タイトル一文字。 同音異字から連想する物語、あいうえお順に書いてみた。
「む」 ‐無・夢・霧‐
ま行
絶対にあの大ヒット映画の影響だろう。
バイトの帰り道、そんな手口に引っかかるかというナンパをされた。
「あの、俺、どこかで君に」
「会ってません」
「え、でも」
「夢の中でも入れ替わってないから」
あたしは、早足で男から離れた。どんな顔だったか分からない。
声の感じからして同世代だとは思うが、確実に会ったことがない。
あたしは、騙しやすいいい人オーラでも出てるのか、やたらキャッチセールスにひっかかる。
声をかけてくるのは、顔でバイト採用されただろうって感じのイケメンが多い。
前に、本当にキャッチセールスが嫌で、相手が話し出す前に拒否したら
「違うんだ、違うんだ、そういうんじゃないんだ」と言われたので、何か困っている人かと思って
話を聞く姿勢になってみると、キャッチセールス以外の何物でもなかったことがあった。
そういうの、ってのはナンパって意味だろう。
僕は君なんかナンパしてるわけじゃなくて仕事なんだて意味で、違う。
ナンパだと勘違いしてるみたいで、こっちが恥ずかしくなり、ダブルのダメージを受けた。
だから、最近は知らない人だと分かったら、足を止めずにその場を去ることにしている。
数日後、また声をかけられた。
「霧島さんですよね」
「え」
あたしは名前を呼ばれて足を止めてしまった。この間の男だ。
怖い。なんで名前知ってるの? 夢の中で入れかわって、手に名前……書いてない書いてない。
「違います」
あたしは掌を握りしめて霧島じゃないふりをして去ろうとした。
「あの、去年の夏、オープンキャンパスで一緒だった武藤です。覚えてませんか。
もう一度、会いたくて、入学してから半年間大学中探し回ってたんです。
霧島なんてそんなにたくさんいる名前じゃないから、すぐ見つかるかなって」
オープンキャンパス、その単語であたしは思い出した。
そういえば、いた。この人だったかは覚えてないけど、名前を交わした人がいた。
でも、忘れた。
もう、忘れたくて、あの時の記憶は霧の中に放り込まれたようにぼやけている。
だって、あたしは、
「そうでしたか。すみません。覚えてなくて。あの大学に行ってるんですか」
「はい」
あたしは、受けなかった。
「あたし、行ってないんで、探しても無駄ですよ」
「え、あ、そっか。俺バカだな。会いたい一心で、絶対いると思ってて」
「バカですね」
あたしは再会を喜ぶ男の一方的な近況報告がものすごくムカついて、思いっきりバカに力を込めた。
「バカだバカだ。あの、やっぱりもっと上の大学に行くことにしたんですか?
俺より頭いいみたいだったし」
「いえ、どこにも行ってません。フリーターです」
「……そうなんだ」
「いろいろあって」
あたしは、受けられなかった。ほかの大学も全部諦めた。
願書を出す直前ぐらに、ばあちゃんの介護をしていたお母さんが倒れた。
お母さんは入院した。
お父さんが仕事を辞めたらうちの家族は生きていけない。妹はまだ中学生。
あたしが、一時的に諦めることですべてうまく回っていく、そう思って決断した。
大学の資金でおばあちゃんを老人介護施設に入所させてた。お母さんは申し訳なさそうにしてるけど、こんな状態で大学に行かせてもらっても結局何もできない気がする。
あたしの決断は最良のものだった。
すべてはうまくいった。
お母さんは退院して日常のことは普通にできるようになった。
おばあちゃんは認知症が進んで、家にいても施設にいてもきっと分からない。
あたしは家のことをしながらバイトしてたから、受験勉強なんかしてないし、妹の高校受験と一緒になるから再受験する気もない。
何者でもない時間を過ごしていた。これから先のこと考えなきゃいけないけど、考えないようにしてた。
それでいいと思っていたのに、輝かしい大学生に声をかけられて、あたしはなんだか分からない惨めな気持ちがこみ上げてきた。
思い出さないようにしてた、高校三年の夏休み。
大学生になったら、あれしたい。これしたい。いろんな夢を掲げて楽しそうにしていたあたしがいた。
もう何年も昔のことのように思える。
無邪気だった。その無邪気さが今のあたしには憎らしく思う。
悲劇のヒロインになって、何かに八つ当たりしたい日もあったけど、
家から近くて、自分のレベルに合っていただけで選んだ大学だったし。
ただ、やりたいこととか、なりたい職業とかよく分からないから、とりあえず進学する大学。
遊ぶために大学生になりたいから、進学する大学。
病気の親を無視して行けるところじゃなかった。
「もう一度君に会えるかなと思ったら受験勉強も頑張れた」
男は懐かしそうに語りだした。
なにそれ、勝手にエネルギーにされてた。あたしがいなかったら受験しなかったとでも言うのか?
あたしは無神経なこの男の笑顔に怒りがこみ上げてきた。
「あたしには、関係ない。そんなこと」
「そうですよね」
「なんなのよ。え、一目ぼれでもした? は。冗談じゃないわよ。勝手に使わないでよ。気持ち悪い。
会いたかったって、何。知らないわよ。別にあたしは大学なんか、行きたくなかったし。
何になりたいかもまだ分かんないし、ただ家が近いからあのオープンキャンパス行っただけだし。
大学生になったあんたに会いたいって言われても、ちっとも嬉しくなんか、大学になんか」
あたしは、怒りながら、自分の頬を流れる涙に、自分で驚いた。
ずっとせき止めていたダムが決壊していくのが分かる。
本当は悲しくて悔しくて、おばあちゃんやお母さん、妹のこと恨みたい気持ちでいっぱいだったけど
言っちゃいけないと思って一生懸命自分に言い聞かせてた。
気を使わせたり、同情されたくなくて友達にも愚痴れない。卒業しちゃったら会わない人も多い。
急に人間関係が薄くなって、自分と向き合ってくれる存在が家族以外いなくなった。
だから、自分より可哀想な目に遭って大学進学をあきらめた人のことばかり考えてた。
経済的に無理、 震災に遭った、本人が病気、けが、もっともっと、いろんな理由で、
あたしよりずっと苦しんでいる人がいるんだから、恨んじゃいけないって。
あたしは、ずっとずっと我慢してた気持ちを吐き出すかのように、男にぶつけた。
女の子に再会したくてその大学、受験したとか言ってる男になら、
自分が誰よりも可哀想な人になって泣き叫べる。
ずっと、我慢していた気持ちを反対の言葉を使って吐き出した。
半分は男に向かって言ってないなんて、そんなこと分かるはずもない。
男は、相当のダメージを受けていた。
「ごめんなさい。でも、本当によかった、また会えて。この間この道で会って、もしかしてと思って、
ちょっと待ち伏せとかしてました。気持ち悪いよね。ごめんなさい」
男は何度も謝る。謝らせてるのはあたしなのに、なんだか申し訳ない気持ちになってきた。
「でも、本当に感謝してるから。君がいたから頑張れた。それってすごいことだと思うから、本当に
ありがとう」
心の底から感謝してる男の言葉は、変な下心とかじゃなくて、本当にあたしが心の支えになっていたように聞こえた。
あたしは何もしてないのに、この人の力になっていた。
そう思ったら、何かが動き始めた。
あたしはただの犠牲者じゃない。
「嫌われてるなら、二度と会うことないようにこの道も通らないようにします。ごめんね。ありがとう」
そう言われてさっきとは違う悲しい気持ちが生まれた。
同時に、霧に覆われて、前に進めなかったあたしのこれからが、すこし見えてきたような気がした。
あたしは、男の服の裾をつかんだ。
「あの、会いたいです。また」
「本当に?」
「はい」
この人は、あたしを救うために、違う次元から来たのかと思えてきた。