町に暮らす
その日もジュベータの仕事は散々だった。ここ三日ほどは、下宿の近所の煙草屋の爺さんが亡くなって廃業するので、別居していた息子夫婦から店を片付ける仕事をを任された、というか押し付けられたといってもいい。最初は息子夫婦をジュペータが手伝う、という話だったのだが、表の店から片付け始めて、金目の物を引き揚げてしまうと何やかやと理由をつけて夫婦の足が遠のいて、裏側の水回りにたどり着いた今日からはジュペータ一人体制になってしまったからだ。この台所が地獄のように穢れている。タバコの匂いに交じって強烈な腐敗臭がするので、鼻と口を布で覆って汗だくになりながら臭いの素を探してみると、戸棚の後ろの壁との隙間に、爺さんがおそらく半月ほど前、死ぬ直前に購入したらしい生肉がなぜか落ちていて蛆虫の塊になっているのを見つけた。さすがに腹に据えかねて、石炭を掬うショベルで持ち上げると、目の前の運河に走って放り込んでやった。普段は見かけない大きな魚がわらわら集まってきてあっというまに飲み込んでくれたので、ジュベータはちょっとすっきりしたが、そばに停泊していた艀のお内儀から口汚く罵られ、煙草屋内に逃げ帰る破目になった。
そのあとはずっと流しを覆った半透明のぶよぶよした汚れを掻き取っていたのだが、おかげで食欲がまるっきり失せた。昼食を食べないうちに大家が様子を見に来て、ジュベータのせいで排水管が詰まると文句を言われて、また作業が遅れた。夕方、ジュベータはすっかりくたびれ切って前掛けを外して丸め、預かった鍵でのろのろと戸締りをした。明日は二階だ。不気味な汁がこびりついた前掛けは焼き捨ててしまいたいが、そうすると明日以降に差し支える。下宿で熱湯をもらって洗おう。15分ほど歩いた下宿につくころには初夏の陽が傾き、路地一面に西日が照り付け、ジュベータの額には汗がにじみでて、髪の毛が貼りついた。
日暮れの路地のあちこちには椅子や台が持ち出されて、子供が遊んでいたり、男たちが夕食前にちょっと一杯飲み始めたりしている。ジュベータの下宿の戸口の脇では、黒い上着の袖をまくった男が、台に腰かけてタバコをふかしていた。
「おう」
テペシさんだった。ジュペータはなんだか急にずっしりと体が重くなったような気がした。顔の汗をぬぐう。どうしてこの人は私がここ三年間で最も汚い恰好をしているときに限ってやってきたりするんだろう。
「あ、あのテペシさん、ご機嫌よう、あの、どうなさったんですか」
「リーリアに頼まれて来た」
「リーリアが?」
テペシさんはタバコを置いて立ち上がると、胸の内ポケットから、上品な菫色の封筒を取り出した。百合の花を象った金色の封蝋、細いペンで書かれた文字。気のせいか、かすかに花の香まで漂ってくるような。受け取ろうと伸ばしたジュベータの手は荒れ、爪の周囲には黒い汚れがこびり付いている。ジュベータは躊躇った。
「ごめんなさい、ちょっと、手が汚いので」
断りながら、鼻の奥がつんとなって、惨めさに涙があふれだしそうになるのを懸命にこらえた。顔をそむけて目をぎゅっとつぶる。テペシさんは封筒を持った手を下して黙っていたが、ジュペータがもう一度
「すみません、突然、お見苦しいところを」
と頭を下げると、ジュベータの背中をぱんと軽く平手で叩いて
「おう、しゃんとしろ。今から飲みにいくぞ。顔あらって来い」
ジュペータは驚いて思わず涙に汚れた顔を上げた。
「え、飲みって、何ですか、そんな」
「たまには構わんだろう。15分で出かける。急げ」
反論を許さない口調に、ジュベータは小走りに自室へ駆けあがった。
何を着て行ったらいいのだろう。仕事用のブラウスとスカートを脱いで石鹸で顔と手を洗いながら大慌てで考える。一枚切りの外出着は大仰だし、第一暑すぎる。洗濯したばかりの普段着を着て、髪を結い直す時間がないからさっと櫛を入れ、ヒールのある靴を履くうちに、さっきまでのくさくさした気分は大分晴れてきた。
階下に降りると、テペシさんと下宿の小母さんがいた。
「すみません、お待たせしました」
「おう、今日の晩飯はいらないって、話をしておいた」
小母さんも、にこにこして
「たまには気晴らしもいいねえ。遅くならないうちにお帰りなさいよ」
というので、ジュベータはほっとした。男と二人で夜に出かけるなんてと、咎められるのではないかと内心ちょっぴり危惧していたのだ。
「行くぞ」
テペシさんは平然と歩いていく。考えてみればリーリアなんかは男の人と二人きりで出かけることをなんとも思っていないみたいだった。そのかわり特別に親しく見える相手はいない。美人はその辺のふるまい方は慣れたものなのだろう。ジュベータにとっては、二人で出かけた経験といえばテペシさんしかいないので、特別に親しい相手ということになってしまうけど。ジュベータは大きく息を吸っって前を行くテペシさんのの背中を見た。テペシさんは紳士だから、ジュベータが困っているところを見ると、見過ごしたりできないに違いない。いつだって、テペシさんは助けてくれた。けれどもそれは、女性に対する態度というよりも、なんというか、子供扱いだと思う。