episode 30 ライバルにさえなれなくて
ストーカー暴行事件以来、美樹がアイリスにやってくる頻度は激減した。店に足しげく通っていたのも釉人が目的というより自己防衛のためと言っていたが、それは方便ではなかったらしい。
ふたりが楽しげに戯れる姿を見ずにすむのはなによりだが、最近になって美樹は案外水を向ければ簡単に釉人の情報をリークしてくれる貴重な情報源であることに気づいた。彼女との接点が減ってしまったことを惜しむとは、なんて私は現金な女なのだろう。
私は背後にあるバックヤードの扉が完全に閉まっていることを確認し、パソコンのディスプレイと向き合った。アカウントを取得したっきりになっている自分のSNSのページを開く。少し仕様が変わっていたので少々戸惑ったが、無事にメッセージをしたためることができた。
メッセージを送った相手は美樹だ。レスポンスをもらえるかは正直賭けだったので、送信から十分以内に色よい返事がもらえたときはホッと安堵のため息を漏らした。
そういうわけで今日の昼、私は店の外で美樹と会う。
美樹に指定されたとおり、私は店の昼休憩を利用して駅のそばにあるカフェに出向いた。美樹のご指名の店は遊歩道にパラソルを出したオープンカフェだ。各テーブルにはワインレッドのクロスが敷かれ、そのうえに一輪挿しが飾られている。カジュアルでありながら上品なイメージを損なわないような、正直私には縁遠い店だ。客もお洒落に敏感な層ばかりで、いまからこのなかに混じらなければならないかと思うと少々億劫な気持ちになった。
「彩、こっち」
美樹からは遅れるかもしれないと前置きされていたが、すでに到着していたらしい。彼女はひときわ華やかな出立ちで、いまも撮影続行しているのではないかと錯覚してしまうほど洗練された美貌を周囲に振りまいている。
それに対して私はどうだろう。アイリスで着ている白いワイシャツと黒のスラックス、それだけだ。
気後れしつつ席に着くと、すかさず美樹がメニューを差し出してきた。
「あたしはもう頼んだ。さっきまですぐそこの公園で撮影してたの。このあとも撮影があるから、ちょっとしか時間はとれないよ」
「少しの時間で十分です。忙しいなか時間を作ってくださってありがとうございます」
美樹の言葉はいつも通りツンケンしているが、注意して聞くと口調はそう刺々しくないことが分かる。表情も変化に乏しいが、悪意を向けられていないことは明白だ。
こんな具合で私は美樹のテンションを空気で探りつつ、カフェのスタッフにオーダーを通してもらった。美樹のテーブルにはすでにサラダと飲み物が運ばれてきたので、私が頼んだモルディブカレーと同じタイミングでメイン料理がやってくるのかもしれない。そう思っていたのに、私の頼んだ料理がやってきたあとも美樹のテーブルはなかなか次なるプレートがやってこなかった。
呼び出したのは私なので、先に完食するのも気が引ける。
ひと口味を試したっきりスプーンを置くと、美樹が不審な視線を寄越した。
「なんで食べないの」
「美樹さんの料理、まだですよね」
「きてるじゃん」
「……サラダだけ?」
美樹は当然といった顔をして、フォークで変わったかたちのレタスを刺した。
「このあとも撮影があるって言ったでしょ。それにあたしは万年ダイエッター」
「ダイエットの必要なんてないくらい細いのに」
それはお世辞ではない。見たままの感想を述べたまでだ。だが美樹には癇に障ったらしく、じろりと睨みつけられた。
「……あたしの食事事情を探るために呼び出したわけじゃないんでしょ」
「あ、はい。たぶん美樹さんはもう察していると思うんですが……」
「ああ、釉人のこと?」
美樹の機嫌をこれ以上損ねてはならないと話を強引に確信へと近づけたところ、作戦は功を奏したらしく、美樹のテンションはすぐにニュートラルな状態に戻った。このまま話題が間延びしないようにと、私は言葉を続ける。
「私、何度か釉人くんと一緒に瑞江さんのお見舞いに行ってるんです」
「知ってるよ」
「えっ……」
当然のように相づちを打たれて驚いた。瑞江さんの見舞いに行くということは、かなり釉人のプライベートに入り込んだ状態だと言っても過言ではないだろう。それなのに長らく看過されていたとは、私は相当美樹に見くびられていたということになる。恋の相手にもならないと、烙印を押されたのも同然だろう。
「あたし時間ないって言ってるよね。たびたび黙られるの困るんだけど」
「すみません。その……釉人くんが瑞江さんのことで悩んでいるようだったので気になって」
「ばあちゃんのことで? いま状態も落ち着いてるんじゃなかったっけ。手術の日程もそろそろ分かるとかなんとか……」
「はい。瑞江さんの体調は変わりないんですけど……釉人くんは瑞江さんの退院までになにかをしたい様子でした」
釉人の恋人役を引き受けているという件はあえて口にしなかった。もしかしたら美樹はそのことさえも知っているかもしれない。けれど、やはり自ら宣言する気にはならなかった。不利な私に残された、たったひとつの切り札であるような気がしたからだ。
「私は釉人くんの力になりたいんです。困っているなら私ができうる限り助けたい。もっと……釉人くんのことを……知りたいです」
想いを忠実に言葉にしたつもりだが、まだまだ不完全で歯がゆかった。
釉人を想う気持ちはこんなものではない。釉人からかけられた言葉や受けた行為は可視化したうえ固めて取っておきたいほど美しいと思えるし、その一方で他人を押しのけても釉人のすべてを奪いたいと願うほどドロドロと醜い色をしている。
ほんのいっとき訪れた沈黙に、私は再びスプーンを置いた。本当は釉人の悩みを知るために美樹に知恵を乞うはずだったのに、馬鹿な流れを作ってしまったと思う。
美樹は、今一度宣言した私の釉人への想いをどう受け取るだろう。
「……釉人がばあちゃん絡みで悩んでることってさあ……やっぱり施設のことじゃない?」
「えっ」
「釉人と同時期にいた施設の子を集めて、ばあちゃんを囲みたいのかもね」
しゃくしゃくと小気味のいい音が上がるのは、美樹がセロリを食んでいるからだ。そんな彼女のことを、私はきっと間抜けな面をして見つめ返していたに違いない。
予見していた美樹の反応は不快感を露にするか、はぐらすか、その二択だろうと思っていた。それだけに真っ当に思案する彼女に驚いてしまった。
なにより一番衝撃だったのは、彼女がひねり出した言葉が釉人の悩める真実に限りなく近い気がしたことだ。
卵の薄皮のような、貧弱だけれど不快な罪悪感が心にまとわりつく。
それはどこか敗北に似ていた。
「……たぶん、それ、正解です」
「そう? 釉人はばあちゃんっ子だったからね。ばあちゃんのためならって思いは、あたしらんなかで一番強いと思う」
「……たしかに釉人くんは義理堅いところがありますもんね」
「ね。だからさ、釉人なりに恩返しがしたいんじゃない?」
「恩返し……ですか」
美樹の台詞を唇でなぞる。彼女のひらめきに、私はただただ釉人と美樹の共有した時間の長さを痛感させられていた。
「いや、恩返しじゃないな。つぐないのほうが近いかも。しょっちゅう馬鹿なことしてばあちゃんに怒られてたもんね。いまさら後悔しててもおかしくない」
「つぐない……つぐないって、それ……」
工さんも同じフレーズを口にしていた。
「彩?」
「……あ、いえ。私にはない発想だったから驚いてしまって……。ありがとうございました。美樹さんに相談してよかったです」
「…………そう」
私は工さんの〈つぐない〉を美樹に訊ねることはしなかった。
こんな少しの会話で心が疲弊して、この場を盛り上げる気力さえもなくしてしまうなんて、恋を認めた私は自分でも嫌になるほど幼稚で矮小だ。
それでも私は頑として新しい話題をふらなかった。美樹もムッツリと黙り込んだまま、トロピカルな色をしたジュースを飲んでいる。私もカレーを食べることに専念し、その後も私たちのテーブルは盛り上がらなかった。




