孤独な身の置き所
ジュベータは中年上司チラヴァ氏のタバコ臭い口から全力で顔をそむけたけれど、唇の先が、ちょっと、生暖かい何かに、当たってしまった。首筋におぞ気が走り、
「ふぃぃぃ」
と声にならない悲鳴をあげ、涙がにじみ出たその時。チラヴァ氏の背後に人の気配が近づいた。さすがにチラヴァ氏も手を放す。ジュベータは恥ずかしさに身を縮めて目のふちを拭った。
「女」
と呼ばれる。近づいてきた男は、王城内でよく見かける近衛兵付きの軍服だった。厳しい目で見下ろされ、ジュベータはますます震え上がる。
「向こうで探していたぞ。早く仕事に戻れ」
助かった。さっと小さなお辞儀をするなり、ジュベータは王城の建物へ向かって駆け出した。が、チラヴァさんがついてきたらどうしよう。建物の入り口で振り返ったが、チラヴァ氏も軍服の男も見えない、とりあえず、逃げられた。良かった。でもまだ心臓が体の中で踊りまわっているみたい。
ジュベータは与えられた宿舎の相部屋に速足で戻ると、扉を閉めるなり、改めて
「ひぃぃぃぃ」
と声に出しながら頭を抱えてしゃがみこんだ。やっかいな人に、こともあろうに結婚を申し込まれて、挙句の果てに抱きしめられて、く、くちびるを…
大急ぎで顔を洗い、口を漱ぎなおす。
どうしよう。お断りしたことが伝わったような気がしない。これからはチラヴァさんに付きまとわれるのだろうか。もう一度会って正式にお断りするべきかもしれない。一人で会うのは論外だけど、付き添ってくれるような人は?
誰もいない。
同僚とは親しくないし、直属の上司のミルチエ夫人は、むしろチラヴァ氏を後押ししかねない。いつだって
「まだ結婚する気になれないのかしら。そうやってえり好みできるのは若いうちだけですよ」
みたいな嫌味をいう人だ。えり好みどころか、ジュベータは男性から好意を寄せられたことなんて一度もない。いや、唯一好意を寄せてくれた男性がチラヴァさんということになるわけだ。惨めすぎてまた涙が零れ落ちた。
さっき「早く仕事に戻れ」って言った軍人もジュベータを軽蔑したように見ていた。仕事をさぼって中年男と逢引するような女、と思ったのに違いない。このまま、チラヴァ氏と裏庭で抱き合っていたって噂になったら、下品どころの話じゃない。自主退職ではなく馘首ものだ。チラヴァ氏が責任を取って結婚しますって言いだしたりしたら、他に行くあてのない自分は、あの男と
「駄目ダメダメだめ」
ジュベータは髪を振り乱してつぶやいた。
食事が喉を通らなくても、眠れなくても、それでも仕事は続けなくてはならない。翌朝、ジュベータは頭がズキズキと痛むのをこらえながら持ち場である翼棟のリネン室へ出勤した。ベッドメイクするメイドたちが仕事を始める前に、リネン類をチェックして仕分けしておく。誰か一人は早朝からリネン室に待機するのが王城の習わしになっている。人目につかぬようにシーツを交換したいという事情は、ままあるものだ。
リネン室の鍵を開けて仕事を始めると、すぐに、控えめにノックの音。
「どうぞ」
ドアを開けたのは黒い軍服。ジェベータの呼吸が止まった。昨日の男だった。
「交換頼む」
丸めたシーツを突き出した男は、ジェベータに気づいて眉を挙げた。
ジェベータはどうすればいいかわからないまま、機械的に受け取ったシーツを洗濯行きの籠に収め、戸棚から代わりのシーツを選び出した。これ、主人用の品だ。仕事で来ただけだろう。
「昨日は」
「は、はいぃッ」
ふいに話しかけられて飛び上がりそうになる。
「昨日の男には釘を刺しておいた。面倒にはなるまい」
「え、あの、それは」
チラヴァさんのことですよね?と確認したい一方で話したくない気持ちもあり、ジュベータは口ごもる。
「あの、昨日は休みで、仕事中ではなく」
なんだか変なことを言っている気がする。
男はジュベータの顔をじろじろ眺めると
「確認するが、嫌がってた、な?」
「え?ええ、あの、嫌だったんですが、大事な話だからちょっとだけと」
つまり逢引きしているようには見えなかったから助けてくれて、そのうえ相手に注意もしてくれたということだろうか?ジュベータの全身が安堵感にゆるんだ。この人、紳士だ。神の使いだ。
「ご迷惑をおかけしまして誠に申し訳ありませんでした」
最敬礼。そのまま新しいシーツを差し出した。
「大事な話?そんな見え透いた手口に乗るな。馬鹿で、いやその、女なら当然の注意だ」
「すみません。今後はか、改善いたします。」
頭を下げたまま、情けない思いで答える。働き始めたころはまだ子供だったし、娘盛りの十七、八のころですら女としての危険を感じたことなど一度もなかった。死んだ父も、職場の誰からも、ジュベータに注意を促す必要を感じなかったに違いない。その結果、嫁ぎ遅れといわれる今になってこんな叱責を受けることになるとは。
男は
「おう」
というような声をだすとシーツを受け取って出て行った。ジュベータは床にへたり込んだ。とりあえず、首はつながったけど、チラヴァさんともさっきの男とも、二度と顔をあわせたくない。誰も知らないところへいってしまえたらいいのに。しかし彼女にはここしかいられる場所はないのだった。