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episode 7 彼らのとくべつな存在

 翌日、開店時間を過ぎても釉人は現れなかった。私は清掃道具をしまいつつ、こっそりため息をつく。

 釉人が出勤しないのは、やはり昨晩のやり取りのせいだろうか。

 だが釉人を欠勤に追い込んでしまうほどの暴言など、吐いたつもりはない。いくら自分にそう言い聞かせても、釉人が最後に見せた傷ついた顔がちらつき、胸が苦しかった。

「あの……釉人さんは……」

 とうとう釉人不在の事実に耐えきれなくなり、私は工さんに切り出した。カウンターで雑誌を読んでいた彼は、顔を上げて微笑む。

「外に行ってます。午後には戻ってきますよ」

「それは……前々から決まっていたことですか」

「先週も午前中釉人がいない日があったでしょう? あれと同じ用事です」

「……そうですか」

 私は平静を装って答えたが、工さんはなにか勘づいているようだった。私から視線を外さず、暗黙のままに話の続きを促される。私は昨夜のことをどう説明したらいいのか分からず、工さんの視線の意味に気づかぬ振りをして、別の話題を口にした。

「あの、バックヤードの掃除をしようと思いまして……コレクションボードのなかにあるアンティーク、あれは売り物なのでしょうか。もしカップやプレートを動かしても構わないのでしたら、ボードの乾拭きをしたいのですが」

 急ごしらえの疑問さえ、昨夜の釉人をきっかけにして生まれたごまかしだった。ますます工さんを訝しがらせたかもしれないと思いつつ、返事を待つ。

 工さんは少し考える素振りを見せてから、カウンターを離れつつ言った。

「彩さんが仰るのは、ダニカのことでしょうか」

「……ダニカ」

 私は工さんのあとを小走りについていく。工さんはバックヤードを開け、すぐ右手にあるボードの前に立った。

「彩さんが気にしているのは、これでしょう?」

 工さんが指差したのは、縁に透かし彫りと金彩が施され、中心に花が描かれた豪華なプレートだった。花は野草のようで、白地に紫のそばかすのような斑点が散っている。

「ロイヤルコペンハーゲンが誇る最高峰のディナーセット、フローラダニカです」

 これがあの普及の名作と言われるフローラダニカなのかと感嘆する。

 最近アンティークの雑誌や書物を読むようになって、その価値を知った。以前の私なら、その名を聞いてもぽかんとしていただろう。

「ロイヤルコペンハーゲンはロイヤルと冠するとおり、デンマーク王室御用達の陶磁器メーカーです。コペンハーゲンと聞いてまっさきに思い浮かべるのは、ブルーフルーテッドではないでしょうか。日本の古伊万里にヒントを得た藍色の染め付けで、唐草のようなパターンは和食にもよく合います」

 私は工さんの言葉に頷いた。

 まかないの皿はブルーフルーテッドだ。以前プレートを洗っていたとき、うっかりシンクに落としてしまったことがあるが、ヒビひとつ入らなかった。見た目だけではなく、実用の面でも優れているのである。

「ブルーフルーテッドは世界中から愛されるロングセラー商品ですが、それ以上に好事家を垂涎させるシリーズがあります」

「それがこの……」

「はい。デンマーク王室は自国に自生する植物を網羅した植物図鑑『フローラダニカ』の原画をもとに、同盟国ロシアのエカテリーナ二世への贈り物としてディナーセットを作成しました。それがフローラダニカです」

「……図鑑が元になっているから、おしべやめしべ、それに根っこまで描かれているんですね」

 私はガラス越しにプレートを見つめる。根の部分も、デフォルメされることなくリアルに描かれていた。

「図鑑の草花を崩すことなくありのままの姿に描いたのは、自国の学術に関する水準の高さをアピールしたかったのでしょう。ですが、唯一のペインターが逝去してしまったため、フローラダニカの制作は中断されました。それでも一八〇二点が、たったひとりの職人の手で生み出されたんですよ。まさしく偉業です。いまでは現存する一五三〇点が国宝としてローゼンボーグ城に展示されています」

「フローラダニカが一堂に会すると圧巻でしょうね」

「ええ。なかには、きのこや苔などのユニークな図柄もあるんですよ」

 私は相づちを打ちつつ、釉人に思いを馳せる。

 なぜ彼は悲壮感たっぷりにこのプレートを眺めていたのだろう。もしかしてこれを引き取りたいと名乗り出たお客があったのだろうか。

「そんなにもダニカが気になりますか」

「はい……。あの、これってすごく高価なんですよね。バックヤードで保管しているのは盗難防止ですか」

 私の問いかけに、工さんは控えめに笑った。

「いいえ、これは非売品です。釉人も僕も、手放す気はないんですよ」

「え……」

 伏せ目がちにそう言った工さんが昨夜の釉人とだぶって見え、私はなにも言えなくなってしまった。同時にふと思う。もしかしたら工さんの〈つぐない〉も、ダニカとなんらかの関わりがあるのではないだろうか、と。

 工さんは口をつぐんだ私を見下ろし、「さあ仕事に戻りましょう」と穏やかに言った。それに反対する理由などあるわけがない。私はこくりと頷き、ダニカを残して工さんとバックヤードをあとにした。


 結局、釉人が店に戻ってきたのは正午前だった。そのとき私はまかないを用意すべく給湯室にいたのだが、ドアチャイムに気づき、そっとフロアを窺ってみた。

 釉人は店内に客がいないことを確認すると、そのまま崩れ落ちてしまうのではないかと思うくらい深く長いため息をつく。そこへ工さんが労うように声をかけた。

「お疲れ。どうだった」

「……どーだろうーな。巧妙に取り繕ってるから、本当のところは分からねー」

 憔悴したようすの釉人だが、昨日の憂愁の痕跡はない。話の内容も、買い付け先との交渉が予定どおりに進まなかったという報告のようだった。

 釉人は私のことなど眼中にないらしい。腹立たしく思わなくもないが、確実に安堵のほうが心を占めていた。

 だが、ふいに釉人と目が合い、私はつい唸ってしまう。釉人は鬱陶しそうな眼差しを寄越すと、急にこちらに背を向け、小声で話しはじめた。

 明らかに内緒話の体勢だ。大人げない態度にカチンときたが、出張って抗議するほどのことでもない。だがこのままおとなしく引き下がるのも釉人の思うつぼのような気がして、しばらく給湯室から顔を出したまま恨みがましい視線を送っていた。

 すると会話の全貌はさすがに聞き取れなかったものの、検査だの進行だのといくつかの言葉を拾うことができた。

 昨夜の釉人の思い詰めた表情が脳裏に蘇る。もしかして釉人は重大な疾患を抱えていたのだろうか。それゆえの落ち込みだったのだろうか。もしそうだとしたら、私はものすごく残酷な言葉を釉人に浴びせてしまったことになる。

「あのさ釉人。まえにも言ったけど、この件は彩さんにも話すべきだと、僕は思う」

 工さんの言葉を聞いた私は、覗き見ポーズのままフリーズしてしまった。工さんはこちらに背を向けたままなのに、私の視線に気づいていたらしい。

 工さんのお心遣いはありがたいが、私はどんな顔をして釉人と対峙したらいいのか分からないので、このままそっとしてもらいたい。なにせ私は、知らなかったとはいえ病人に対して非常な言葉を浴びせてしまったのだ。

「……なんで部外者に内輪ごと話さなきゃなんねーんだよ」

「彩さんはうちのスタッフだよ。十分内輪のものだし」

「百歩譲ってスタッフを内輪と呼ぶにしても、これは家族間の問題だ。黒金は家族じゃない」

 口を挟めない状況だったので、私はただただふたりのやりとりを見守る。それに私には釉人の言い分も納得できた。

 病を打ち明けることは相当親密でないと抵抗があるだろう。そんな関係に至るまでは、私たちにはまだ隔たりがある。

 そういうわけで釉人が攻勢に思われたが、工さんは泰然とした構えを崩さなかった。

「緊急時のとき、動ける人間がひとりでも多いほうがよくない? それに事情を知られているほうが、気兼ねなく店を抜けられると思うんだけど」

「べつに気兼ねなんて……」

「これからは彩さんの助けを借りないと、店が回らなくなる可能性だってあるんだよ」

 釉人は言葉に詰まったのか、フロアに静寂が訪れた。工さんは私のほうへ振り向くと、手招きした。

 正直出て行きたくはない。だがそんなわけにもいかず、私は足を引きずるようにして、フロアに出頭した。

 私はしばし口をつぐんで釉人の出方をうかがったが、枯れはそっぽを向いたまま、私を見ようとはしなかった。救いの手を求めて工さんを見上げると、やれやれというような顔をして口を開く。

「……彩さんには釉人の外出は仕事と説明しましたけど、実は……」

「病院にいってた」

 釉人が急に口を開き、話に割り入ってきた。飛び出した言葉は想像していたとおりだったが、内容はまるで違った。

「ばあちゃんが体壊して入院してんの。だから孫の俺らが身の回りの世話してんの。これでいい?」

「……お見舞い……ということですか」

「……業務中に見舞いにいくなって言いたいわけ?」

「いえ、まさか」

 私は即座に否定する。最低な話だが、私は病人に辛らつな言葉を投げかけたという可能性が消えたことにホッとしてしまった。

 ついさっきまでは私に一瞥すら寄越さなかったくせに、いま釉人は射抜くような眼差しを向けてきている。罪悪感を抱えた私は、彼の目に晒されることに耐えきれなくなり、そっと視線を外した。

「ちゃんと打ち明けたぞ。工もこれで満足しただろ? じゃあ俺は早いとこ飯食って、午後から仕事の巻き返しにかかるわ。黒金、飯よろしく」

 釉人はそう言い放つと、バックヤードへと吸い込まれていった。釉人に掛ける言葉などあるはずがなく、私は無言でその様子を見つめる。

 歩きかたひとつで、釉人の不機嫌さは察することができた。それはおそらくおばあさんの具合が芳しくないせいもあるだろうし、私にプライベートを明かしてしまったその抗議の意味もあるように思えた。

「嫌な思いをさせてしまってすみません」

「いえ、私は全然……」

 工さんは一瞬ためらうようすを見せたものの、やがて言葉を続けた。

「……おばあさんの入院は長引きそうです。だから今日みたいに僕と釉人が抜ける日がたびたびあると思うんです」

「はい」

「これまでは釉人とふたりでしたから……おばあさんのために時間を作ることも大変でした。でもいまは彩さんがいます。バックヤードの仕事は問題なくこなしてもらっていますし、そのうちフロアでの仕事も覚えてもらえたら、僕たちの時間もずっと融通が利くようになると思うんです。……私事で申し訳ないのですが、協力していただけませんか」

「私にできることなら、よろこんでお手伝いさせていただきます」

「……ありがとうございます」

 工さんはいつもの優雅な笑みを浮かべた。私も同様に微笑んでみるが、うまく口角が持ち上がらない。心に小さな棘が刺さっているせいだ。

 工さんは業務に支障が出ることも考えて、折りをみて事前に事情を説明してくれようとした。だが釉人はそうすることをずっと拒んでいた。

 釉人にとって私は、赤の他人同然の部外者なのだ。

 釉人から避けられることには慣れている。でも傷ついている自分がいる。

 釉人の仕事に対する信念を知り、そして彼らしくない朧げな一面を見てしまったせいだろう。

「……まかない、まだ途中なので作ってきます」

 私は工さんにそう告げて、フロアをあとにした。


 結局まかないが出来上がっても釉人は給湯室に現れず、工さんも接客に追われていたため、ひとりで昼食をとることになった。

 洗い物を終えると、洗濯物の乾き具合を確かめることを口実に勝手口を出た。手近にあったタオルを撫でてみる。まるで干物のようにカラカラに乾いていた。

 私の気持ちとは裏腹に、空は快晴だ。それにうんざりするほど暑い。

 私はアルコーブタイプの勝手口から数歩先にある、洗濯機の横に腰を下ろした。

「……私にできることなら……か」 

 工さんに告げた言葉は本心だ。釉人たち兄弟がおばあさんの面倒を見るために店を空けるというのなら、私はそのサポートをしていきたいと思う。でも釉人がそれを望んでいない。

 どうして釉人は他人に対して警戒心が強いのだろう。

 考えても答えなど出るはずもないのに、先ほど見せた表情や昨夜の出来事が頭から離れなかった。

「お疲れさまです」

「わっ……工さん……」

 突然視界に人影が指し、私は驚いて腰を浮かせた。

「ごめんなさい、驚かすつもりじゃなかったんです。どうぞそのまま、座ってください。それから……これ、一緒にいかがですか」

 工さんがすまなそうな顔をしつつ、私にペットボトルを差し出した。

「……ありがとうございます。いただきます」

 受け取ったものは、よく冷えたウーロン茶だった。私はアルコールが飲めないし、炭酸も得意ではない。そのことに昨日の飲みで気づいたのだろう。工さんは他人のことをよく見ているし、気遣いのできるひとなのだなと思う。

「となりに座ってもいいですか」

「はい、もちろん」

 工さんはひとつ頷くと腰を下ろし、ペットボトルのキャップを回した。シュワッと泡が立ち上がる音がする。彼は喉を鳴らして炭酸水を飲むと、満足そうにひと息ついた。

「やっぱり冷たいものは暑い場所で飲んでこそ、ですね」

「今日から夏休みですし、プールとか混み合ってそうですね」

 気候を軸にした話題で場の空気を均す。

 そのうち話の内容が広がっても、互いに先ほどの件は口にしなかった。

 工さんは私のフォローに来てくれたのだろう。

 接客後にまかないもとらずにここにやってきた工さんの心づかいに、荒んでいた気持ちが和らいでいく。

「あの彩さん、前から聞いてみたかったんですけど、そのパールのイヤリングはアンティークですか」

 突然工さんに想定外の指摘をされて、私はハッと手を止めた。無意識にイヤリングをいじっていたようだ。

「アンティークではないんですけど、年代物です。二十歳の祝いに祖母から譲ってもらったんです」

「素敵です。それに状態もすごくいい。きっと彩さんのおばあさまはとても大切にされていたんでしょうね」

「いえ……そんな……」

 私自身を褒められたわけではないのに、なんだか恥ずかしくなってしまってうつむいてしまった。工さんは誰が相手だろうと、邪気のない瞳でまっすぐ見つめる。工さんの華やかな雰囲気にだいぶ免疫ができたとはいえ、至近距離で厚意を振る舞われると、やはり動揺してしまう。

 気持ちの揺らぎを隠すため、私は俯き加減のまま言葉を重ねた。

「このパールは祖父が祖母に贈ったものなんです。祖父はもともとそんなに裕福ではなかったので、趣味の道具や家財道具を売ってパールを買い求め、それで祖母に求婚したと聞いています。ゴールドの台座は、祖父の母が自分のジュエリーをばらして譲ってくれたそうです」

「……想いのこもった世界にひとつだけのイヤリングですね」

「はい。祖母もそう言っていました。新しい家族として受け入れられた証であるし、絆だとも……」

 片方のイヤリングを外して、手のひらに乗せてみる。月桂樹をモチーフにしたと思われる三本のリーフ。それが絡まり合ってサークルを成し、その中央部分にひと粒のパールが乗っかっている。台座に対してパールはひとまわりもふたまわりも小さい。急にこしらえたものだと分かる。

 手のひらに視線を感じた。そっと隣をうかがうと、想像していた以上に真剣な目をした工さんがいる。そんな彼がぽつりと消え入るような声で呟いた。

「ものに想いを託す……か」

「……工さん?」

「よいものを受け継がれましたね。彩さんのご家族は、とても健全です」

「……えっ……そう……でしょうか」

「これからも大事になさってください。……じゃあ僕はそろそろ戻って、まかないをいただきますね」

 工さんはそう言って立ち上がった。私はろくに返事もできず、彼の動作を目で追うのに精一杯だった。

 ひとつ不思議だったのは、工さんが去り際に一度足を止めてその場に立ち尽くしたことだ。なにか言い渡されるのかと待っていたが、その後すぐに歩きはじめて行ってしまった。

 結局ドアの開閉音が聞こえるまで、工さんが振り返ることはなかった。


 午後からは釉人と工さんはフロアに立ち、ぽつりぽつりとやってくる客の相手をしていた。私はバックヤードにこもり、オンラインショップの対応をしたり、大手SNSで取得したアイリスのアカウントで商品の紹介をしたり、午後の業務はデスクワークに時間を費やした。


 釉人と距離を置き、なおかつひとりの時間を経たことで、私の釉人に対する気持ちは戸惑いから怒りへと変化していた。

 思うに昨夜は言い過ぎたなんて気に病む必要はなかったのだ。そもそも私はおばあさんの病気のことなど知らなかったわけであるし、場違いな励ましの言葉をかけたからといって釉人から卑下されるいわれはない。

 もう釉人になにを言われても、深く意味を考えることはせず、軽く受け流して平常心でいよう。

 そう心に決め、私は最終記帳をするために席を立った。


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