行く春
翌朝、ジュベータは、リネン室に先に来ていたリーリアと顔をあわせたが、自分の心配事に気をとられ、リーリアが唇を結んで妙に不機嫌になっていることに気が付かなかった。ミカエラが
「あ、リーリアさん、昨夜はどうでした?楽しかったですか?」
と問いかけると
「まあ、料理は悪くなかったけど」
「どこに行ったんですか」
「鐘楼下の<ポモーナ>よ、あのね、でも、もう二度と会わないから」
「え、何かあったんですか」
「あの人と私では家柄も育ちも違いすぎたの。それだけよ」
「えー、そうなんですか。コルムさんあんなに格好いいのにー」
「ミカエラ、もう一度その名前を言ったら、次は怒るわよ」
リネン室は静まり返った。
一方、母の叔母が嫁いだ男爵家に宛てて、ジュペータが苦心して書き送った手紙への返信は、10日経っても届かなかった。気をもむうちに春の花はつぎつぎと散って、ジュペータは退職の覚悟を固めざるをえなかった。手元にある財産は、現金の蓄えが、少し。死んだ母の遺した宝石類が少し。あとは櫃一竿分の衣装。ミルチエ夫人からは、次の就職先に対する紹介状を書いてもらう約束をとりつけた。
後任の侍女は他の棟のリネン室からまわってくる予定で、特に申し送りの必要もない。リーリアとミカエラにも、とうとう事情を説明することにした。
「あの、リーリア、ミカエラ、私月末で退職することになって」
「嘘、結婚するの?」
「いや、違います、単純に契約切れで」
「えーっと、ジュベータさんは家族いないって言ってましたよね、どこに帰るんですか」
「何か、こう、住み込みで、仕事をするしかないかと」
「何かって?」
「家庭教師とか家政婦とか」
「あなた学校ろくに通ってないし、家事も料理もできないでしょう」
「じゃ、じゃあメイドとか、お針子とか」
「王城で侍女やってました、っていう経歴が逆効果になりそうね」
「経験なしで20歳超えてると、あんまり採用したくない、って思う人が多いみたいですよ」
「はあ」
「どこか当てがあるのよね?」
「いえ、私、あまり知り合いがいなくて」
「元の同僚で、どこかの奥様になってて、雇ってくれそうな人がいるんじゃないですか」
「ない、です、誰がどこへお嫁にいったとか、全然聞いてません」
リーリアはうめき声をあげた。
「大丈夫ですよ、いざとなったら、結婚しちゃえば。中年で未婚の人とか、寡夫が相手なら簡単ですよ」
「ミカエラ、ちょっと言い過ぎよ…」
「あの、ミカエラ、リーリア。私、考えたんですが、私、家族がいないっていうことは、家族のためを考えなくてもいいんですよ。自分で好きに決められるんです。だから、これだけは決めました。好きじゃない相手との結婚はしません。死んだ母もそれで、苦労してましたから。あの、でもそれ以外はまだ決めてません。できる仕事をがんばります」
リーリアとミカエラは、ジュベータに返す言葉がみつからなかった。
「それで、あの、教えていただきたいんですけど、王城を出るときに、荷物を持出さないといけなくって、こんなぐらいの大きなカバンって、どこで売ってるんでしょう」
「あきれた。そこから、もうわからないの?」
「大きいものは運送屋さんを頼めば送ってもらえますよ」
「送り先はどこにするのよ」
「うーん、宿屋か下宿屋、どうですか?」
「住み込み先が見つかるまではそうするしかないわね」
「あの、あまり、お金がかかるのは…」
「ということは下宿なのかしら」
「そのへんは想像がつかないです」
「宿なら平民が泊まれる有名なところはわかるけど」
「あ、こないだ婚約者の家族が王都に出てきたとき」
「待って、ミカエラ、そちらのご親戚は、確か、その財産家なのでは」
「でも気取らない人たちなんで、そんなに高級なところじゃないですって」
「例えば、宿を紹介する、お店みたいなものは、ない、ですか」
「あなた一人で行ったらかえって危ない気がするわ」
リーリアとミカエラに話すと、とたんに物事が具体的になった気がして、ジュベータは内心で震えを感じた。それでも、わからないことを二人に尋ね続けた。どんなに不安でも、私は、ここを出るしかない。王城は父と継母に閉じ込められた、見た目の綺麗な檻だった。とっくに成人したにもかかわらず、子供のように、同じ暮らしがずっと続くと信じ切っていた。誰にも心を開かなかったせいで、根っこの細すぎる木みたいに、ひょろひょろの心で育ってしまった。これから私は思い切って、自分を見せよう。そうしないと、きっと倒れる。