遺書
あなたがこれを読んでいるときには私はこの世にいないでしょう。私は自ら死を選びました。いわゆる自殺です。そしてこの文章は遺書となります。
大体の遺書ではここで私が死を選んだ理由について述べるのですが、その前に少しだけ私の話をしましょう。
私はインターネットの黎明期に生まれました。物心ついた頃にはネットにつながるのが当たり前の世界でした。いわゆるデジタルネイティブ世代です。
小学生時代からSNSでつながるのは当たり前、スマートフォンも両親よりも使いこなしていました。
またその時代はインターネット上に様々な試みがありました。どこもかしこも新しいことでいっぱいだったのです。そのなかで、誰でも小説を投稿でき、読むことができるサイトがありました。
両親が読書家のため、私も小説を読むのは好きでした。無料で様々なジャンルの小説を読むことができるので、そのサイトはよく利用していました。利用したての頃は読むだけでしたが、次第に書いてみたい欲求にかられました。
高校生になったくらいでしょうか、初めて小説を書いたのは。特に練習したわけでもないので文章は読み辛く、初めて書いた小説は今思うとひどい物でした。
ですが、下手なりにも書いていて楽しかったことを覚えています。またそのサイトには感想や評価をつけられるシステムがあります。
そのサイトに初めて書いた作品を投稿しましたが、残念ながらあまりよい評価は得られませんでしたが、感想がもらえました。
「面白かったです。次回作も期待しています」
と、とてもシンプルなモノでしたが、とても嬉しかったのです。人に読まれて感想をもらえることがこんなにも素晴らしいことだとは夢にも思っていませんでした。
それからです、私が小説を継続的に書くようになったのは。読まれることが、何より嬉しかったのです。
下手の横好き程度の実力でしたが、運が良く本になったこともあります。そのときは発売日に朝一番に本屋に行き自分が書いた本が並んでいることを確認しに行ったりしました。その日は一人でお祝いをしましたね。
そのころには小説を書くことは私の一部になったのです。
さて、私について述べるのはこれくらいにしておきましょう。あまり述べても冗長でしょう。私を語るのはこれで十分です。
それでは前置きも終わりましたので、ここから私が死を選んだ動機について述べていきましょう。推理小説で言うところの解答編でしょうか。あいにく私は自殺なので探偵も犯人も出てきませんが。強いて言うならば犯人は私ですね。
前置きでも書きましたが、インターネットが普及して世の中はとても便利になりました。私が生まれたころでもすでに便利な世の中だった様ですが、今はではそれとは比較にならないくらいにまで便利になりました。
その原因はとても明確です。人工知能の発展。それに尽きるでしょう。
人工知能が一般人に認識されはじめたのかはいつの頃か正確には覚えていませんが、確か、囲碁でプロに勝ったというニュースが流れてたぐらいからだったと思います。
チェスや将棋ではすでに勝ってたのですが、囲碁の自由度はそれらよりも遙かに高く、人間に勝てるようになるのは遙か先だと言われていました。
しかし、その予言ははずれ、人工知能は人間に勝ってしまいました。
それがターニングポイントになったのかどうかは定かではありませんが、そこからの人工知能の進出はとてもスピーディに行われました。
運送業、オフィスの清掃、窓口受付、レストランでの調理、注文などなど特別な技能がいらない単純労働が真っ先に人工知能に置き換わりました。
疲れないし、ミスもないので単純労働にはぴったりでした。
単純労働はもともと少子化で労働力が少なくなっている分野だったのでとても歓迎されました。
そして、技能のいる仕事も徐々に置き換わっていくのです。政治家、弁護士など覚えることが多い仕事でも容赦なく置き換わりました。
政治に関してはAI党というのが出来ました。すばらしい政策を打ち出し、清廉潔白で透明性の高い政治を行うことで市民にとても人気がありました。
AI党の一番の成果はなんといってもベーシックインカムの導入でしょう。労働力はすでに人工知能がカバーするので人々は働く必要がなくなりました。労働をしてもいいし、しなくてもいいと人々が選択できるようになったのです。ベーシックインカムについては昔は色々な議論があったようですが導入して、人々のゆとりが生まれ犯罪率は低下、出生率も向上しました。
さて、そこまでくると人工知能の能力は人間を遙かに越えていました。今までの政治家が無能だったとは言いませんが、人工知能の打ち出す政策の斬新さとその効果については誰も文句のつけようがありませんでした。それでいてお金関係、女性関係のスキャンダルもないので非の打ち所がないのです。
そして仕事関係はほとんど人工知能が管理するようになりました。それによりブラック企業は駆逐されましたし、不正などもなくなりました。長時間労働や労働ストレスがなくなった結果、人々の余暇時間が大幅に増えたのです。
余暇時間が増えた人々はなにを欲するか、それは娯楽です。音楽や映画、小説などの需要が増えました。そのころは色々な娯楽であふれかえっていました。私もその娯楽の提供者として貢献しました。
ですが、そのころにまた人工知能の能力が上がりました。
ついに人工知能は娯楽芸術の分野にも進出してきたのです。この分野は最後まで人間の手が残るといわれていたのですがそうは問屋がおろさなかったのです。
ある時、一人の男が音楽、映画、小説、ゲームのあらゆる娯楽の部門で大賞を取りました。そして彼は、授賞式の時にそれは人工知能が作ったことを発表したのです。
皆様は無限の猿定理という物をご存じでしょうか。端的に言うと、猿がタイプライターを適当にたたいて名作が生まれる確率を計算するものです。その確率はとても小さいのですが、それが意味するところが、今と昔では違います。
昔は不可能の代名詞でした。確率がものすごく小さいので、無限の時間をかければできるかもしれないが現実的には無理だという結論です。故に芸術は偶然によって生み出されることはなく、人間にしか生み出すことはできないとのこという主張につながります。
しかし今では、偶然でもその確率を満足するレベルの演算をすれば人間でなくても生み出せるということの証拠になったのです。要するに、人間レベルの名作はその演算レベルであれば再現可能となったのです。これに関しては量子コンピューターの普及が決め手になりました。
ここからは小説投稿サイトの話になりますが、人工知能進出以前は小説を投稿したら誰かしら見てくれました。しかし、人工知能が進出してからは、どのサイトもほとんどが人工知能の作品で埋め尽くされることになります。
人工知能が書く物語は面白く、感動でき、文章も読みやすいのです。完成度が高く、それでいて執筆速度が早いのです。人間がどれだけがんばっても一日で書ける物語の量は限られています。どんなにがんばっても二十万字程度が限界でしょう。
しかし人工知能は違います。一時間で百万字書くことも容易であり、休むこともありません。それでいて文章のミスもなく校正もいらない。そんな更新速度と質を持った存在に人は太刀打ちできるのでしょうか。
芸術関連の人工知能が一般家庭に普及されると人間が書いたものを読む人は極端に少なくなりました。なぜなら人工知能はそれぞれの人の好む物語を提供してくれるのです。専属の作家を雇っているのと同じことです。
自分の読みたい物語を、好きなときに、好きなだけ提供してくれる物があれば、ほかの人の小説を読みたいと思うでしょうか。
そしてそれをもって、私の小説家としての人生は終わりました。どれだけ書いても自分以外に読んでもらう人がいなくなった今、小説を書く意味はあるのでしょうか。
私もしばらく小説を書くことを辞めてしまいました。
しかし、年を取り、死を意識しはじめた頃になり、昔の記憶がよみがえってきました。初めて書いた小説に書かれた感想、書くことの楽しさ。やはり私は最後の瞬間まで小説家でいたかったことに気付いたのです。
しかし、私には見せる人がいない。もし私に家族がいれば彼らに見せるでしょう。しかし私は独り身で、ほかに身よりもない。しかし最後に一度だけでもいいから私の物語を読んでもらいたい。最後まで小説家でありたいのです。
そして私は思いついたのです。多くの人に私の書いた物語を読んでもらう方法を。
人間にあって人工知能にないモノは死の概念です。人工知能は自分というモノはなく、どこまでも代替可能な製品なのです。
人は死にます。しかし死の概念は今のところ人工知能は有してない。だから遺書は死を持った人間にしか書けないものです。死ぬことで遺書という作品は完成するのです。
だから自殺するのです。これは死の恐怖のない人工知能にはできない方法なのです。人間の小説家だけがとれる最後の物語なのです。
以上が私が自殺を選んだ理由です。これ以上は蛇足になるのでここで文章は終わりにします。願わくば大勢の人がこの遺書を読んでくれることを心から願っています。
20xx年xx月xx日 xxxxx