episode 2 アンティーク馬鹿・釉人
骨董コレクション・アイリス初出勤の本日、いつもよりも早く目が覚めた。天気はあいにくの曇り空だったが、気持ちはピリッと引き締まっていた。
家を出る前に、姿見で全身をチェックする。上は白いブラウス、下は黒のスラックス。ブラウスは自前だが、スラックスとカフェエプロンは後日支給されるらしい。
全身に続いて、今度は顔を近づける。きちんと睡眠を取ったので肌つやは良好だ。奥二重の目も腫れぼったくない。先日整えたばかりの前下がりのショートボブは襟足がすうすうするけれど、これからの季節ぴったりだろう。
最後に気合いを注入すべく、二十歳の祝いに祖母から譲ってもらったパールのアンティーク調イヤリングをつける。今度の就職は成功しますようにと、密かに願掛けした。このイヤリングには祖母の幸せがたくさんつまっているから、きっとあやかれるはずだと信じて。
自宅からアイリスまでの距離は車で五分、自転車で三十分程度だ。母のティーカップを買い取ってもらった日は家族から車の使用許可が出たが、通勤に使うことには承認されなかった。だからこれからは自転車通勤である。
自転車は不思議だ。視線の高さが変わるだけで妙にわくわくする。東京では電車通勤で自転車自体ご無沙汰だったことも、この高揚に一役買っていると思う。
過度の湿気もなんのその。私は梅雨の中休みを自転車で颯爽と駆け抜けた。
アイリスの開店時間は十時ジャスト。初日は挨拶や業務内容の説明などをされるだろうから、三十分前に着くようにした。
呼吸を整えて、ガラス張りの木製ドアを押し開ける。頭のなかでドアチャイムの音を思い描いていたが、なんの音も聞こえてこない。鍵がかかっていて開かないのだ。従業員専用の勝手口があるのだろうかとあたりを見渡していたら、内側からドアが開いた。先日私をスカウトしてくれた工さんだと思いきや、まったくの別人だった。
彼は困ったような顔をしつつも、口もとに笑みを浮かべて言った。
「申し訳ございません。開店時間までいましばらくお待ちください」
「いえ、私は……」
「あっ釉人。そのひとはお客さんじゃないよ。このあいだ話しただろう。今日から入ってもらうんだ」
釉人と呼ばれた男性の後ろから聞き覚えのある声が上がった。工さんのものだ。
私は成り行き上、釉人さんに頭を下げる。だが釉人さんは早々に笑みをしまい、片手でドアを開けたポーズのまま私を睨め付け、ひと言も声を発さなかった。
「こらこら。釉人がそこにいたら彩さんが入れないだろう。彩さん、今日はそこから入ってください。でも明日からは給湯室の勝手口から出入りしてくださいね」
工さんは釉人さんを押しのけて、私を店内に引き入れてくれた。ふたりのあいだに私への対応の温度差があることに気づいてしまい、少々居心地が悪い。
店に入ると、さっそく工さんからアイリスの制服の黒いギャルソンエプロンを渡された。シャツの上から着用するがこれはまだ仮のもの、かつメンズ用なので、私が着るとロングスカートのようになってしまう。
ちなみに工さんも釉人さんも白いシャツに黒のスラックス、そしてギャルソンエプロンを着用している。ふたりとも長身かつスマートなので、私と違ってすごくさまになっている。このままドラマの撮影のクルーが押し掛けてきても、なんの違和感もないだろう。そのうち私にも適正サイズが支給されるだろうが、背の低い私では不格好なコスプレになってしまうに違いない。
小さくため息ついたとき、掃除機をかける釉人さんが視界に入った。指どおりの良さそうな黒いストレートヘアーに、肌トラブルなどひとつもない面長の美肌。陰影が生まれるほど隆起した鼻梁と、やや大きめの唇。なにより惹かれるのは、切れ長でややつり上がった三白眼の目だ。涼やかで狐を想起させられる魅惑的な瞳に、思わず魅入ってしまう。それらのパーツがバランスよく配置され、彼から妖艶な雰囲気が滲み出ていた。
ふと釉人さんは掃除の手を休め、コレクションボードに陳列されたティーカップに手を伸ばした。私の位置からは詳細な造りは分からないが、カップの内側が黄金色に光り輝いているのが見える。カップの外側ならともかく、内側が白色以外のものなど初めて見たので、物珍しさから釉人さんの手もとをまじまじと見つめてしまった。
そのとき、明かり取りの窓から朝の光が差し込んできた。ティーカップが光を飲み込んで、釉人の手のひらに光の珠が生まれる。ティーカップを見つめるその瞳はひどく柔らかい。慈しむような視線に、私は記憶のフタが揺るがされるのを感じていた。
あの特別な夜のひととき。マヨイガーー。
すると私の視線に気づいたらしい釉人さんと目が合ってしまった。私はどうリアクションをとればいいのか分からず、その場に固まってしまう。
言葉のあやなどではなく、突き刺すような眼差し。物理的に傷つけられたわけではないのに、すごく胸が痛い。
私が微動だにできなかったそのあいだ、釉人さんは興ざめした様子で軽く息をついた。そしてなにごともなかったかのようにティーカップを戻して再び掃除機をかけはじめる。容姿が優れているだけに、私を空気扱いする仕草はより辛辣に感じた。
「彩さん、エプロンはつけましたか。ああ、いいですね。すごくお似合いです。うちの店もぐっと華やかになりました」
店の奥から工さんが現れ、一滴の澱みも含まない完璧な笑みを披露した。その笑顔を見て、私は少し安堵する。つんけんした釉人さんと接したばかりだからだろうか、工さんが紳士に見えた。
「それでは改めて従業員の紹介をしましょう。釉人こっちに。ミーティングだよ」
工さんの言葉を受けて、釉人さんは無言で掃除機を切った。面倒くさいという彼の心の声がありありと聞こえてくる。
工さんは釉人さんの静かなアピールには取り合わず、自己紹介をはじめた。
「僕は陶国工。骨董コレクション・アイリスのオーナーです。この店は開業七ヶ月の生まれたての店です。僕も骨董の店を持つのは初めてなので、いろいろと不手際が生じてしまうこともありますが、ここにいるスタッフのみなさんと一緒にアイリスを居心地のいい空間につくりあげていきたいと思っています。どうぞよろしく」
開業七ヶ月と聞いて、私は頭のなかで逆算する。私が前の職場を飛び出したのは、木枯らし吹く秋のことだった。つまり、私がマヨイガに出逢ったころ、まだアイリスはこの世に存在してなかったーー。
現実を突きつけられ、私は一気に落胆してしまった。
やはりマヨイガは存在しない幻の店だったのだ。
「つぎは釉人。はい、自己紹介して」
「……アイリスのバイヤーでーす」
「……こーら。ちゃんとして。なにごともはじめが肝心だろう」
工さんにたしなめられて、釉人さんは一度深くため息をついた。
「アイリスのバイヤー兼売り場担当。陶国工の弟、二十五歳。三度の飯よりファーストクオリティのアンティークカップが大好物。最近一番興奮した戦利品は……」
「ストップ。もういいよ。極端なやつだなあ」
工さんが横やりを入れて、釉人さんを止めた。釉人さんの言葉に驚いた私は、不躾を承知でふたりを見比べる。私は内心、こんな小さな店に信じられないほど整った顔立ちの男性がふたりもいる奇跡に驚いてはいたが、まさか兄弟だとは思わなかった。
だが兄弟という知識を得ても、ふたりの類似点が見つからない。兄の工さんは華やかな顔立ちだが、釉人さんは海に揺らめく月光のように透き通った静けさをまとっている。ふたりを季節に例えるなら、工さんは躍動の春、釉人さんは黙考の秋といったところだろうか。
「じゃあ最後に彩さん、どうぞ」
すっかり惚けていたところ工さんに水を向けられたので、私は姿勢を正した。
「黒金彩、二十四歳です。このたびUターン転職でご縁をいただきました。早くアイリスに馴染めるよう、精一杯頑張ります」
「……Uターン?」
釉人さんが眉を跳ね上げ、私へ質問を飛ばした。ようやく彼は新人スタッフに興味をもってくれたらしい。私は平常心を装って答える。
「東京に出ていました」
「ふーん。どこの店にいたの。いくら東京でも、アンティークのティーカップ専門店ってなかなかないだろ」
私は一瞬まごついた。私の経歴がうまく伝わっていなかったらしい。ありのままを話していいのか分からず、私は工さんに視線を送る。すると工さんはひと言で釉人さんを制した。「女性に過去を聞くなんて、ずいぶんと無粋な真似をする男だね」
釉人さんが白けたようにミーティングの輪から離れ、再び掃除機をかけはじめた。その音にまぎれて、私はこっそり工さんに窺う。
「前職は内緒にしたほうがいいのでしょうか」
「釉人はここのところ仕入れに関して厳しい状態が続いていまして、ちょっとピリピリしてるんです」
「……はあ」
「様子を見て、いずれ僕のほうから話しますから」
その後、私は工さんに誘導されて店内をめぐり、事務作業用のパソコンや在庫をストックしているバックヤード、おもにまかないを作るための給湯室、勝手口から外へ出て左手に控えている洗濯機など、あるべきものの位置の説明を受けた。
まかないが出ることはありがたいが、料理は当番制であるらしい。私は最近まで独り暮らしをしていたけれど、仕事に忙殺されて自炊をした記憶がない。誰かのために料理を作るなど、何年ぶりのことになろうか。
それから私が担う業務に洗濯が含まれていることも驚きだった。物干竿を置くことしかできないこの坪庭に、シャツやエプロンがはためくらしい。野外での洗濯も夏は爽快で気持ちがいいだろうけれど、冬は地獄だろう。なにせ洗濯機は二層式なのだ。
ひととおり店内の案内が終わったころ、本日ひとり目の客がやってきた。身なりのよい六十代くらいの女性で、工さんの耳打ちによるとアイリスの一番の常連客で梶原さまというらしい。工さんはとにかく、私に対して仏頂面しか見せなかった釉人さんが瞬時に微笑を浮かべて歓迎したので、この上品なマダムが相当アイリスに貢献してきたことが窺い知れた。
釉人さんは梶原さまと談笑しつつ、店の最奥のボードへと向かって行った。工さんは店にかかってきた電話に出てしまったため、私は誰からも指示を与えられず、ぽつねんと佇む。
給湯室で洗い物をしているフリでもしようかと考えていると、からんからんとドアチャイムが鳴った。ドアへと目をやれば、私の母親くらいの中年女性が立っている。
ふたり目の客だ。紙袋を手にした彼女は、手持ち無沙汰な私を見るなりずんずんと歩み寄ってきた。
「ここって鑑定もやってるのかしら。いえね、納戸を整理してたら素人目に立派なものが出てきちゃって……、ほらこれ、古めかしいでしょ。カップの後ろに文字が描いてるから、いいものかもしれないってウチの娘が言いはじめちゃって。だから一度プロのひとに見てもらおうと思ったのよね」
おばさんは私の顔をちらりと見やったあと、ごそごそと紙袋を漁っては私へ次々と箱を押し付けてくる。落としてはいけないと商談用テーブルに運んだとき、ふと釉人さんと目が合った。だが彼はこちらを一瞥しただけで、再び梶原さまと話し込んでしまった。一方工さんのほうは電話の相手と商談しているようすで、応援は見込めそうもない。
私は観念して頭を下げた。
「すみません。分かる者がただいま接客中ですので、少々お待ちください」
「……あら。あなた詳しくないの?」
「申し訳ございません。勉強中の身です」
素直に白状すると、目の前の客は渋面を作り、取り出したばかりの箱を再び紙袋に戻しはじめた。
「……もういいわ。そんなに時間が取れるわけでもないし、またお願いするわね」
「あっ……」
「お待たせしました」
ひとりの客を逃してしまいそうになったそのとき、私の背後から声が上がった。振り返れば釉人さんが立っている。
「不手際があり申し訳ございません。ご要望はわたくしがお伺いいたします。お席へどうぞ」
釉人さんはそう言って、お客さまには分からない角度で私を押した。邪魔だという意思表示だ。私は彼の意志をくんでふたりから距離をとり、店の隅で小さくなるほかなかった。
客の目の輝きが消え、期待はずれだという表情の変化に心がざっくりとやられた。恥ずかしくて、情けなくて、梶原さまのほうも見ることができなかった。
その後釉人さんは持ち込まれたティーカップを鑑定し、双方が納得する価格にて買い取った。私の不慣れな接客ぶりに白けていたお客さまも、店を去るころには上機嫌になって今度は友人を連れてくるとまで豪語していた。それもこれも持ち込まれたアンティークを釉人さんが分かりやすく丁寧に説明し、なおかつお客さまを上手に持ち上げた成果だ。
そしてーー。
「おい」
ふたりのお客さまが去ったあと、私はさっそく釉人さんに詰め寄られた。覚悟はしていたが、怒気を隠さない釉人さんの表情に肌が粟立ってしまった。
「……あんた骨董業の経験者じゃないのかよ。前職はなんだ。なにやってた。まさかアンティークの〈あ〉の字も齧ってないとか言わないよな」
「すみません。アンティーク業は未経験です。私の以前の職種は……」
「はあ!?」
説明の途中で釉人さんが素っ頓狂な声を上げた。私は瞬時に口をつぐむ。いまこのタイミングでありのままを語ってはいけないと本能が告げている。
「ああ、待って待って。彩さんは僕の強い希望で店にきてもらうことになったんだ」
私が固まっていると、工さんがレジカウンターから身を乗り出し、私たちにストップをかけてきた。見れば受話器を本体に戻している途中で、狼狽ぶりが窺い知れる。
工さんがこちらに来るのを待ってから、釉人さんは開口した。
「どういうことだよ」
「彩さんはすごく物覚えがいい。いまはアンティークに詳しくないけれど、近い将来きっとアイリスになくてはならない存在になると思うよ」
「アイリスになくてはならない存在。は! 使い物になるまでどれくらいかかると思ってんだよ。さっき自分でも言ってたじゃねえか、うちは開業七ヶ月の店だって。ただでさえ金銭面に余裕がないのに、客あしらいもできない従業員雇ってどうするよ。負債でしかないじゃないか」
負債という言葉がずんと頭に乗っ掛かった。せっかく私に可能性を感じて雇ってくれた工さんに申し訳なく、まともに顔もあげられない。
自分のつま先を見ていたとき、私の肩になにかが触れた。工さんの手だった。
「釉人、そんなふうに言うもんじゃない。誰だってはじめは初心者だろう。それにこの店のオーナーは僕だ。僕がいいと思ったから彩さんを雇ったんだ」
肩に乗せられた手のぬくもりを感じつつ、顔を上げる。工さんは柔らかい口調だったが、厳しい瞳をしていた。
ほんの数秒ほどの短い時間であったが、私たちのあいだに沈黙ができた。
「……おにーさまがそのようにお望みなら、仰せのままに」
釉人さんが抑揚をつけることなくそう言い放ち、私たちから離れていった。そして買い取ったばかりのカップを箱詰めし、バックヤードへ向かって行く。
それを見届けると、工さんは私の肩から手を外し、すみませんと謝罪を口にした。
「僕の判断ミスで嫌な思いをさせてしまいました」
「いえそんな……。でも私を雇って大丈夫ですか。もし工さんの善意なら私……」
「どうか退職なんて考えないでください。それとも彩さん自身が僕たちに嫌気がさしてしまいましたか」
私は素早く首を振った。もちろん横にである。上司から脈絡もなく当たり散らされたり、不眠のうえにさらなる無謀なノルマを課せられたり、前職ではそんな理不尽な経験ばかりしてきた。悲しいかな、私は他人から圧力をかけられることに耐性がついている。
「早く仕事を覚えて、この店の力になれるように頑張ります」
「……よろこんでバックアップします」
工さんは安堵したようで、微笑を浮かべた。
私は気持ちを切り替えるために、深呼吸をした。アンティークに関する知識はなくても仕事はあるし、釉人さんと信頼関係を気づいていくこともできるはずだ。
そこで目についたのが、商談用テーブルだった。そこにはまだ二客のティーカップが残っている。釉人さんはバックヤードに持って行ったので、これらもそこに運べばいいのだろう。
「勝手に触るな」
「……ごめんなさい」
ティーカップに手を伸ばしたとき、鋭い牽制の声がかけられたので、急いで手を引っ込めた。顔を上げれば、バックヤードのほうから釉人さんがつかつかと歩み寄ってくるところだった。
「チップが入ったらどうしてくれるんだよ」
「はい。……あの、チップとは?」
私の質問に、釉人さんは露骨に鬱陶しそうな眼差しをよこした。私は内心びくびくしていたが、ここで怯んではならないとお腹に力を込めて対峙する。目だけは反らさぬよう覚悟を決めて。
すると釉人さんはフンと鼻を鳴らした。
「成り行きで入ってきた完全未経験者が、簡単にプロから教えを乞えると思うなよ」
体温を感じられない淡々とした口ぶりである。なにも言い返せずに黙っていると、彼はテーブルに乗ったカップを箱詰めしはじめた。
私は釉人さんが去っていったあとも、しばらくその場に佇んでいた。釉人さんが放った言葉の意味を熟考するためである。
簡単にプロから教えを乞えると思うなよだなんて、まるでひと昔前の職人のような台詞ではないか。下積みから経験しろという暗喩ならば、学ぶ側の知覚とセンスに頼った非効率な修行だ。
しかし現代に生きる釉人さんがわざわざそんな台詞を口にしたには意図があってのことだろう。暗に私が畑違いの人間であることを指摘したのも、アンティークに対する心構えが見たいがためなのかもしれない。
つまりこれは、釉人さんが私に用意した通過儀礼。
ひとつの答えにたどり着いた私は、きょろきょろとあたりを伺った。工さんに訊ねようと思ったが、物音から判断するに給湯室でコーヒーを淹れている最中らしい。
私はカウンターで目当てのはたきを手に入れ、いざコレクションボードに臨む。店中のカップのほこりを取り除き、かつカップひとつひとつの名称や形状そして配置を覚えることが狙いだ。
私はその場にしゃがみ、コレクションボードの下段に手を伸ばす。金が施された華奢な取っ手をつまみ上げると、このカップにも内側に金が塗られ、眩いほどに光っていた。
私はその輝くさまを見つめつつ、釉人さんに想いを馳せる。
和装が似合いそうな顔立ちでありながら、西洋色の強いアンティーク業を生業にし、ギャルソン風の制服に身を包んだ釉人さん。そのギャップがなんともいえぬ艶かしさを生んで魅力的だった。それに三度の飯よりアンティークが好きだと豪語するだけあって、鑑定するにも貫禄があったし、なによりカップを扱う指がやさしかった。
いつか私も、釉人さんや工さんに並んでアイリスの一員だと胸を張って言えるようになりたい。
そんなことを考えていたとき、しゃがみ込んでいた私の真後ろから大きな声が上がった。
「勝手に触るなって言ったろ!」
「ひっ……!」
突然の怒声に驚き、私は後ろを振り返りつつ立ち上がった。顎へ頭突きしてしまいそうな位置に釉人さんがいて、またもや驚いてしまう。
私は間合いをとろうと後ずさりした。
「あっ、こら馬鹿!」
釉人さんが絶叫をあげたのと、私の背中にコレクションボードが触れたのは、ほぼ同時だった。自分がなににぶつかったのか瞬時に理解し、これから振りかかるだろう衝撃に身をすくめる。恐怖と後悔が織混じった数秒間の世界は、おそろしく長く感じられた。
「彩さん!」
「……くっ」
遠くで工さんの声が、そして頭上から押し殺したような吐息が聞こえた。私は知らず知らずのうちに息を止め、カップを胸に抱いていた。
だがいつまで経っても痛みがやってこない。私はおそるおそる目を開けた。
視界がなにかに遮られている。なにがどうなっているのかさっぱり状況を理解できずにいたところ、左のこめかみに温もりを感じた。目の前を覆うなだらかな丘陵に沿って、ゆっくり視線を向ける。
釉人さんだ。
先ほどよりも超至近距離に顔があったので、私はびっくりしてしまった。とっさに釉人さんを突き出してしまいそうになったが、カップを持っていたために実行できなかった。
釉人さんは上方を見上げている。私はその隙に、視線だけであたりを窺う。
私の肩付近にある、骨が浮き出た大きな手。それも片側だけではない。左右どちらにも骨張った手が横付けされている。
カッと顔が熱くなってしまった。頭の中身がすべて灯油に変わり、火のついたマッチを落とされたようである。
理由はどうであれ、私はいま釉人さんの腕のなかに納まっている。
つまり、釉人さんから壁ドンされているのだ。
状況を認めた瞬間、自分以外の他人の香りが胸いっぱいに広がっていることに気づいた。こうなっては否応にも釉人さんを意識してしまう。まともに呼吸できず、胸が苦しい。
すると不機嫌そうな声が降ってきた。
「無事か」
「……はい」
「あんたじゃねえ。カップ」
「あっ……どうでしょう……無事……だと思います」
「貸せ。そっと、ていねいに」
釉人さんの気配が遠ざかる。私の視界から、両腕が下げられたのが見えた。
私は思考停止したまま、ぎこちない動きで胸に抱いていたカップを差し出した。カップを受け取った釉人さんは、私に背を向け、どこかへと足早に去っていく。
「えっ……あの……」
急に淡白な態度へと変わってしまった釉人さんに、私は狼狽えた。そこへ工さんが駆けつけてくれ、膝を曲げて私の顔を覗き込む。
「彩さん、怪我は!」
「だいじょうぶです」
「本当にどこも痛くないですか。よかった……。カップが凶器に変わるところでした」
「逆だ逆。その女が凶器になって、大事なカップが怪我するところだった」
窓際のほうから苛立った声がした。私に向けられた言葉は、どう聞いても好意的に捉えられないずいぶんな言い草だった。
私は腹が立つよりまず戸惑ってしまった。先ほどの身を挺して私を守ってくれた釉人さんの行動といまの発言があまりにもかけ離れ、一致しないからだ。
工さんは難しそうな顔をして首を振った。
「釉人の優先順位はおかしい。とにかく彩さんが無事でよかったです。今回ばかりは釉人の行き過ぎたカップへの愛情と、俊敏な反射神経に感謝しなきゃいけませんね」
私は工さんに腕を取られて、その場を離れた。彼から解放されると、すぐに振り返ってボードを見上げる。アンティークカップたちは動揺の素振りも見せず、澄ました顔で鎮座していた。
このバリケードのようなコレクションボードから一斉にカップたちが落下していたら、店に大損害を与えただろうし、私自身も無事では済まなかっただろう。
私はいまになって事の重大さを痛感し、冷や汗をかきつつ大きく息をはいた。
「工さん、私とんでもないことをしでかしてしまいました。なんとお詫びを申し上げたらいいのか……」
「彩さん、そんなに落ち込まないでください。事前に揺れによる落下対策はしていますから。人為的な衝撃もそうですが、ここは日本。地震大国ですからね」
「以後気をつけます」
「そうしてもらえると助かります。釉人、そっちのほうはどう」
私を配慮してか、工さんはこの件についての話題は早々に打ち切り、話の矛先を釉人さんに向けた。アンティークカップをあらゆる角度からチェックしていた釉人さんは、慈しむ視線をしまい、厳しい眼差しをこちらへ向けた。
「肉眼で確認する限り破損はないけど……」
「ああよかった。それなら安心して売りに出せます」
「いやもっと丁寧に検分してみないと。それにボードのカップたちの状態も……」
「大丈夫、みんな無事です。そろそろみなさんそれぞれの仕事に戻ってください」
「おい、アンティーク屋のオーナーなら事の重大さを認識しろ!」
工さんの高らかな宣言に、釉人さんが口角泡を飛ばしつつ抗議する。だが工さんはまったく動じなかった。
「いや、この件はこれでおしまい。なぜなら釉人はもうすぐアポイントの時間だからです。大事なお得意さまをお待たせする気ですか」
工さんのひと言で、釉人さんはハッと掛け時計を見上げた。
「うっわ、もうこんな時間。電車に間に合わねえ。なあ工、頼むよ、今日は車貸して」
「無理だよ。僕、今日は歩いてきたから」
「嘘だろ! よりによってなんで今日!」
釉人さんは悪態をつきつつも、カップを両手で大事そうに包んでいる。本当にアンティークカップを大事にしているのだなと見つめていたら、彼に睨まれた。
「そこのあんた、俺がいないからってカップに触れるなよ」
「え? あ、はい……」
「あんたが来てからロクなことがない。カップたちを怖い目に遭わせるしよ」
「すみません」
「アンティークカップはガサツなあんたと違って繊細なんだ。今度こんな失態をしでかしたら……」
「釉人、遅刻だってば」
工さんの言葉に急かされた釉人さんは、なおもああだこうだと私を罵りつつ、カップをテーブルに置いて店を飛び出して行った。
ドアチャイムの音が鳴り止むと、嘘のように静けさが帰ってくる。
「見てのとおり、あいつはアンティーク馬鹿です。どうぞお気になさいませんよう」
「納得しました」
なるほど、三度の飯よりアンティークが好きと宣言するだけのことはある。常軌を逸した偏愛を前にして、彼自身が発した言葉に合点がいった。
もちろんアンティークカップの破損危機の原因を作ったのは私である。だがカップカップと商品の心配しかされないと、さすがにうんざりする。あの過剰に密着した壁ドンも、私の安否を気遣うつもりなどノミの涙程度にもない、ただただアンティークカップを守りたいがための行動だったのだ。
あの透明感のある、たおやかな所作にはもう騙されない。こうして私のなかにあった釉人への淡い幻想は入社二時間にして完全に消え、幻滅するまでに至った。