episode 4 舌先三寸も商売のうち
アイリスに勤めだして十日も過ぎたころ、私の仕事はほぼ流れができ、手持ち無沙汰であることもなくなった。
朝の九時半。アイリスの勝手口から出社し、私は制服に着替えるためバックヤードにこもる。白いブラウスに黒のスラックス、そして仮のカフェエプロンがアイリスの制服だ。私がショートボブであるせいか、髪をまとめろなどという注意はされたことがない。清潔感にさえ気をつけていれば問題がないのだろう。
着替えの最後に祖母から譲り受けたパールのイヤリングをつけ、姿見の前で全身をチェック。不備がないことを確認して、ホールへと繰り出す。
私の仕事は店の前を掃き出すことから始まる。朝十時になればアイリスのプレートをオープンのほうへひっくり返し、いよいよ開店だ。
店を開けたからといって、ホールに立てるわけではない。私はすぐに勝手口を出て、軒下にある二層式の洗濯機を回しはじめなければならないのだ。アイリスのブラウスやスラックス、カフェエプロンはすべてここで洗っている。
夏である今時分は問題ない。むしろ水の中に手を突っ込めば清涼感を得られていいだろう。だが雪がちらつく真冬にこの作業をしなければならないと思うと憂鬱だ。
洗濯機が回っているあいだに、通帳をもって駅前のATMへ記帳に行く。このときにまかないの材料や切らしてしまった店の備品、たとえばコーヒー豆や文房具などを調達する。
アイリスに戻ってからは洗濯ものをすすぎにかけ、待ち時間に通帳をもとに入金伝票を処理する。滅多にないが、支払が滞っているお客には催促の電話をかける。これらはすべてバックヤードで行う仕事だ。ホールでは釉人が接客したり、アンティークカップを見つめてうっとりしていたりする。
脱水を終えた洗濯物を干し終わるころには、昼も目前だ。大急ぎで給湯室に入ってまかないの準備を始めると、高確率で工さんが勝手口から出勤してくる。のんびりとしたオーナーなのだ。
まかないを食べ終わったあとは、ホームページのリニューアル……という名の勉強タイム。釉人から店の在庫のアンティークカップを逐一説明させ、私は知識を増やしていく。
日が傾きはじめたころに洗濯物を取り込み、アイロン掛け。それが終われば最終記帳へと出かける。アイリスに戻るころはだいたい夕方六時ごろ。入金伝票を整理して、六時半には店を閉める。
私はアイリスのドアにかかったプレートを、クローズのほうへひっくり返した。
「今日もお疲れさまです。僕たちは先日入荷したカップの整理をしますから店に残ります。彩さんは帰宅されていいですよ」
「それって梱包されたカップの荷解きってことですよね。私にも手伝わせてください」
私はチャンス到来と食いついた。アンティークカップの現物を前にして、工さんたちがどういうふうにアンティークカップをチェックしているのか知りたかったのだ。
最近はホームページのリニューアルと称して専門書を読み進めているため、多少なりとも専門用語は覚えた。たとえばこのあいだ釉人がミントンのカップを説明したときに出た単語、ジュールと貫乳。辞書をひもといてみると、ジュールとは宝石に色を似せた透明もしくは不透明のエナメルを釉薬の上からつけたもののことを指すらしい。これは釉人も言っていたことだが、筆先で等間隔かつ同じ大きさにドットを打つことは非常に難しく、熟練した技術と集中力を問われる技法なのだ。
そして貫乳。これはガラス質の表面に入った無数の細かいヒビのことである。このヒビに茶渋やカビがついてしまうと、磁器の寿命を縮めてしまうのだ。
こんな具合で知識としては、確かに私のなかにある。だがやはり、実際に見て、手に取って、学んでみたい。
「そうですね。彩さんにもいずれフロアに立ってもらいたいですし、一緒に残業しましょうか」
「はい」
工さんという後ろ盾があれば、釉人の態度も緩和される。私は弾まんばかりに首肯した。
西の空にほんのりと輝きが残るころ、釉人はバックヤードから、工さんは車のトランクから段ボールを運び出し、次々とフロアに並べはじめた。私はそれらを開封し、商談用のテーブルに並べていく。途中釉人からは何度もアンティークの扱いには重々注意するようにとの指導が入った。
「番号三番。ハンドルに擦り傷……ソーサーにわずかなペイントロスあり」
釉人がひとつひとつ丁寧にコンディションを確認し、問題のある箇所に半透明の付箋を貼っていく。私はフロアに座り込み、釉人の言った内容を店のノートパソコンに書き留めた。
カップの取っ手の部分をハンドルと呼び、ペイントロスは絵柄の一部乖離を指す。指摘されなければ分からないほどの微々たる剥げだったが、釉人はソーサーを一瞥しただけで、すぐに不具合を指摘した。
釉人の人柄は好きにはなれないが、目利きの技量は尊敬できる。
そんなことを思っているあいだにも、チェックし終えたアンティークカップは番号を重ねていく。途中、クラックという言葉が聞こえたので、私は顔を上げた。
アンティークカップに最も多い損傷のひとつに、ヘアーライン・クラックと呼ばれる傷がある。おもにカップやソーサーの縁から中央部にかけて入りやすいらしいのだが、一度実物を見てみたかった。なにせこの傷は新しいものであればあるほど見つけにくく、爪で弾いてみると磁器特有の澄んだ音がせずに重い音がするらしい。
「釉人さん、そのクラックが入ったカップ、私にも見せてください」
「……はあ? なんであんたに……」
釉人の嫌味は無視して、私はカップをつまみ上げた。
「うわっ、もっと! やさしく! ていねいに!」
カップの底に付箋が貼られていたが、光に当ててみてもよく分からなかった。すると工さんが私の行動の意図を察してくれたらしく、一緒になってカップを覗き込み、一本線を引くように指を動かす。
「これですね。古いクラックだと茶渋なんかで汚れていて見つけやすいんですけどね」
「音が違うと専門書に書いていました」
「はい。クラックがあると音が響かないんです。耳で聞き分けるほかにも、指や爪で引っかかりがないか確かめたりします」
「へえ……」
「でもやっかいなことに、音でも爪でも見分けのつかないクラックもあるんですよ。そんなときはなにを使って判断すると思いますか」
私は首を傾げる。工さんは自らの唇を人差し指で指した。
「舌です」
「……舌? 舐めるんですか? 直接?」
「もちろん。疑わしき箇所をじかに。舌はデリケートですから、目では判断できないような抵抗にも気づきやすいんです」
私は改めてカップを覗く。このアンティークカップは実用にではなく、ディスプレイ用だったのだろう。底のほうに綿のような埃が溜まっていた。
「汚れ、気になりますよね。でもたったひとつのクラックが買い付け価格に大きく影響することもあるんです。アンティークカップを適正な価格で手に入れるためには、少々不衛生な手法もやむをえないです」
私は釉人へと視線を移した。腕組みしてこちらを見つめていた彼と目が合う。
「なんだよ」
「いえ」
「舐めたとか舐めていないとか下衆な勘ぐりをするな。俺はアンティークに愛があるし、なにより信念と覚悟をもって仕事してんだよ」
「はい」
「番号八番。口縁の金彩に微細な瑕」
釉人は私の返事にかぶせるようにアンティークのコンディションチェックを再開させた。
私は釉人の言葉を打ち込みつつも、狐につままれたような感覚に陥っていた。釉人が実際に汚れたカップを舐めたのかどうかよりも、工さんに講釈を求めた私に対し、止めることも急かすこともしなかったことが、なんだかとても意外だった。
*
ある日、バックヤードでアイロン掛けをしていると、フロアのほうから声が聞こえてきた。おそらく来客があったのだろうが、アンティークカップにまつわる知識のない私はフロアに立つことを許されていない。
仕方のないことだと気を取り直して袖の部分にアイロンの鋭角を押し当てていると、朗らかな笑い声が聞こえてきた。私は驚いてバックヤードとフロアを隔てるドアを見る。間を置かずに、再び弾むような声が響いてきた。その声はまぎれもなく釉人のものだ。
「え……えぇぇぇ……」
私は自分の耳が信じられなくて、アイロンを切って立ち上がった。そしてドアに近づいて、ゆっくりとドアノブをひねってフロア側へ押し出す。
ドアの隙間から窺うと、釉人と客は店の出入り口から見て右手にあるコレクションボードの前で談笑していた。彼らはこちらに背を向けていたが、ときどき横顔が見える瞬間もあって、微笑む釉人を目の当たりにすることができた。
不覚にも私は釉人に魅入ってしまっていた。釉人は私と接するときは常に仏頂面だったし、笑顔を向けられてもそこには必ず冷ややかなものや、蔑みが混ざっていた。
それなのにいま常連客に向けられている笑顔はどうだろう。兄である工さん譲りの柔らかい物腰に、釉人が本来もっている涼やかな容姿が作用して、彼の笑みには貴船の川床に足を浸しているような清涼感さえあった。
そしてさらに驚くべきことに、そこの魅惑の優男は客相手に歯の浮くような台詞を滑らかに語っているのだ。
「梶原さま、本日身につけていらっしゃる指輪も素敵ですね。梶原さまがお選びになるものはいつも洗練されている。その審美眼に感服するばかりです」
常連客である梶原さまの返事は聞こえなかったが、小さく笑っているような仕草が見てとれた。
「もしご迷惑でなければ、もっと間近で拝見させていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
釉人はそう言うと、突然その場にひざまずいて梶原さまの手を取った。私は中腰になったまま「わあお」と呟く。
一方、梶原さまは私とは違って動揺の素振りも見せない。左の指にはめているウズラ卵ほどの黄色い宝石を、釉人の好きなようにさせていた。
「梶原さまに大切にされていること、一目見ただけでよく分かります。それにしても、ああ……こうやって間近で拝見すると、美しさに圧倒されてしまいますね」
「釉人さんは本当にトパーズがお好きなのねえ」
梶原さまは釉人に手を預けつつ、控えめな調子で笑った。
「えっ?」
「だってあなた、前にもまったく同じことを仰ってたもの」
その瞬間、私の空耳だろうか、ぐっと言葉に詰まった釉人のうめきが聞こえたような気がした。
以前にも同じ台詞で同じ女性を褒めたらしい釉人。これはもう目も当てられない痛恨のミスではないか。
事態をうまく納めるには釉人が道化に転じ、謝罪するという一択しかないだろう。私は無意識のうちにドアの隙間を広げ、ふたりの一挙手一投足を見守った。
だが、釉人はさすがだった。
「……お恥ずかしい。僕の嘘がバレてしまいました」
「そうね。さすがに二度目は聞き飽きたかしら」
「なにかに理由をつけて梶原さまのお手に触れたいだなんて、浅はかな考えだとお笑いください。……梶原さまの肌は磁器に似ています。繊細で幽遠。だから慈しむように扱うんです。ほら、こんなふうに」
釉人はひざまずいたまま、梶原さまの手に顔を近づけ、甲にそっと唇を落とした。
「え……えぇぇぇ……」
私は思わず弱々しいながらも驚嘆の声を洩らしてしまった。釉人を軽くなじっていた梶原さまも、目を見張って釉人を見下ろしている。
釉人は恥じらう素振りもなく、ポーカーフェイスで一連の行動をやってのけた。そして私と梶原さまの視線を独り占めにしたままその場から立ち上がり、再びアンティークカップの話を興じはじめる。まるで今しがたの失態などなかったかのように。
私はいい加減中腰状態がつらくなっていたのだが、呆然と固まったまま動けなかった。それほどまでに釉人の舌先三寸のセルフカバーは、見事としか言いようがなかったのだ。
結局、梶原さまは釉人がしきりに勧めていたアンティークカップとプレート、そして他二点のアンティークカップを購入され、私が見る限り気持ちよくお帰りいただけた。私の数ヶ月分の給料に値する金額がいともあっさりと動いたのである。
頃合いを見計らってバックヤードから出ると、まったく同じタイミングで工さんが給湯室から出てきた。そして隠すことなく呆れ顔を披露する。
「鮮やかな手口だったね」
「……盗み聞きするなよ」
「人聞きの悪い。僕だってフロアに出れなくて困ってたんだよ。彩さんだってそうでしょう?」
私はこくりと頷く。工さんが手招きしてくれたので、私も釉人と工さんの輪に混ざった。
「いくら売り上げのためとはいえ、リップサービスもほどほどにしとけよ。口先だけの甘言だってバレてしまうと、僕たちだってなにかしらの迷惑をこうむるかもしれない」
「へーへー」
「……なんだっけ? 梶原さまの肌は磁器に似ています? 繊細で……?」
「幽遠」
横から助け舟を出したら、釉人に睨まれた。
「うるさいな。わーってるって。それにミスだってちゃんと挽回しただろ。ったく、だいたいアクセサリーなんていちいち覚えてるかってんだよ」
見間違えようがないほど、大ぶりな宝石がついたリングだったけれど。
そんな私の心のぼやきが読まれたのか、釉人がこちらを向き、露骨なほどに嫌そうな顔を作った。
「女は女のファッションに敏感だ。そーゆーもんだろ? 俺はアンティークに関してはすべてを捧げるつもりだけど、それ以外のことには無駄に記憶の容量を消費したくねえの」
「……じゃあ、梶原さまの服装も覚えていませんか」
控えめに訊ねたのだが、釉人の眉が跳ね上がったのを見て、言わなければよかったと後悔した。
「はあぁぁ? 覚えてるわけねえだろ。じゃあなに、あんたは逐一覚えてるっての?」
「逐一ではないんですけど、梶原さまの格好はパッと見ただけでもいい品物だと分かるし、だからちょっとひと目を惹くというか……」
釉人が無言でにらみを利かせてくる。私は敏腕刑事に疑いをかけられた被疑者の気持ちになり、潔白を主張するかのごとく覚えていることを口答した。
「梶原さまが今日着てらっしゃったのは、ベージュ地に黒いジオメトリーのワンピース、そのうえから薄手の黒いカーディガンを羽織られていました。首には金の……おそらくメダイユでしょうか……とにかくコインのようなものが鎖骨あたりで光っていました。バッグはメタリックブラウンのメッシュレザー、足もとは赤のパンプスです。たしか前回来店されたときも、このパンプスの色違いを履かれていました。ちなみにそのときの服装は、鎖骨部分がシースルーになったオフホワイトのワンピースに、胸もとにルビーとダイヤのボウブローチ……」
「ちょ、ちょっと待て」
釉人が手をかざしてまで制止にかかったので、私は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「はい」
「前回って……なに?」
「えっ」
馬鹿にするような口ぶりではなく、本心からの疑問のように感じられたので、私も一瞬言葉を失ってしまった。釉人をよくよく見てみると、その瞳には少し怯えのような色が混ざっている。それは、常識の範疇を越えた未知のものと遭遇した恐怖に似ていた。
「私が初めてアイリスに来たとき、梶原さまがいらっしゃいましたよね。お相手は釉人さんが……」
「あのときの身なりをすべて覚えてるって言うのかよ!」
私の言葉を遮って、釉人が絶叫した。
すべて、と言われると自信がない。でも彼女のことは印象的だったし、はっきりと記憶に残っていたことはたしかだ。
「まあまあ、彩さんを責めるような話じゃない」
なんと言って話を繋げたらいいのか分からず言葉を探していると、工さんが鷹揚に割り入ってきた。
「次回梶原さまがご来店されたら、彩さんに服のチェックをしてもらってからリップサービスすればいいじゃないか」
「俺は真面目に話してんだよ!」
釉人は傍目にも分かるほど憤怒しつつ、やってられないと言い残して給湯室へ消えていく。
ふたりっきりになった私と工さんは、顔を見合わせた。
「……冗談なのに」
工さんの呟きに首肯していいものか分からず、私は「はあ」と気の抜けた返事をした。