●僕の話 5.詩織の彼氏になりました
僕が詩織を抱きしめたこと。
詩織は驚いたのかも知れない。だけど、直ぐに詩織の頭の重みが僕の右肩に乗ってきた。
詩織はヒクッというシャックリのようなものをした後、僕の背中で泣き始めた。
時々、静かに泣きながらぽつりと言葉を詩織は呟く。
『どうして』と、詩織は理由を問いかけている。だけど僕は詩織が病気である理由を答えられないし、病気の進行が早まっている理由も答えられない。その理由は、医者であっても答えられない。治療法も手探り状態らしいから。
運が悪かったなどという言葉で簡単に片付けることができない。誰も答えてくれることのない「どうして」であった。
そして、僕はそれを聞いて、詩織の背中を右手で擦ることしかできなかった。
十五分か、三十分か。一時間か。詩織は泣き止み、ただ呼吸をしていた。静かな沈黙の中で僕等は抱き合っていた。詩織が呼吸していることをとても近く感じる。詩織が生きているということをとても具体的に感じる。
「詩織、好きだ」
僕はそう言った。なんて僕は語彙が少ないのだろうと思った。
『ずっと詩織とこうして抱き合っていたい』
『詩織とこれからもずっと一緒にいたい』
『詩織のために僕はノートを取っている。それをこれからも使って欲しい』
『僕の前からいなくならないで欲しい』
そして、『死んで欲しくない』
僕の心の中に、いろいろな感情が沸きだし、そして色々な想いが浮かぶ。それらを上手く統合して表現することができない。
やっとのことで僕が表現できた言葉。それが、『好きだ』だった。
「私も好き」
僕は僕の感情を吐露しただけだった。詩織が僕の事をどう想っているかを聞こうとは想っていなかった。だけど、『好き』と詩織が答えてくれたことが嬉しかった。
更に時間が過ぎていく。
このまま詩織と永遠という時間にまで到達できれば良いな、と哲学的なことを考えてみたり、詩織の背中を擦ったときに感じるデコボコは、ブラジャーのホックの部分なのだろかと考えてみたり、石鹸かシャンプーの香りって意外と効果が持続するのだな、と考えてみたりと、関係ありそうで関係無いことも色々と考えてしまう。
「ただいま」
玄関から声が響いた。僕の母の声だった。ハッとお互い体を離し、少しだけ見つめ合う。詩織は、髪の毛が乱れていないかが心配になったのか、手で髪の毛を整え始めている。もちろん、詩織の髪の毛は乱れたりなんかしていない。
「お帰り」とリビングに入ってきた母に僕は言った。詩織も、「お邪魔してます」と言う。
「あら、トランプしていたの?」とカーペットの上に広がっているトランプに母は目を向けながらキッチンに入り、冷蔵庫入っていたラップしていた夕飯をレンジで温め始めた。
「美味しそう」と母は言った。また「詩織ちゃん、ゆっくりしていってね」と、母はレンジで夕飯が温まるのを待っている間、キッチンから顔を覗かせて詩織に話しかけた。
「ありがとうございます」
「ん? 何かあったの?」
突然、母はそんなことを言い始めて僕の方を見た。母が何を感じてそう疑問に想ったかは分からないが、僕は一瞬どきりとした。たぶん、唾を僕は飲み込んだ。
「詩織ちゃん、真司が何か変なことをしたりした?」
どうやら母は、何かがあったと確信しているようだ。
「いえ、そんなことは」と言う詩織の答えを聞いて、母は僕の方をみた。『本当でしょうね?』と確認の意味合いを込めた目線だ。母も当然、詩織の病気のことは知っている。
僕は頷く。やましいことはしていない。やましいことを多少なりとも考えたけれど。
電子レンジが鳴った。どうやら温め終わったようだ。
「それならいいんだけどね。夕飯戴きます」
「そろそろお父さんが帰ってくるので、私はそろそろ失礼します」
「そっか。じゃあ、またね。真司、詩織ちゃんを家まで送ってあげなさい。あ、あとコンビニでバニラアイス買ってきて」と夕ご飯を食べながら母は、財布から五百円札を取り出した。
「わかった」と僕は答えた。
詩織を家まで送っていくのは当たり前のことだった。詩織がこっちの家に来たら、詩織の家まで僕が送っていく。それは十年以上も続いていることだ。暗黙の了解であり、今日に限ってわざわざ母が送っていけと言葉を付け加えたことが不思議だった。それに母はラムネーズンが好きで、バニラが好きなのは親父だ。
・
「コンビニ、私も一緒に行こうかな?」
詩織の家の門の所まで送っていったら、詩織はそこで立ち止まった。僕の家と詩織の家は目と鼻の先だ。
「手をつないで良い?」
僕は詩織に尋ねた。詩織を抱きしめた余韻だろうか。手と手が、肉体と肉体が接触するというような具体的な形で、詩織に近くにいて欲しかった。
「うん」
詩織の右手の親指だろうか。僕の左手の小指とぶつかった。詩織と手をつなぐ。
いつ以来か、思い出せない。中学生の時にはもう手を繋いで歩くことは無くなっていた。明確な理由があったわけではない。なんとなく、いつからか手をつながなくなっていた。
でも、今ははっきりとした理由が存在して、僕は詩織と手をつないでいたい。
「詩織が好きだ」
僕らの反対方向から歩いてくる会社帰りのサラリーマンがいる。そのサラリーマンに聞こえないような、街灯までも届かないような小さな声しか僕は出せなかった。
「言葉にしてくれて嬉しい」
でも、詩織には届いたようだ。
「彼氏と彼女になろう」
「うん」
コンビニで、バニラアイスを買った。僕らも、アイスを買って歩きながら詩織の家に向かった。
・
「どうしても挨拶しなければ駄目?」
詩織の家の前で、僕はオモチャを買ってもらえない子供のようになっていた。
「ちゃんと、お父さんにも伝えて欲しい」
「でも、わざわざ伝えにいくことでもない気がするけど?」
「弱虫」
「じゃあ、まず私が真司のお父さんとお母さんに、私たち、交際を始めましたって挨拶に行こうか? でも、真司のお母さんは気づいていると思うけど」
「何に?」
「少なくとも、私たちの関係に変化があったってことは気づいているよ。一線を越えちゃったとか思っているかもしれないかな」
「一線って、性的な?」
「うん。恥ずかしいけど」
「さすがにそれはないと思うけど」
僕の母親はそんなに超能力者のような能力は持っていないはずだ。
「そうかなぁ。でも、気づいているよ。だから、親経由で話が伝わるの、恥ずかしくない?」
詩織は、頑固な部分が昔からある。一度決めたことは、簡単には覆さない。僕は、詩織の家の前で、立ち往生をずっと続けていても、それは無駄な抵抗のような気がしてきた。
「わかったよ」と僕が同意してからは話が早かった。
詩織のお父さんはリビングでビジネス雑誌を読んでいた。
「改まってどうしたんだい?」と詩織のお父さんが僕に尋ねる。
週の何回かは、詩織のお父さんの夕食を僕が作って冷蔵庫に入れている。いまさら知らないなかじゃない。というか、昔風にいえば、同じ釜の飯を食っているということになる。
「か、神園詩織さんとお付き合いを始めました。き、清いお付き合いです」
詩織のお父さんはそれを聞くと雑誌を静かにテーブルに置き、台所へ行った。塩でもまかれるのかと思った。だが、詩織は平然としていた。
詩織のお父さんは、冷蔵庫から缶ビールを持って戻って来た。手にはガラスのコップが二つあった。
テーブルにグラスを置くと、プシュと缶ビールを開け、そしてグラス2つに注ぎ始めた。
「あの……僕は高校生なので」
当然ながら高校生は法律上飲酒など出来たりはしない。
「あっ、これは違うんだ。これは母さんになんだ。もちろん、いつか真司君とも一緒にお酒を飲みたいけれどね」
そういうと、リビングに飾ってある詩織のお母さんの写真の前にグラスを置いた。黄金色のビールの後ろ。写真立ての中の女性はいつもと変わらない笑顔だった。
「母さん。詩織に彼氏が出来たよ。やっぱり相手は真司君だった。僕たちに内緒で交際しているのじゃないかと、少し寂しい思いをしていたけど、それは僕の思い違いだったらしいね」
その様子を見ていた詩織は、僕の手を取り、そして写真の置いてある棚の前まで連れてきた。
「お母さん、この人が私の彼氏です」
僕は、そう紹介され、なんだかとても恥ずかしい気持ちになった。認められたといううれしさもあるかも知れないし、同時に、詩織と付き合って、彼女と彼氏という新しい関係性が生まれたことが恥ずかしいのかも知れない。
「川畑 真司です。詩織さんの彼氏になりました」
僕は、詩織のお母さんにも挨拶をした。