こんな狭いソファにあえて潜り込んでくるのか。僕が体を起こしても、ビスクドールの服を着た猫は眠りこけていた。さすがに二日連続でソファで寝れば、首や肩や背中が痛い。今頃、僕のベッドは黒い猫が独り占めしているのかと思うと、…頭も痛い。
いや、しかし、なんだかんだで朝食まで出してやる自分に、僕は自分で呆れていた。どこまでお人好しなんだ。もくもくと朝食を口に運ぶ少女を眺めて溜息を吐いた。
「先生! ロイ先生、いますか!?」
そこへ、階下から大きな声が聞こえた。僕は少女に部屋にいるよう言って、階下へ降り、医院のドアの鍵を開ける。まだ診療時間前だが、こんな時間に来るということは、急患なんだろう。
「大変です、ロイ先生! 旦那様が…!」
ドアを叩いていたのは、近くの大きな商会の主人に仕える男だった。その主人が急に倒れて、慌てて僕を呼びに来たのだと言う。僕が普段診ている患者は、僕を呼びに来たような下働きの人たちで、大きな屋敷の主のような金持ちは僕みたいな町医者を相手にはしない。だが、男が言うには、主人の主治医は遠く離れた所に住んでいて、今から呼びに行ったのでは遅くなってしまうとのことだった。それで、一番近くに住む医者である僕を呼びに来たのだ。適切な判断だと僕は感心し、すぐに往診用のバッグを掴んで、彼と一緒に屋敷へ向かった。
幸い、屋敷の主人は一命を取り留め、やがてやってきた主人の主治医に申し送りをして僕は医院に帰って来た。
既に医院は始まっている時間で、看護婦のエマが患者たちの受付をしてくれていた。
「ああ、ロイ先生、お帰りなさい」
朝から大変だったでしょう、とエマが僕から往診バッグを受け取って言う。頷きかけて、僕は首を傾げる。その場にいなかったはずのエマが、何故それを知っているのか。
僕の疑問が顔に出ていたのだろう。エマがにっこりと笑って、患者たちには聞こえない小声で言った。
「先生の飼っていらっしゃる可愛い仔猫ちゃんから聞きました。どういうことか、後でじっくり教えてくださいな」
自分の母親ほど年上のエマにそう言われると、僕は黙ってうなずくしかない。あの子には、感謝すべきなのか怒るべきなのか、そしてエマには何と説明すべきか。僕の頭痛の種は増えるばかりだ。
午前の診療を終え、昼の休憩に入ると、待ってましたと言わんばかりにエマが僕に詰め寄る。
「さて、あの可愛い仔猫ちゃんをどこで拾って来たのか、説明してくださいな」
はたから見れば、僕がいたいけな美少女を囲っているようにでも見えるのだろうか。少女には“安心”と言われた僕だが、男の信用などというものは脆いものだと諦念を抱く。
「拾ってないし、ましてや誘拐もしていない。向こうから迷い込んで来たんだ」
「まあ、またそんな」
本当のことを言っているのに、エマは信用する気はないようだ。まあ、僕だって自分がエマの立場なら、たぶん同じ反応を返すだろうが。
「エマは、僕がそんなふうに見えるの?」
「いえ、先生のことは信用していますけれど。でも、あれほど可愛い子なら…」
……見境なく手を出すとでも? 結局信用されていないんだと、ちょっと傷つく。
なーん、と猫の鳴き声がして、黒猫を抱えたビスクドールが部屋に入って来た。相変わらず無表情だが、どこかしおらしい雰囲気を出している。
「…ロイ、ごめんなさい。言いつけ、守らなかった」
部屋にいるようにという僕の言葉を守らなかったことを反省しているらしいが、いろんな意味でバッドタイミングだ。
頭を抱える僕の側に寄って来て、少女はエマを見上げた。
「ロイは、いいひと。悪くない。わたしが、ロイを気に入ったの」
……かばっているつもりなのだとしたら、言葉のチョイスを間違えてるから。
まあ、先生も罪つくりですね、とエマが訳のわからないことを言ってお茶を淹れに席を外したので、部屋には僕と二匹の猫が残された。会話できるほうの猫に話しかける。
「…何故僕の名前を?」
急にロイなんて呼ぶから、余計に話がこんがらがるじゃないか。
「みんな、そう呼んでた」
まあ確かに、みんなに何て呼ばれているか聞いていれば、名前くらいわかるか。
「君の名前は?」
「…………マリー」
小さく答えて少女は猫に顔をうずめた。
「そう、じゃあ、マリー。家はどこ? 送って行くから」
少女は小さく首を振る。
「だいじょうぶ。ひとりで帰れる」
帰らないと言い出すんじゃないかと危惧していたので、意外にあっさり帰ると言われ拍子抜けする。
「でも、この子は飼えない。…ロイ、飼ってくれる?」
やはりこの子の猫ではなく、野良猫だったのか、と頭の片隅で考えて、僕は深く考えもしないでうなずいてしまった。
「うん、いいよ」
「それで、時々会いに来てもいい?」
「うん。じゃあ、この子の名前はマリーが付けてくれるかい?」
少女はこっくりと首を縦に振る。
「今度来る時までに、考えてくる」
ビスクドールの顔に、笑顔らしきものが浮かんだように見えた。