再び河口亭へ
空はまだ明るいが、周囲の建物に明かりがぽつぽつと灯され始めていて、その周りだけかえって宵闇が濃さをますように見える。テペシさんにとジュベーダは、春に歩いた道を逆にたどって「フロスの河口亭」に向かった。魚を焼く香ばしいにおいが漂ってきて、ジュベータは急にお腹が空いていることを思い出した。入り口をくぐると、店のお内儀は、すぐテペシさんに気づいて
「旦那さん、いらっしゃいませ、あれ、いつかのお嬢さんも」
と挨拶する。テペシさんは
「おう、なんかすぐ食えるもの頼む」
と軽く答え、ジュベータはお久しぶりと答えていいものかどうか迷ったあげく、黙って頭を下げた。テペシさんはテーブルにつくと、ジュベータを向かいにすわらせるなり
「今日は奢りだからな」
と睨みつけるように宣言した。
「あ、はい、申し訳ありません、あの、遠慮なくご馳走になります」
ジュベータが素直に恐縮していると、チーズと黒パンと薄く切った冷肉の皿が出てきた。
「よし、酒の前にまずは食え。すきっ腹に飲むとぶっ倒れる」
ジュベータは内心恐れをなし、パンに具をのせて一生懸命口に運んだ。でもすぐにテペシさんがエールを注文し、
「こっちのお嬢さんにはジョッキ半分で」
というので、酒を飲む飲むというのはどうやら冗談交じりなのではないかと思い至った。口の中のものを飲み下だして、
「テペシさん」
と呼びかける。
「何か食いたいものがあるのか」
「あ、いいえ、あの、そうじゃなく、鯰は」
「夏場はやらない。揚げ物は、暑い」
テペシさんが厨房のほうを示して答えた。
「そうか、おいしいけど、作る人は大変なんですね」
「んじゃおすすめでいいか。おすすめ二人分」
話がそれてしまった。
「あの、テペシさん、ジョッキ半分というのは、酔うのでしょうか」
テペシさんはちょっと黒パンを噛んで考えて、
「人による。酒を飲んだことくらいないか」
「ワインなら、少し、あります」
「エールはワインよりかなり弱い」
「あ、それなら、多分、飲めます。大丈夫です」
「まあ、無理せずに、少しづつだな」
店の小僧さんがジョッキを運んできた。テペシさんが片手で少しこちらに掲げて見せるのを真似てジュベータも不器用に持ち上げる。初めて飲んだエールは想像したほど苦くはなかった。
「エールの、おいしさはまだその、よくわかりませんけど、ワインより飲みやすいです」
「しっかり食いながらにしろよ」
パンの皿は空になったので、料理が来るまで手持ち無沙汰になってしまった。ジュベータはこっそり膝の上で指をひねくった。何か話さないと。
テペシさんはポケットから、すみれ色の封筒を取り出して、ジュベータに向けて卓に置いた。さきほどのリーリアからの手紙だ。
「ありがとうございます」
今度は、落ち着いて受け取る。続いて掌くらいの大きさの花模様の紙包みを渡される。
「これも。薬草茶だと」
「あ、<キロン>のお茶ですね」
ジュベータは見覚えのある紙包みを取り上げて眺めた。王城の近くにあるこの老舗薬草店は、上は貴族の奥方から下はメイドに至るまで、王城の女性たちに大変人気がある。ジュベータにしても、店舗を訪れたことこそないが、誰かからのおすそ分けにあすかったことは何度となくあった。王城に勤め始めたころ、年嵩の侍女たちがやりとりしているこのかわいらしい花模様の包みをうらやましく思ったものだが、実際飲んでみるとかわいらしさのかけらもない風味で、がっかりしたことを覚えている。もちろん身体にはいい、らしい。
「恋心ときめくジャスミンティー、ですって」
ジュベータは包みに押印された商品名を読み上げる。
「ずいぶん薬臭い味だったが」
テペシさんは眉根を寄せて言った。それはつまりテペシさんも飲んだ、ということだ。リーリアと一緒に<キロン>へ行かれたのかしら、と考えたところに、ちょうど料理が運ばれてきたので、あわてて卓のうえをかたづける。
河口亭の今日のおすすめは、豆の総菜と魚、初夏の野菜類だった。ほんの一切れだけ添えられた黄色い卵焼きがひときわ色鮮やかだ。料理を見て物足りないと思ったのか、テペシさんが、腸詰を追加で注文し、そのまま二人とも料理を口に運ぶことに集中して、会話が途絶えた。王城やリーリアのことについて話すのは、やっぱり今日は気づまりだから、ジュベータにとっては好都合だ。ところが料理を食べていると、思わずジュベータの口から賛美の言葉があふれ出てしまった。
「この、お豆、すごいです」
「何?」
「酸っぱいのに、すごくおいしい」
ジュベータは感動に震えて目をつぶった。
「ああ、こういうのは王都では食わんのか。俺の方では暑くなると何かにつけて酢漬けの物ばっかりだが」
「お豆で酸っぱいのは珍しい、と思います」
「追加で注文するか?」
「あ、いや、そこまでは、食べられません」