episode 5 彩の記憶力
私は途中で放り投げていたアイロン掛けに取りかかり、工さんはレジカウンターに立ってパソコンをいじり、釉人は給湯室でまかないを作りはじめ、それぞれの時間が動き出した。ときおり来客があったようだが、工さんひとりで対応していたらしく、穏やかに時は流れた。
やがてバックヤードにも甘酸っぱい香りが漂ってきたので、アイロン掛けを終えた私は匂いにつられてフロアに出てみた。
ふらふらと給湯室へ向かう途中、ふとコレクションボードに目が止まる。どういうわけか気になって仕方がない。
気がかりの謎はすぐに判明したが、行動に移す前に工さんに声をかけられた。
「お腹すきましたね。あ、僕はまだ事務作業が残っているので、お昼は釉人と一緒に先に食べていてください」
「ありがとうございます。あの工さん、ボードのカップは補充しなくてもいいのでしょうか」
私は梶原さまがお買い上げされたことで隙間のできたコレクションボードを指差す。コレクションボードを見たときに覚えた違和感の正体は、あるべきところにカップが納まっていない虫食い状態だったからだ。
「あっ、忘れてました。釉人に言っておきます。ボードのレイアウトには釉人ならではのこだわりがあるみたいなので、勝手に動かせないんですよ」
「……そこにはアイボリーのカップが入って、あっちにはピンクのカップがありました。色がかぶらないように、うまく点在させているんですね」
私が喋っているあいだに、釉人が給湯室から出てきたのは分かっていた。釉人へと視線をやれば、彼は無言のまま私と対峙し、顎でボードを指す。
「開いているカップスペース、社名やシリーズ名は分かるか」
釉人はいつものごとく横柄な態度だったが、肌から立ち上る気配までは隠せない。それは警戒だ。
釉人から神妙な眼差しを向けられる理由が分からないが、肌を焼く熱風のような気概に私は気圧されてしまう。
「……一番右がクリーム地のアンティークカップで、一八七八から一八九〇年のあいだに作られたもの。一番下はシリーズ名、クリブデン。そして釉人さんがしきりに勧めていたのが、ユーランダー・パウダーピンク。すべてウェッジウッド社のものです」
私は記憶のなかのコレクションボードを眺め、プライスタグを読んでいた。
私が答え終わっても、釉人は黙りこくったままだ。続けろという意味だと理解し、私はさらに口を開く。
「……以上のみっつが梶原さまにお買い上げいただいたカップです。……が、それ以外にも引き下げられたカップがあります」
私は体を反転してアイリスの入口付近のボードや、店の最奥にあるひときわ大きなボードを指差し、先ほどと同じく社名や製造年代、素地の色やパターンを回答していった。いずれもみなウェッジウッド社のものだった。
詰まることなくすべてを答え終えた私は、微動だにしない釉人を見上げる。彼の身体からはいまだ緊張感が漂っていた。
「……ウェッジウッド社はイギリス発祥の陶磁器メーカーで、当時はまだ珍しかった乳白色の陶器・クリームウェアの開発に成功した。長い年月をかけて他の企業を買収し、いまや誰もが知る世界有数の老舗高級ブランドだ。アンティークに興味のない者でも、ウェッジウッドの名前くらいは耳にしたことがあるだろう。青の炻器・ジャスパーウェアやイチゴ柄のプリント・ワイルドベリーはあまりにも有名だ。近年では大量生産のために転写紙を用いることが主流になったけど、決してチープな印象を与えないのがウェッジウッドの魅力だと俺は思う」
「……はい」
突然始まった講釈に、私は頷くほかなかった。釉人は私の目の前で右に左に、行ったり来たりし始める。まるで名探偵の謎解きシーンのようだった。
「ところで梶原さまにお譲りしたクリブデンとユーランダーはアンティークじゃない。クリブデンはアイボリー地のラインに、手描きによる青い小花と金彩を施した逸品で、コストがかさむことから廃盤になった。控えめなデザインだけど、物足りなさを感じることもないし、なにより気品がある。廃盤になったのが悔やまれるよ。そしてユーランダーは一九〇二年にホワイトハウスから特別に依頼を受けたことで生まれたシリーズで、粉をまぶしたような太い帯が特徴だ。少し前までは、熟練の職人がスポンジ状の道具を使ってパウダー感を出していたんだぜ。手の込んだ逸品だと思わないか? とくにこの棚にあったパウダーピンクバージョンはレア中のレアだ。いまは亡きロンドン三越の限定販売品で、なかなか表に出回らない。手に入れるのに苦労した」
「彩さん、まめ知識です。ウェッジウッドの創設者ジョサイア・ウェッジウッドは、進化論で有名なダーウィンの祖父なんですよ」
工さんの横やりをきっかけに釉人は足を止め、ハッとした顔をしてこちらを見た。語るうちに饒舌になってしまっていた自分に気づいたようで、小さく咳払いしている。
「……とにかく。黒金の言ったとおり、ボードの空きスペースにあったのはすべてウェッジウッドだ。あんた……もしかしてカップの配置を全部暗記したのか」
「まあ……はい、そうですね」
努力して覚え込んだわけではなかったが、結果として頭に記憶されているのだから、肯定しても嘘にはならないだろう。
「なあ釉人。彩さんの労働意欲は十分にあるだろ?」
「え……いや、まあ……」
「なにより彼女は記憶力に優れている。だから釉人、彩さんにもっとアンティークに関わる仕事を任せてみたらどうだろう」
言い淀んだ釉人に、工さんはやんわりとした口調で畳み掛けた。
「フロアでの接客はまだ早いとしても、在庫の管理は任せてもいいんじゃないかな。現にホームページをリニューアルするにあたって、ひとつひとつカップの経歴や特徴を載せているだろ? 在庫管理もそれの延長だと思うんだよね」
工さんの弁と私の無言の眼差しに圧され、釉人は喉の奥を鳴らした。そして渋々ながらに頷き、言葉を発さないまま給湯室へと消えていった。
工さんが私の肩に手を置く。
「釉人も彩さんの勤務態度を知っています。少しずつ認めさせていけばいいんです。さあ、お昼を食べてください。お昼が遅いと、夜が楽しめなくなりますよ」
「夜になにかあるんですか」
「彩さんの歓迎パーティーです。今日決まったことなので、もし都合が悪ければ日時を変更しますけど……どうでしょう?」
前の会社では多忙を理由に歓迎会は開かれなかったし、逃げるように辞めたので送迎会もなかった。工さんから切り出された飲みの話は突然のことで驚いたけれど、悪い気はしなかった。むしろ自分のために時間を割いてもらうのは、妙に照れくさい。
私は歓迎会に出席の意思を伝え、まかないの並んだ給湯室に入った。
「……すごい」
ふたりがけのテーブルにワンプレートが置かれている。メインは鶏肉と夏野菜の甘酢餡かけ、小鉢に入った長芋とオクラの和え物、ミョウガと青じそがたっぷり乗った冷や奴、ナスとオクラのみそ汁、そして炊きたての五穀米、以上がワンプレートのラインナップだ。まかないと呼ぶには豪華すぎるだろう。
釉人はとっくに食べはじめていたので、私も椅子を引いて釉人の対面に座った。昨日まで私がまかないを担当していたので、釉人の料理は初めて目にした。見た目の段階で、すでに私の完敗である。
「いただきます」
まず鶏肉をひと口齧ってみた。ほどよく酸味が効いており、頬の内側からじゅわりと唾が溢れる。ししとうや赤や黄色のパプリカも歯ごたえを残して下茹でされており、昨日今日で料理を始めたわけではないことが窺い知れた。それはみそ汁ひとつとっても明らかだ。風味が違う。きちんと出汁をとって作られている。
対面で黙々と食べ勧めている釉人をそっと窺う。おいしいですとひと言声をかけたかったが、拒絶の意思を感じたのでこちらも無言を通した。
ひとり暮らしを経験したからだろうか。自分のために作られた料理をありがたいと思うし、おいしいと感じることは幸せなことだと思う。
私はふいにマヨイガのことを思い出した。
だがあのとき食べた料理は洋風で、今日のまかないとは似ても似つかない。どうしてふいに記憶がよみがえったのだろうと自問し、そのうち可笑しくなって口もとが緩んでしまった。一瞬釉人が気味の悪そうに視線をこちらによこしたが、私は箸を動かす手を休めず、釉人よりも先に完食した。