●僕の話 3.Cry on Shoulder
ジメジメした夏だ。高い湿度と温度が常に皮膚に纏わり付いている。冷房の効いた部屋で夏休みの宿題を終わらせていても、皮膚に纏わり付いた感覚が離れない。
高校の全ての教室に冷房があるという分けではないけれど、自習室として解放されている教室と図書館には冷房がある。
解放されている自習室というのは中庭に立てられた建物だ。どうやら、2年前にこの高校の野球部が、22世紀枠という特別な枠で甲子園に初出場を果たした際に集まった寄付金の残りで立てられた建物らしい。文武両道ということを学校側がアピールしたのだろう。
「席、埋まってるね」と詩織が教室を見渡して言った。教室を占めているのは、受験を控えた3年生だろう。夏休みの追い込みということだろうか。机の上に赤本を置いている学生が多い。
「図書館に行こう」と僕は言った。
もしかしたら模試が近いから勉強をしている人が多いのかもしれないと僕は思いながら図書館に向かった。
夏休みが始まってから、図書館で勉強をするのは初めてだった。
図書館はグランドに面しており、グランドで部活をしている人のかけ声などで騒がしいのだ。図書館の外の音で気が散ってしまうというのは集中力が足りたい、と言われればそれまでかもしれない。
だが、野球部もそこで部活をしている。金属バットがボールとぶつかる音も響くのだ。
あの日、健二は詩織に告白をしたのは知っている。だが、僕は結果がどうなったのかを知らない。
ただ、詩織と健二が付き合っていないというのは確実だとは思う。なぜなら、詩織は弁当を俺に渡してくるからだ。結局、俺と健二で食べているが、付き合ったのなら、健二に渡すだろう。
詩織は、返事を保留したのだろうか。それとも断ったのだろうか。
僕は、その答えを知らない。グランドに背を向けている椅子に座り、鞄にしまってる教科書とノートを広げる。詩織は苦手な数学から始めるようだ。僕は、英語と歴史のどちらから始めようか迷った挙げ句、歴史から勉強することにした。
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詩織が病院に行く時間になったので、僕等は勉強を切り上げた。野球部は昼休みを挟んでもまだ練習をしていた。
「何を考えてるの?」と空を見上げながら正門へと歩いていた僕に詩織が話しかけた。
「海、行きたいなぁって」
雲一つない空で、薄い青色がずっと広がっている。天地を逆さまにしたらそれは海と同じなのかもしれない。
「今日、お医者様に聞いてみようかな? 流石に海に入るのは駄目だろうけど、砂浜を歩くくらいだったら良いかもしれない」
詩織は、小学生の頃から水泳の授業は見学している。泳いだこともないかもしれない。
「あぁ。じゃあ、また」
僕と詩織は正門で別れた。病院と僕等の家の方向が違う。そして、僕は先に、晩ご飯の食材を買っておく必要がある。今日はオムライスにしようと思った。冷凍のエビがまだ冷凍庫に入っていたはずだ。ただ、ケチャップが残り少なかった気がした。
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僕が冷凍エビを自然解凍しようと冷凍庫から取り出し、キッチンの上に置いたときに家のチャイムが鳴った。詩織が来たのだろう。だが、今日は簡単な問診のはずが随分と遅かった。
「お邪魔します」とチャイムが鳴って間もなくリビングに詩織が入って来た。勝手を知っているのに、詩織はいつも、チャイムを鳴らしてから家に入ってくる。僕もわざわざ玄関で出迎えたりはしない。
「腹減った?」
「まだ大丈夫だよ」と詩織はリビングのテーブルに教科書を広げていく。そして、「小説読んでたの?」と詩織は僕に尋ねる。僕がダイニングテーブルの上に置いていた本に気付いたのだろう。
「ハードボイルド小説? ワンダーランドって、ファンタジーなのかな? 百年以上の小説かぁ。単語とか分からないのが多そう」と、詩織は奥付を見ながら言った。
本好きの詩織が読んだ事がないのが意外だった。だが、本はそれこそ数え切れないほどある。
僕等はダイニングテーブルに向かい会って勉強を始めた。詩織は英語を、僕は数学を始める。
「あっ、辞書貸して」
僕は数式を眺めながら手探りでバックを探り、そして渡した。
しばらくお互い勉強に集中していたら、「あっ、この意味、意外かもしれない」と詩織が言った。
「どの単語?」
「“Cry on Shoulder”ってどういう意味だと思う?」
僕も知らない単語だった。
「肩で泣くってことかな? 肩が震えるほど泣くってこと? 鼻で笑ったり、ヘソで茶を沸かしたりするから、肩で泣いてもおかしくない」
「ハズレ。ヘソで茶を沸かすって、英語でそんな表現はないと思うよ」
「あるんじゃないかな? イギリス人は、ヘソで茶を沸かして、そして紅茶を飲むんだ」
「そんなこと言って」と詩織は笑っていた。
詩織は帰ってきてから暗い表情をしていた。普通にしているが、なんとなく僕には分かる。きっと今日、病院で良くないことを言われたのだろう。
「それで、どんな意味なの?」
「悲しい時に、親しい人と抱き合って、その肩に泣き伏すことだって。そして、そこから転じて、悲しみを人に打ち明けるって意味があるんだって」
「他人の肩で泣くのか。抱き合って泣くって、西洋人らしいね。でも、その意味って文脈で分からない? その後の会話か何かで、悩みを打ち明けているんだろ?」
「確かに、悩みを告げているけど……。テストの時は辞書が使えないからそうやって推測するしかないけど、普段は気になる単語は出来るだけ引いておいた方が良いと思う」
「その割には辞書を持って来てないけどな」
「真司が貸してくれるからさ」
「まぁ、いいけど」
詩織は辞書を閉じた。
「私も、“Cry on Shoulder”しようかな」
「Cry on my shoulder?」
「Yes, cry on your shoulder」と詩織は言った。そして、「海、行っちゃ駄目だって。もう少し良くなれば、夕方一時間くらいは大丈夫だろうって」
「夕方だったら、夕陽が観れるだろ?」
「夕陽を観るのに一時間じゃ足りないよ。太陽が紅くなってから水平線に沈むまで、ずっと観ていたもん。防波堤に座って、脚をぶらぶらさせながら夕陽をずっと眺めてみたい。波の音を聴きながら……。だけど、無理かな」
「無理じゃ無いだろ?」
詩織は悲しそうに笑った。
「はい。“Cry on Shoulder”はお終い。私、お腹減ってきたかな。今日の夕飯は?」
「まだ、抱き合ってないけど?」と僕は椅子に座ったまま、シャープペンシルを机に置き、両手を広げた。
「さぁ、俺の肩に飛び込んで来い!」
「せめて、立ち上がってから言ってよ。それに、そっちの意味じゃないよ。悩みを打ち明けるって意味の方だよ」と詩織は少し呆れたように言う。
「悩みは全部、打ち明けたか?」
僕は、真面目な顔をして詩織を見つめる。詩織は、空元気だ。無理をしている。
「お腹が空いた」
「それは悩みじゃ無いだろう。当たり前のことだ」
「そっか。当たり前のことだったか。御手洗い借りるね」
詩織は立ち上がって、リビングから出て行った。詩織の背中がいつもより小さい気がした。