○俺の話 5.天井に向かって泣いた夜
『死ぬ気でやればできる』なんて言葉を聞いたことがある。だけど、それは嘘だと俺は知った。
血だ。俺の体はゴブリンの返り血で一杯だ。ゴブリンの左肩から噴き出た血を浴びた。
俺は死ぬ気で戦った。相手のゴブリンも死ぬ気で戦った。
お互い死ぬ気で戦った。幸運なことに俺が生き残った。勝因はバックラーを俺が持っていたからだ。
死ぬ気で戦った俺は生き残り、死ぬ気で戦ったゴブリンは死んだ。
お互いが殺す目的で戦ったのだから、どちらかが死ぬのは当然だ。
『死ぬ気でやればできる』
いや、死ぬときは死ぬ。『死ぬ気でやればできる』は、死なない前提での話だった。今の俺の状況では当てはまらない。
俺も、ゴブリンも死にたくはなかった。
トドメは、逃げようとして背中を向けたゴブリンに向かって、思いっきり剣を突き刺した。無我夢中で分からなかったけど、どうやらそれがゴブリンの肋骨を突き抜けて、そして致命傷となったらしい。
警戒をしながら泉で体を洗った。まるで書道の片付けのようだった。硯の墨が水に交わらずに洗面台に流れていくように、泉へと真っ赤な血が流されていく。
先に、水を飲んでおけば良かった。あれほど水を飲んだというのに、また喉が渇いた。だけど、この泉から飲む気になれない。目に見えない泉の水流にそって、紅い線が何処かへ流されていく。
水洗いしてたっぷりと水を吸った服や装備は重かった。
……そうだ。討伐した証明として、耳を切って持っていかなければならないんだ。俺は、左手の親指と人差し指でゴブリンの耳を引っ張り、そして右手に持った剣で耳の根元を切断した。
黄緑色の耳。形も特徴的だ。間違い無くゴブリンだと分かるのだろう。
・
街まで帰り、そして冒険者組合に辿り着いたころは、もう夕方だった。脚が重かった。筋肉が痛い。
余裕があれば、この筋肉痛がゲームで言うレベルアップということなんだな、と冗談でも言いたいが、そんな気力もない。そして、そんなことを言う相手もいない。
「ゴブリンを一匹討伐してきた。これが証拠だ」
俺は、受付であるヨーク・ラートの前のカウンターにゴブリンの耳を置いた。
「おいおい。受付台は、ゴミ置き場じゃないぞ?」
俺には意味が分からなかった。
「いえ。ゴブリンの討伐を証明するための耳ですが……」
「は?」とヨーク・ラートは首を傾げている。
「え? 依頼書に、討伐した証明としてゴブリンの耳を冒険者組合に提示するようにと書いてありましたよね?」
俺は騙されたのだろうか。
「あぁ。そういうことか。依頼書を見てこい。右耳って書いてあるだろう?」
俺が切り取った耳は、ゴブリンの左耳だった。
「でも、本当に討伐したんです!」
「そうだろうな。お前が嘘を言っていないのは目を見れば分かる。だけどな、規則は規則なんだ。悪いな」
俺が大声を出してしまったノに対して、ヨーク・ラートの声は静かだった。どうにもならないということをそれが示していた。
「だが……組合とは関係なく、個人的に祝ってやろう」
「ど、どういうことですか?」
「いや……余計なお世話かもしれないけどよ。報酬は出せないが、お前は初陣で生き残った。祝いに酒を一杯奢ってやろうと思ってな。飲むか?」
酒? この世界では俺ぐらいの年齢でも酒を飲んで良いのだろうか?
結論としては、良いらしい。
「戴きます」
その酒は苦かった。
冒険者として駆け出しで、一人でゴブリンを倒す。
この段階で、十人に一人は命を落とすらしい。報酬は出なかったが、生き残れて、そして経験を積めたことを喜べと、この人は言いたいのだろう。顔をしかめながらカウンターでその酒を飲む俺に、優しく語ってくれた。
・
ゆっくりと、ジョッキの酒を飲み干し、そして俺は宿に帰った。装備を脱いだ。ベッドに横になり、天井を見つめる。
この世界に来たこと。俺は後悔してはいない。後悔はしてない。俺がこの世界で生きることに意味がある。
後悔はしてない。
だけど、なんだか涙が出来ていた。寂しいし、口惜しいし、恐かった。ヨーク・ラートが奢ってくれた酒だって苦かった。でも、旨かった気がする。成人して、いつか俺もビールを飲んだかも知れない。きっと、ビールを飲んだときの感想も、苦いという感想しかでないのかも知れない。
だけど、今日も俺は生きて、そして眠れる。明日がある。
俺は、天井に向かって泣いた。