episode 8 どうした、釉人
記帳から戻ると、いつもしているように通帳を工さんに預けた。このあと入金伝票の整理に取りかかるのがふだんの流れだが、経理を担当している工さんが私の仕事も引き受けると言う。きょとんとしていると、工さんが苦笑した。
「これは僕が片しておくから、彩さんは洗濯物の回収をお願いします」
「あっ」
指摘されて初めて気がついた。もう閉店間際だというのに、洗濯物を取り込んでいない。
私は謝罪の言葉もそこそこに給湯室へと走った。そこには釉人がいたが、嫌味を言われる前に勝手口から出たので視線すら合わなかった。
「夕立が来そう……」
昼間は目が痛くなるほど明瞭な青空が広がっていたのに、もうすぐそこまで積乱雲が迫ってきている。私は手近なタオルから抱きかかえるようにして回収していった。
かすかに落雷が聞こえたのは、最後の洗濯物を取り込んだときだった。湿気が増していくのが肌で分かる。間に合ってよかったと後ろ手で勝手口のドアを閉め、洗濯物をかごに突っ込んだ。
大きなため息をついて顔を上げると、洗い物を終えたらしい釉人と目が合った。私はすぐさま顔を伏せ、相手の顔も見ずにお疲れさまですと口先ばかりの挨拶をした。
釉人が私を疎ましく思っている以上、ふたりきりになるのは互いにとって苦痛なことでしかない。私はさっさとこの場から脱出するため、かごを掴もうと中腰になる。垂れてきた髪が邪魔なので耳に掛けようと手を差し入れた瞬間、違和感に気づいた。
イヤリングがない。
なんで、いつから、どこで、と動転した思いが交錯する。冷静になれないまま、私は足もとに視線を走らせた。ライトブラウンを基調にした板間は、パールとゴールドのアクセサリーを探すに不向きだ。加えて私はひどく動転しているので、視線は定まらない。
私は逸る気持ちを抑えられず、勝手口から飛び出した。洗濯物を取り込んでいるときにイヤリングを落とした可能性が高い。
落雷の音が先ほどよりも近く感じられたが、そんなことになど構っていられなかった。物干し竿のあたりを徹底的に探しまわったが見つからない。うろうろとあたりを探っているあいだに、自分の影が薄くなってきていることに気づいた。日が落ちてきているのだ。
どのくらい夕闇が迫ってきているのか確認しようと顔を上げると、顔にぽつりとなにかが当たった。
「……雨」
もう間もなく夕立が来る。私は刻々と深くなっていく夜の気配と、近づいてくる雨のにおいに慌てて、夢中で地面を探った。
もっと大切にすればよかった。もっときつく締めていればよかった。
私の不注意で、おばあちゃんとおじいちゃんの思い出がなくなってしまう。
「おい」
突然声をかけられて、驚きのあまり全身がびくりと震えた。ときおり当たる雨粒に顔をしかめつつ相手を確認すると、目の前に釉人がいる。
「なにやってんだよ」
「……イヤリングを落として……」
私の返答に、釉人が眉間にしわを寄せた。ああ馬鹿にされるのだと身構えていたら、釉人はさっと背を向け、無言のまま店に入っていった。
あまりの短いやり取りに、私は身じろぎひとつできなかった。釉人からどんな対応をされても気にしないと決めたけれど、無関心と言っていいほどあっさりとした態度に動揺を隠せない。
下を向くと、涙が溢れそうになる。だが気持ちを整える時間はない。
怒りや羞恥で頭のなかを暴れ狂う血潮を必死にセーブしつつ、私は小さな庭をうろついた。
たとえイヤリングが視界に入ったとしても、気持ちが高揚しているいま、私は正しくそれを認識できる自信がない。
雨雲は臨界点を越えたようで、しっかりとした雨を落としはじめた。叩き付けるように降られて景色はけぶり、イヤリングを探すどころではない。
私は諦めて顔を上げた。夕立が去ったあとに、もう一度探そうと思ったのだ。
「あれ……」
このときになって私は、周囲の異変に気づいた。雨の音が異様に大きい。それよりも土砂降りのなか、私はほとんど濡れていない。
次第にまわりが見えてきて、背後の濃厚な気配にぎくりとした。首をひねり、後ろに立っているであろう人物を確認して心臓が止まる思いをした。
「…………釉人さん」
「庭で探してないのはどこ。洗濯機のまわりは見たのかよ」
私は体ごと釉人に向き直り、改めて彼をまじまじと見つめた。ビニール傘を差した釉人は、もう一本ビニール傘を持ち、それを私へ傾けている。
釉人はうんざりした顔で、再びなにやら喋った。
「せ、ん、た、く、き、は、見、た、か、と聞いている」
「あ、はい……あ、いえ」
「どっちだよ」
「見てません……」
釉人は私に傘を押し付けてきたので、落とさないよう慌てて受け取った。釉人は軒下にある洗濯機まで近づくと、傘をとじ、まるで地面に書かれた文章を読んでいるかのごとく左から右へ何度も首をスライドしはじめた。
私はその場で棒立ちになり、釉人の行動を見つめていた。
常に私に手を差し伸べてくれるのは工さんであり、釉人が私のためになにかしてくれることなど絶対にあり得ないと思っていた。だから背後に立っていた人物が釉人だと知ったときは、心臓に鳥肌が立ってしまうくらい驚いたし、目の前の光景が信じられなかった。
釉人が店に入ったのも、傘をとりに行ってくれたのだと知って胸がざわつく。
嬉しい。が、手放しで感謝する気持ちになれない。なにか裏があるのではないかと、私は疑心暗鬼になっている。
「そっちはどう」
「……えっ」
「……洗濯もの取り込んだとき、そのへんに落ちたんじゃないかって」
「もう一度、よく見てみます」
釉人の不機嫌そうな声色に触発され、私は気持ちを切り替えた。釉人がどういう魂胆で私に加勢しているのかは分からないが、いまはイヤリングを見つけることのほうが先だ。
私は中腰になって地面を探す。雨は一層強さを増していた。雨粒が次々と土の上で跳ねるため、視界を邪魔されてイヤリングを探すのは困難だ。
そんなとき、イヤリングは記帳の途中で落としたのかもしれないという嫌な可能性に気づいてしまった。きっと蒼白になっていたであろう私は、立ち上がりざまに釉人へと振り返った。
釉人も私のほうを見つめていた。
互いに言葉を交わさなかった。
ざあざあと強い雨脚を傘で感じつつ、視線だけは外さなかった。
「雨、しゃれになんねー。一旦なか入ろうぜ」
「…………はい」
釉人は私が頷いたのを見届けると、勝手口のほうへ向かって行った。私もワンテンポ遅れて、足を踏み出した。
今朝下ろしたばかりのスラックスが跳ね返った雨のせいで濡れている。きっと釉人もずぶ濡れになったことだろう。
明日の日中は晴れるだろうか。そんなことを思いつつ、勝手口のドアをくぐった。
*
イヤリングを落とした日は終業後、豪雨のなかを練り歩いた。自転車を押しつつ、傘をさしつつ地面をくまなく探すのは骨の折れる作業で、悲しいかな結局イヤリングは見つからなかった。
そして今日。
家をでたときから、すでに三十度を超える猛暑だった。昨日のゲリラ豪雨の痕跡など、もうどこにも残されていない。
私はアイリスに着くと、店に入る前にもう一度勝手口を見てまわった。そんなところにあるはずもないのに、坪庭に植えてあるツツジの枝をかき分けて覗き込んだ。
工さんと会話した昼どきには、イヤリングは確実にあった。それ以降外に出たのは最終記帳の一度きり。
やはりイヤリングはアイリスで紛失した可能性が高い。
私は植樹から身を引いて姿勢を正した。分かってはいたが、釣果を得られなかったことにがっかりしてしまう。
朝の清掃のついでに、もう一度バックヤードとフロアを探してみよう。
どこまでも沈みそうになる気持ちを強引に奮い立たせつつ、私は勝手口のドアを開けた。
「おはようございます」
給湯室を抜けてフロアに出ると、レジカウンターに工さんがいた。工さんは私の顔を見るなり、気の毒そうな顔をした。
「おはようございます。……あのですね、昨日彩さんが帰ったあともう一度バックヤードをあらためてみましたけど……やっぱりイヤリングはありませんでした」
「えっ、わざわざ探してくれたんですか」
「力になれなくてすみません」
頭を下げる工さんに私は慌てて手を振った。
「謝らないでください。私事に巻き込んでしまってこちらのほうこそごめんなさい。時間を割いてくださって嬉しかったです。本当にありがとうございました」
「そのうちひょっこり出てくるかもしれないから、気を落とさないでください。僕も注意して見ておきますから」
私は大切なものをそっと引き出しにしまうように、ゆっくりと頷いた。
私の不注意で招いた私物紛失なのに、工さんはひどく優しい。そのあたたかさに私はずいぶんと癒された。
よくしてくれたのは工さんだけではない。釉人だって雨のなか一緒に探してくれたのだ。どうして私に力を貸してくれたのか、そのへんの事情はよく分からないが、協力してくれた以上彼にもきちんと礼を言わなければならない。
そんな思いを胸にいただきつつバックヤードに入ると、そこには釉人がいた。彼はこちらに背を向け、なにやらパソコンをいじっている。
私はタイミングを逃すまいと、すぐさま声をかけた。
「おはようございます。あの、昨日は土砂降りのなか一緒にイヤリングを探してくださってありがとうございました。帰りも注意しながら歩いたんですけど、見つかりませんでした。今日もう一度粘ってみます」
釉人は相づちすら打たず、マウスをカチャカチャ鳴らしている。関わるなオーラを醸し出されて、私はこっそりため息をついた。
たぶん今日の釉人はそういう日なのだ。イヤリングを探したのも、気分だったのだろう。
まじめに接するほうが悪いのだ。そう割り切って自分のボックスからエプロンを取り出したとき、釉人がぼそぼそと喋りはじめた。
「朝出勤したらあった。塀の上においてあったから、誰かが見つけて置いたんだろう」
最初はなんの話をしているのか分からなかった。釉人が発した言葉のヒントを得るために、彼の後頭部から肩、二の腕へと視線を下げていく。するとデスクのうえで、きらりと光るものがあった。まさかそんなところにあるはずがないと思っていたので、それが私のイヤリングだと気づくのにやや時間を要してしまった。
「えっ……あの……」
「店の掃き出しがあるんだろ。早く着替えて持ってけ」
「……はい」
ぶっきらぼうな物言いに、これ以上言葉を重ねることができなかった。私はエプロンを着付けると、釉人の背後からそっと腕を伸ばし、イヤリングをとる。無言で去っていくのも気が引けたので、ありがとうございますと手短に感謝の言葉を告げた。それでも釉人は一瞥さえくれなかった。
ひんやりと冷たいイヤリングを掌に包み、どこか夢を見ているような足取りでフロアに出た。ホッとしたような、狐につままれたような、不思議な気持ちである。
「……彩さん?」
工さんに呼び止められ、私は引き寄せられるようにしてカウンターへと躍り出た。そして無意識のまま左手を差し出す。すると瞬時に工さんの表情が変わった。
「見つかったんですか! ええっ、バックヤードに落ちていたんですか!」
「……いえ、たぶん勝手口に……」
「たぶん? たぶんって……」
「釉人さんが……勝手口近くの塀のうえに置いてあったって……」
私の返答を受けて、工さんの顔つきが変わった。だが思案顔を見せたのは一瞬で、すぐにいつもの人当たりのいい笑顔に戻る。
「坪庭から公路に転がっていったのかもしれませんね。なににせよ、拾ってくれるような親切なかたがいてよかったですね」
「はい……」
「ああ、彩さん。表の掃き出しが終わったら、洗濯をお願いします。またゲリラ豪雨がこないとも限らないので、早めにお願いできますか」
朗らかな調子で話を切り上げられ、私は少し意外に思いつつも頷く。
店の前を箒で掃き、水打ちをする。ときおり手を休めて両耳たぶに触れ、イヤリングの存在を確かめた。
地面ではなく塀のうえに置いてあったとは。どうりであんなに探してもないはずだ。
こうやって両の耳に納まってもどこか釈然としない気分であるのは、予想外の形で手もとに戻ってきたからかもしれない。
水打ちを終えると道具を片付け、それから店に戻った。洗濯機をまわして、そのあいだに朝の記帳に行く。体が覚えているというにはまだ日数が浅いが、それでも次の行動を考え込まなくても体が動いた。
洗濯かごはいつもより重く感じた。それもそのはず、昨日の土砂ぶりで汚れてしまった私と釉人のスラックスが二本、シャツが二枚入っているのだ。頭を拭くのにタオルも消費したので、いつもより重量があって当然だろう。
私はスラックスをネットに入れようと、山となした洗濯物のうち一番上にあった一本を掴んだ。濡れた感じはしなかったので、夜のあいだに乾いたのだと思われた。
スラックスをかごから引き上げるとき、さらさらとしたなにかが腕に当たって足もとに落ちた。驚いた私はまず自分の腕を確かめ、それから地面を注視する。洗濯機が乗ったコンクリートのうえには異物はない。
感触からして砂だった。おおかた昨日の土砂降りで裾に泥が跳ね返ったのだろう。
そう思いつつスラックスを伸ばしたとき、私は妙なことに気づいた。
泥はたしかに付着していた。だがそれは裾ではなく、もっと上部にある。
「……膝」
膝や脛に当たる部分に、泥の痕跡が見られた。訝しんだ私は、昨日の光景を思い起こしつつスラックスを見つめる。昨日イヤリングを探したとき、釉人は膝などつかなかった。それは私にも同じことが言える。
「……そういうことか」
思わず声に出してしまった。同時に工さんが洗濯を促したわけも、正しく理解できた。
私はなんともいえない気持ちになって、ほぼ乾ききってしまっている泥に触れる。
私が帰宅したあと、釉人はもう一度この坪庭に出てイヤリングを探してくれたのだ。
それも地面にひざまずき、泥水が跳ねることも厭わず、地面に顔を近づけて、懸命に。
私は立ち上がって勝手口のほうを見た。私がいるのは洗濯機のすぐそばで、ここからでは壁が邪魔をして直接勝手口を見ることはできない。
私が工さんとイヤリングの話をしていたあのとき、もしかしたら釉人はすぐそこにいたのかもしれない。そのくらいしか釉人が行動を起こした理由を思いつかなかった。
邪険にされたかと思えば、情をかけられる。気まぐれの親切にしては根性が入りすぎていて、軽く受け流すことなんてできるはずがない。
一定しない釉人からの干渉に戸惑ってしまう。
もはや釉人がどういう人間なのか、私には分からなくなってしまった。