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その名は、いわゆる通り名だと聞いた。
それは、その手にかかった者たちの末路を示す名でもあった。うつ伏せに倒れ込んだ彼らをひっくり返すと、決まって心臓の周りが真っ赤な血で染まっているのだ。
そうして、誰が呼び出したのか、残忍な処刑を繰り返した王女の通り名“ブラッディ・メアリー”を文字ってあだ名された。
メアリー・ブラッド──“血染めのメアリー”。
「…猫…」
それが彼女の第一声であり、僕らの出会いだった。
今日の診察を終え、看護婦のエマが帰ったあと、残務に取り掛かろうと机に向かった時だ。振り向いた僕の目に飛び込んできたのは、開け放たれたドアの向こう、夕暮れ時の空を背に、見事なブロンドの髪をした美少女と、彼女が抱えるぐったりとした猫だった。
「…その猫、どうしたの?」
僕は立ち上がって尋ねた。彼女が首を左右に振る。ブロンドの髪が波打つ。知らない、という意味だろうか。
僕は逡巡した。僕は医師だ。だが、それは人間の。動物のこととなると門外漢だ。とはいえ、彼女はおそらく僕の掲げた看板を見てここへ来たのだろうし、いたいけな少女が大事そうに抱えている猫を放っておくこともできなかった。
何もしないよりはマシだろうと腹を括って、僕は少女へ歩み寄る。
「ちょっと見せて」
少女の腕の中で黒い猫は微動だにしない。濡れているように見える毛に触れると、ひやりと指先に嫌な感覚がまとわりつく。指先を見ると、赤く染まっていた。黒い毛皮で見えなかったのだが、猫は血まみれだったのだ。
誰かにやられたのだろうか。それとも事故だろうか。どちらにしても、重症には違いない。
「…血が、たくさん出ると、死ぬ。人も、猫も…」
僕は目を瞠って、少女を見つめた。
彼女の言うことは、何も間違ったことではないが、このビスクドールのような少女が無表情に口にするには、あまりにも似合わない台詞だった。
僕は少女から猫を受け取り、いくら患者がいない時間帯だからといって、さすがに人間用のベッドに乗せるわけにもいかないので、机の上に布を敷いて猫を寝かせた。傷口を確認しながら止血して薬を塗り、体を包帯で覆ってやる。
その様子を、少女はじっと見ていた。その整った顔に表情らしいものは何一つ浮かんでいないが、きっと猫を心配しているのだろう。
手当を終えた僕は、少女に向き直る。
「これで、傷は大丈夫だと思う。でも、だいぶ弱っているから、今晩は様子を見たほうがいいね。僕が預かるから、君はおうちへお帰り」
少女は、少し逡巡したように僕の顔を見つめ、それから首を横に振った。
「それは、どういう…」
意味なのかと問おうとして、少女の声に遮られる。
「ここに、いる」
「………」
猫を心配する少女の子どもらしい主張は、愛らしいものではあったけれど、それを簡単に許容できるものでもない。
「猫が心配なのはわかるけど、君のおうちの人が心配するだろう? 今日は僕が責任を持って診るから、明日またおいで」
僕は説得を試みる。
「だいじょうぶ。おうちの人は、いない」
「それは……ご家族は留守って意味?」
「ううん。家族は、いない」
「いないって……」
僕は彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。少女は、どう見たって十かそこら。一人でいるには、あまりにも幼い年齢だ。
…とはいえ、この街に親のいない子どもなんていうのは、それほど珍しい存在でもない。産業革命を経て豊かになった国は、その一方で社会の歪とも呼べる存在を作り出していた。その一部がホームレスや夜鷹、そして身寄りのない子どもたちだ。
「……わかった。今晩だけだよ」
何の表情も浮かべていないはずの、サファイアのような青い瞳にじっと見つめ返されて、僕はとうとう根負けした。口数が少ないながら、この子に下町訛りは感じられない。だからと言って、この子が良家の子女ということにはならない。ビスクドールのような質の良い服も、この子の美しい顔が映えるようにあつらえられたのだとしたら…。悪趣味だが、そういう可能性がないわけではなく、このまま追い帰すのも気が引けた。
処置を終えた猫を机から降ろし、ソファの上に布を敷いて寝かせてやる。その隣に少女が座って猫の様子を眺めていた。
僕はその様子を背中に見ながら机に座り、残務処理に取り掛かる。
一段落して、僕は伸びをしながら振り返った。そして、苦笑する。ずっとおとなしかった少女だが、気配さえおとなしくなったと思ったら、そういうことか。
少女は、猫と一緒にソファに丸くなって寝ていた。まるで身を寄せ合う野良猫だ。
僕は溜息と共に笑みを漏らして、ソファに歩み寄る。気持ち良さそうに眠る少女は、僕の気配に気付く様子もなく、すやすやと寝息を立てている。この見た目はビスクドールの少女が、一体どんな事情を抱えているのか知らないし、知ろうとも思わないけれど、せめて今夜くらいは安心して眠れるようにと、少女を抱き上げてベッドに運ぶ。診察用のものだから寝心地は保証できないけど、狭いソファよりはマシだろう。
布団を掛けてやり、「おやすみ」と囁いてソファに戻る。ソファで丸まる猫に、おまえのせいで今日は徹夜だ、と心の中で文句を言ってソファに座った。
翌朝、僕は出勤してきた看護婦のエマの甲高い声で起こされた。
「んまあ、先生! こんなところで寝て、野良猫にベッドを与えるなんて、お人好しにもほどがあります!」
寝ぼけた頭で、何のことだと思いつつ体を起こすと、狭いソファから転げ落ちそうになり、昨日ソファで寝てしまったのかと気付く。体にはブランケットが掛かっている。僕の足のほうにいたはずの猫の姿はない。
「まったく、野良猫なんて連れ込んで。何の得にもなりゃしないんですよ!」
確かにあの少女は野良猫っぽいけど、そこまで言わなくても…。それに第一、注意すべきことは他にもあるだろう。そう思いながら僕はソファを立ち、エマがしきりに文句を言っているベッドに近付く。
そこに、少女の姿はなかった。代わりに、僕がいたソファで寝ていたはずの猫が丸まっていた。そこでやっとエマの言葉の意味を理解し、それから、きっと少女の仕業だろうと察した。少女では、眠ってしまった僕をベッドに運ぶことはできない。だからせめてソファで横になれるようにと猫を移動したのだろう。
辺りを見回しても、少女の姿はない。エマの様子からしても、少女を見てはいないのだろう。夜が明けきらぬうちに抜け出したのか。
小言を呟きながら掃除を始めたエマに促されてベッドから猫を抱き上げる。すると、猫が眠っていた布の下からいくつかの銀貨が出て来た。その枚数を数えて、首をひねる。きっと銀貨はあの少女が猫の治療費のつもりで置いて行ったのだろうとは思った。だが、それにしても、枚数が多い。人間の治療費としても多いし、ましてや専門外の猫の治療費としてこれほどもらってしまったら、僕はとんだヤブ医者だ。
第一、あの少女がこれほどの額を持ち合わせていたことにも疑問を抱く。身なりは良かったが、親を早くに亡くしたお嬢様というには、少々違和感のある少女だった。いいところの子なら、供の者を連れているだろうし。本当に、謎の少女だ。